日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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ほんとうの自由(1)
★ローマ帝国は、「帝国への忠誠」を誓い、皇帝崇拝に従う限りにおいては、「パンとサーカス」という楽しみを手にすることができました。けれども、果たしてそれは「本当の自由」でしょうか。「崇拝」というのは、心の奥底の一番深いところで行われる振る舞いでしょう。その心の奥底の一番深いところで行われる振る舞いを、自分の思いではなく、命令を受けて行うとしたら、わたしたちは自分自身の一番深いところを、他人の手に譲り渡してしまうことになります。自分自身の一番深いところを他人の手に譲り渡してしまったとしたら、やがて、そんなに深くないところも、他人の意のままに操られることになってしまいます。十戒の掟で神様が語る「わたしをおいて他に神があってはならない」という教えが意味しているのは、自分の「底」に神様以外の誰かの手を入れさせてはならないということなのだと思うのです。そのようにして、自分を誰かに譲り渡してはならないということです。
★戦前の日本は、このローマ帝国と同じような状況にありました。国の主権者は天皇であり、国民は「天皇の臣民」でした。憲法も国民が議会を通じて作ったものではなく、天皇から与えられたという形を取っていました。そして天皇を崇拝することが国家によって、絶対的なこととして要求されました。国は天皇崇拝(国家神道)は宗教ではないから、たとえクリスチャンといえども、これに従わなければならないとしました。戦前の大日本帝国憲法にも「信教の自由」が定められていましたが、その文面はこういうものでした。「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」。天皇崇拝、国家神道、例えば神社参拝などを行わなければ、「臣民たるの義務」に背くことになります。そうなれば、キリスト教は国家に反逆するものとして弾圧の対象となります。しかし、戦前の日本においても、ローマ帝国においてそうであったように、多くの人々は、さほど不自由を感じずに暮らしていました。(つづく)
# by oji-church | 2016-08-24 12:27 | 牧師からのメッセ-ジ
70年という年月

★敗戦後、71年目の夏を迎えました。聖書には、ユダの国がバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々がバビロニアへ捕囚として送られた後、「七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる」という神様の言葉が記されています。神様に従うことをなおざりにしたユダの国の人々は、その代償として、70年間、国の滅びと捕囚という痛切な憂き目を見なければならなりませんでした。つまり、最初にバビロニアに捕囚として送られた人たちは、生きてもう一度、ユダの国に戻ることはできないことを意味しています。聖書が語る70年間の捕囚の期間というのは、人が一生をかけて、自分たち自身の罪と、その罪によって引き起こされた惨禍を直視して、心に刻み、そして語り伝えることで、本当の平和を願い求め、見出し、形作る者へと、わたしたち人間が生まれ変わっていく、ということを意味していのでしょう。そのような努めを重ねて、「七十年の時が満ちたならば、わたしはあなたたちをもう一度顧みる」と神様は語っているわけです。
★翻って、あの戦争から今にいたるわたしたちの暮らす国の70年は、どんなものだったでしょうか。この70年間、果たしてわたしたちは、あの戦争において犯した日本人の罪と、その惨禍を直視し、心に刻み、語り伝えてきただろうか。そうすることを通じて、本当の平和を願い求めて、見つけ出し、形作るべく努めてきただろうか。それを怠るならば、たとえ70年の年月を経たとしても、神様はわたしたちを顧みはしないだろう。
★70年という年月は不思議な感じがします。1868年の明治維新からおよそ70年後に、日本は泥沼の戦争に突入していきました。そしてその戦争が終わってから、また70年の年月が過ぎたわけです。日本人が、戦争というものの罪と惨禍を直視し、心に刻み、語り伝え、それによって本当の平和を願い求め、見出し、形作ることを怠って70年が過ぎたとき、巨大な戦争の嵐に突入していきました。いままた、同じような過ちと惨禍を経験することになるのではないかと危惧しているのです。
# by oji-church | 2016-08-17 13:56 | 牧師からのメッセ-ジ
顔の覆いを取り去って

〈主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第3章17~18節)。

★誰もが、顔の覆いを取り除かれて、自分自身の生きた生身の、裸の命を輝いて生きることができることを聖書は宣言しています。けれどもわたしたちの生きる世の中は、なかなかそのようにはなっていません。人の痛みや苦しみに共感することが少なくされ、国を隔てて対立が煽られ、その分、軍事力を頼りとし、わたしたちはますます、自分の顔に覆いをし、生きた生身の裸の命どうしに触れ合うことが難しくされていくようでもあります。国を隔てて、自分の国のことばかりを「輝かしい」もののように思いなし、互いに対立し合っている今の国々どうしの関係というのは、実は、わたしたちが自分自身の、生きた生身の、裸の命を「恥ずかしい」もののように思って、自分の顔に覆いを掛けてしまうことと裏腹に繋がっているようにも思います。わたしたちが自分自身の、生きた生身の、裸の命を「恥ずかしい」もののように思って、自分の顔に覆いを掛けてしまえばそれだけ、ひとの痛みや苦しみは、他人事となってしまうからです。
★このわたしたちの顔を覆う覆いを取り除き、誰もが神様によって与えられた〈わたし〉を生きることで、生き生きと輝いて生きることができる。そのためにイエス様はわたしたちのもとを訪れ給う。そのことを心に刻んで、なお希望を持って、神様から与えられた〈わたし〉自身を、覆いを掛けずに生きてゆきたいものです。
# by oji-church | 2016-08-03 11:13 | 牧師からのメッセ-ジ
イエスが書いた手紙

〈あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として、公にされています〉(コリントの信徒への手紙二第3章2節)。

★福音書に描かれたイエス様は一文字も文章を書いていません。一つだけ、ヨハネによる福音書の中で、姦淫の罪を犯したと言われる女性がイエス様の前に連れてこられて、律法学者やファリサイ派の人々が「こういう女は石で打ち殺せと律法の掟には書かれているけれども、あなたはどう考えるのか」と詰め寄った時に、イエス様はしゃがみこんで、指で地面に何か書き始められます。そうして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われます。けれども人々は誰も石を投げることができず、最後にイエス様もまた立ち上がって、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたと。そこでイエス様が指で地面に何を書いていたのかについては、何も語られていません。イエス様が文字で何を書かれたか、ではなく、イエス様がどのように生きられたか。そのことのほうがよほど大事だと言うかのように、です。
★わたしたちは、そんなイエス様が書いた手紙なのだとパウロは言います。一文字も書かれなかったイエス様、ただ人の痛みや苦しみや寂しさに心寄せ身を寄せて懸命に、精一杯生きたイエス様、そのイエス様が書いた手紙がわたしたち自身なのだと言うのです。そうならば、わたしたちもまた、資格証明書だとか推薦状だとか規則だとか、そんな紙に書かれた文字によって人を判断するのではなく、自分自身が日々、どのように生きているかということを何よりも大事にするべきではないかとパウロは問いかけているのです。人の痛み、苦しみ、悲しみ、寂しさに心寄せ、身を寄せて生きられたイエス様のその文字に表されないメッセージ、呼びかけが、イエス様の書いた手紙となって、資格も何も持たないわたしたち自身の生身のありのままの心に今も響いており、わたしたち自身の生身のありのままのこの体に生きているかどうかということの方が、よほど大事な事柄なのです。
# by oji-church | 2016-07-27 08:55 | 牧師からのメッセ-ジ
それはどんな「香り」か?

〈神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。〉(コリントの信徒への手紙二第2章14節)。

★ここで「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせる」と言われているのは、どうやら凱旋行進に勝軍の兵としてではなく、敗れた側の捕虜として繋がれた姿で神はわたしたちを行進に連ならせるという意味ではないかと思われます。すると「キリストを知るという知識の香り」というのは、あまり「いい香り」ではないように思われてきます。しかしこの「神様の捕虜」としての行進の中には、イエス様も共に連なっていることが含意されてもいるように思われるのです。逮捕され、茨の冠をかぶせられ、叩かれ、唾を吐きかけられ、十字架に掛けられるために引かれていくイエス様の姿がそこに重ねられているのではないかと思うのです。
★『讃美歌21』の364番の4節はこんな歌詞です。「大いなる命の主、人の目には見えねど、神の国はここにあり」。「香り」は目には見えません。けれども「香り」は大事なことをいろいろとわたしたちに思い起こさせてくれます。364番にはこのように歌われています。「強き主、母のごと、すべてのものを支え、昼も夜もはぐくむ主、いざホサナわが母。やさしき父のごと、その慈しみ絶えず、病む者らを抱きたもう、いざ、ホサナ、わが父。年老い、弱れども、静かな配慮に満ち、知恵と理解、限りなし、いざホサナ、老いし主。若さにかがやく主、正義を叫び求め、われを忘れ、戦う主、いざ、ホサナ、若き主」。ここで母として、父として、老人として、そして若者として語られる主、イエス様の姿は、思い描いてみればどれも、香水のようにいい匂いのするイエス様ではないように思われます。どちらかと言えば、汗の匂いがしてくるようでもあります。しかしそのイエス様の汗の匂いこそが、神に献げられる良い香りなのでしょう。
# by oji-church | 2016-07-20 09:17 | 牧師からのメッセ-ジ
「痛み」の向こうの「ゆるし」へ

〈彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた〉(イザヤ書53章5節)。

★最近テレビを点けると、芸能人や有名人の不倫や不祥事が次々と取り上げられて、それを追いかけ回し、騒ぎ立てる様子に出くわして、うんざりしてテレビを消すことが続いています。それは確かに問題ある振る舞いではあるでしょう。けれども、それを追いかけ回し騒ぎ立て断罪する声は、いずれも他人事なのです。その問題ある振る舞いをわがこととして受けとめて、自分自身も背負っている人間としての「悲しみ」として受けとめようという人は一人もいません。そうして、しばらくしてまた別の目立った事件が起これば、すぐに忘れ去られてしまいます。
★人の問題ある振る舞いを、しばらくして忘れ去り、それで問題としなくなる。それを「ゆるし」と呼ぶのなら、それは恐らく本当の「ゆるし」ではないでしょう。本当の「ゆるし」とは恐らく、人の問題ある振る舞いを、自分自身の「痛み」として受けとめて、そしてその「痛み」が自分自身も人間として生きる中で背負っている「悲しみ」に結晶する時、そのとき初めて本当の「ゆるし」というものがわたしたちにもとを訪れるのでしょう。
★イエス様は人の問題ある振る舞いに対して、それを他人事とはされない。それを自分自身の傷、痛み、悲しみとして受けとめて、それを自分自身のこととして担うことを通じて、本当の「ゆるし」を導き出されるのです。ゆるしというのは、痛みの向こうにあるものなのだということ。この「痛み」「悲しみ」ということを見ない「ゆるし」は、かえって人間同士をバラバラの他人事、、他人同士に遠ざけてしまうことでしょう。
# by oji-church | 2016-07-12 11:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「悲しみ」を「喜び」へ

〈わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした〉(コリントの信徒への手紙2第2章4節)。

★この世に生きて、人と関わり触れ合って生きる時、時にわたしたちは人との対立を経験しなければなりません。人と対立してわたしたちの心には怒りの火が灯ります。その怒りにまかせて、相手を打ちのめすことができれば、それなりに気分は晴れるかもしれません。けれどもそれは、神様がこの世を造られ、命を造られた目的にかなったことだろうか。神様はわたしたちの怒りを満足させるためにこの世を造られたのか、命を造られたのか。そうではない、神様は命が創られたとき、「見よ、それは極めて良かった」という喜びを声を挙げられました。わたしたちの命は、お互いにお互いが生きていることを喜び合うことへと向かうように造られたのでしょう。そのようにして造られたこの世界にあって、人間同士、わたしたちが誰かと対立し合うことは、怒るべきことではなく、むしろわたしたちにとって「悲しみ」であり、「苦痛」なのだ、ということです。
★「見よ、それは極めて良かった」という神様の喜びの声と共に始まったこの世界において、人間同士が対立し合うこの「悲しみ」「苦痛」は、必ずもう一度、「喜び」へと回復されるものでなければならないし、必ずもう一度、「喜び」へと回復されるはずなのだ、ということ。パウロは、コリントの教会の人々に向かって、そのことをいつも心に留めていてほしい、と呼びかけているのではないかと思うのです。
# by oji-church | 2016-07-06 10:10 | 牧師からのメッセ-ジ
「神の国=小さなものの国」(2)

★わたしたちの世の中とは逆さまの「神様の国」って、いったいどんな場所なのでしょう。『花さき山」という絵本があります。“あや”という女の子が山で道に迷って“山ンば”に出会います。そこはいちめんに美しい花の咲く野原でした。花は、ふもとの村の人が、やさしいことを一つすると一つ咲く花です。山ンばは言います。「つらいのを しんぼうして、じぶんのことより ひとのことを おもって なみだを いっぱい ためて しんぼうすると、 その やさしさと、けなげさが、こうして 花になって、さきだすのだ」。でも村にもどってあやが大人にこのことを話しても、大人は馬鹿にして信じてくれません。あやは“花さき山”をさがして、もう一度山に登ってみましたが、見つかりませんでした。でもあやは、その後、ときどき思うのです。「あっ! いま 花さき山で おらの 花が さいてるな」。
★イエス様の言われる「神様の国」というのは、もしかしたら、この花さき山のような場所かもしれないと思うのです。人が小さなもののことを大事に思うとき、花が一つ咲く花さき山です。それは目には見えないのだけれども、小さい人たちの心の中にあって、いつも小さい人たちのそばにある場所、そこで神様が一人ひとり、小さい人たちを大事に思いながら、花を一つひとつ咲かせている場所です。
★今日は、子どもの祝福とをします。それは、大人が、小さい人たちから「神様の国は、この小さい人のそばにあるのだよ」ということを、もう一度教わるということです。今日は、小さい人たちが、僕らおとなの先生です。世の中とは逆さまかもしれませんが、この世の中とは逆さまなのが「神様の国」ですから。(6月12日「花の日」礼拝説教より)
# by oji-church | 2016-06-29 12:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「神の国=小さなものの国」

〈はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない〉(マルコによる福音書10章15節)

★イエス様がいるところに、小さな子どもたちを連れてきた人たちがいました。でも、イエス様のお弟子さんたちは、「イエス様は偉い人なんだから、そんな小さな子どもの相手なんかしてられないんだ、子どもと遊んでなんかいられないんだ、あっちえ行け」と言って、子どもたちを連れてきた人たちを叱ったのです。ところがイエス様は、そんなふうに言うお弟子さんたちを叱って、子どもたちを呼び寄せて、抱き上げて、こう言いました。「子どもたちに『あっちへ行け』なんて言ってはいけない。神の国は、このような小さな人たちのものなんだ。このような小さな人たちを大事にしない人は、神の国にはとうてい入ることなんて出来ないんだ」と、言いました。
★「神の国は、小さな人たちのもの」。「小さな人たちを大事にしない人は、神の国には入れない」。そういうふうにイエス様は言われます。世の中では、強い人や偉い人がこの世の中を自分たちのもののように動かしています。偉い人や強い人しか入れない場所もたくさんあります。国会の中とか、VIPルームとか。でも、神様の国ではまったく反対で、神様の国は小さい人のもので、小さい人を大事にする人しか神様の国には入れないと言うのです。イエス様はよく、こういうふうに世の中とは逆さまのことを言います。(6月12日「花の日」礼拝説教より。つづく)
# by oji-church | 2016-06-22 12:09 | 牧師からのメッセ-ジ
 「わたしの軛(くびき)」(2)

★(承前)誰かが苦労や悩みを背負っている時、その人のもとにはイエス様の「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という慰めの呼びかけが響いています。しかし、そのイエス様の呼びかけは、悩み苦しみを負っているその人だけに呼びかけられているのではないのです。苦労や悩みを負っている人の傍らにいるわたしたちにも、イエス様の呼びかけは響いているのです。「わたしの軛を負い、わたしに従いなさい」というイエス様の呼びかけが、です。
★わたしたちの傍らに、苦労や悩みを負っている人がいる時、わたしたちはその人の苦労や悩みを共にしなさいと、イエス様から呼びかけられているのです。そのイエス様の呼びかけに応えて、わたしたちが傍らにいる人の苦労や悩みを共にする時、わたしたちは共にイエス様によって呼びかけられる者、共にイエス様によって、「疲れた者、重荷を負う者は、わたしの元に来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけられる慰めを受ける者となるのです。
★イエス様の慰めというのは、わたしたちの苦労や悩みと別な場所にあるのではありません。わたしたちは苦労や悩みの中でこそ、イエス様によって「わたしのもとに来なさい」と呼びかけられ、語りかけられ、「わたしと共に軛を負う者」として愛おしみを注がれている、そのように慰めを受けているのでしょう。そしてまた、わたしたちが誰かの苦労や悩みを共に分かち合う時、わたしたちは共にイエス様に結ばれて軛を負う者として、イエス様の慰めの呼びかけを受ける者とされます。
★苦労を共にすることは、慰めを共にすること、イエス様の呼びかけを一緒に受ける者とされること。どうか、この福音を受けとめて、隣り人の苦労を分かち合うことを通じて、宣教の働きを担ってゆきたいと願います。。
# by oji-church | 2016-06-15 15:01 | 牧師からのメッセ-ジ
 「わたしの軛(くびき)」

〈疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。〉(マタイによる福音書11章28~29節)

★ここで言われている「軛」とは、農耕に使われる牛に付ける軛だそうです。それは、一本の棒を二頭の牛の首のところに掛けて、二頭の牛が並んで鋤を引くためのものです。ですからイエス様が「わたしの軛を負いなさい」と言われるのは、イエス様と並んで、一つの軛に結ばれて、共に歩むということです。
★わたしたちが苦労や悩みを背負う時、わたしたちはこの一つの軛によってイエス様と共に結ばれて、共に歩んでおり、そこには「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエス様の呼びかけが響いているのだということです。(つづく)
# by oji-church | 2016-06-08 09:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「沖縄の怒り」

★沖縄での元米軍兵士による女性殺害事件に関わって、テレビの報道では繰り返し「沖縄の怒り」と言われますが、「日本人の怒り」とは語られません。報道は「沖縄の怒り」と語ったそのすぐ後に、政治日程の話を始めます(ある閣僚は「最悪のタイミング」などと語ったと言われています。他に何か「よいタイミング」があったのでしょうか)。恐らくそこには「日本人の怒り」は無いのでしょう。
★在日米軍の74%が日本の国土の0.6%の沖縄に寄せ集められている現状は語られますが、それに対して日本人は何も行動を起こさずに来ました。そして状況は何も変わらない中、またあのような事件が置きました。「沖縄の怒り」がそのような「日本人」、つまりわたしたち自身にこそ向けられていること(報道が語らないこと)にわたしたちは気づく必要があります。他者を犠牲にしている自分自身の姿に。自分の利便のために他者を犠牲にして省みない在り方は、人間の在り方として最悪です。そこには人間を「同じ人間」として見ることをやめてしまう、人間性の崩壊があります。
# by oji-church | 2016-06-01 11:58 | 牧師からのメッセ-ジ
「聞く」力としての聖霊

〈一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉(違う言葉―私訳)で話しだした〉(使徒言行録2章4節)

★牧師のくせに喋るのが苦手です。とっさに喋る自分の言葉に自信がありません。人前で喋らなければならないときには、苦労して原稿を用意します。牧師さんにはおしゃべり上手な人が多いように思いますが、その中でわたしは喋るのはどうも上手でないと思わざるを得ません。そうはいっても思い返すと、案外いろんな場面で結構好き勝手喋っている自分がいます。後になってそんな自分にとても嫌気がさすのですが。
★喋ることが得意な人も苦手な人も、実は誰もがいろいろなところで言いたいことを言っている。そのときわたしたちが話しているのは恐らく、自分を真ん中に据えたその時々の自分の「気分」のようなもの、気分がいいか悪いか。もちろん、自分の気分を語る時があっても一向に差し支えない。だけれども、聖霊がわたしたちに語らせるのは、普段わたしたちが喋る言葉とは「違う言葉」だと言うのです。
★それはどんな言葉か。それは自分を真ん中に据えたのではない言葉、です。自分を真ん中に据えない時、わたしたちがまずすることは、自分以外の人の発する声に耳を凝らして「聞く」ことです。聖霊というのは、わたしたちが言葉を語ることが出来るようにさせる力なのだけれども、でも実は、その根本にあって一番大切なことは、「語る」こととは裏腹の「聞く」ことではないかと思うのです。
★神様はわたしたちに聖霊を送り、声なき人の声、物言わぬ人の悲しみに、謙虚に、静かに、注意深く耳を凝らし、耳をそばだて、耳を傾けて、「聞く」力を、わたしたちに授けて下さいました。そうして、自分を真ん中に据えるのはなくて、物言えぬ人、声なき人に代わって、その物言えぬ悲しみ、声なき悲しみを受けとめて、それをわたしたちの口と声とで言葉に紡ぎ出す力を与えて下さったのです。
# by oji-church | 2016-05-28 10:23 | 牧師からのメッセ-ジ
くるあさごとに

★讃美歌に「来る朝ごとに」という歌がありますが、岸田衿子さんという詩人の詩にも同じく「くるあさごとに」という詩があります。「くるあさごとに/くるくるしごと/くるまはぐるま/くるわばくるえ」。来る朝ごとに、くるくる生きているわたしたちですが、時に「くるわばくるえ」と言って、この“くるくる”から一歩退いて、自分自身を見返すことをしなければ、本当に大切なものを見失って、まさにただ歯車の一つにようになって、ただただ時代の流れに流されて動いていくだけの者になってしまうのかもしれません。ときにわたしたちには、この歯車を狂わせることが必要なのだと思うのです。
★イエス様が人々のただ中に現れておこなったのは、ある意味で、社会の歯車を狂わせることでした。人間みんなが目の前に見えることだけを追い求める中で、隙間のない歯車のように組み合わせられていきます。やがて、人間は神様から祝福されたいのちを与えられて生きている存在だということが忘れられて、歯車として噛み合わずに役に立たない人間は、壊れた道具のようにうち捨てられてしまいます。歯車が狂うと、隙間が生まれます。その隙間から、わたしたちにとって本当に大切なものは何かということが見えてくるのです。わたしたちは命を与えられて生きている者だ、ということ、どの人間も、愛されて、命を与えられ、その命に注がれる愛おしみは、人がいのちを終えてもなお続くものなのだということ。
★歯車の間に隙間を作りなさい、というのがイエス様が人々に呼びかけたことでした。そのために、わたしたちは「くるしゅう(週)ごとに」集まり、礼拝をやっているのではないでしょうか。それを忘れると、礼拝もおそらくはいつのまにかぎっちりと噛み合わせられた歯車の一つとなってしまうでしょう。神様を賛美し、祈りを合わせ、聖書の言葉に耳を傾けるこの時を、イエス様が作りだした歯車の隙間から響いてくる、わたしたちにとって本当に大切な声と言葉を受けとめる時として、大事にしていきたいと思うのです。
# by oji-church | 2016-05-18 11:31 | 牧師からのメッセ-ジ
二階建ての信仰

★クリスチャンで経済学者であられた隅谷三喜男先生は、日本のキリスト教は「二階建て」になっているのではないかと指摘しておられます。日本の牧師や熱心な信徒は一生懸命、欧米から伝えられた神学を勉強しています。その一方で日常の生活を送っているわけですが、この日常の生活においては、勉強した神学とはまったく関係のない生活を営んでいる。それは、キリスト教の「教え」に従うというよりも、日本的な現世主義の幸福志向、この世での無病息災、商売繁盛のようなことを願い求めることが、キリスト教の信仰のようになっていると言うのです。つまり、神学の勉強は家の二階の部屋でやっており、一階では日本的な価値観、生活観、人生観、世界観そのままの生活を送っている。そしてこの一階と二階を繋ぐ階段がない、と言うのです。
★この信仰と生活の関係という問題は、日本でキリスト教は始まってから今に至るまで、ずっと大きな問題であり続けていると思います。日本の社会は、戦前に作られた天皇を中心とした国作りとその価値観が現在も空気のように息づいています。それとは違うキリスト教の考え方に従って日常生活を生きていくというのは簡単なことではありません。日本社会一般の価値観に馴染んで生活をしていったほうが楽なのです。神学の勉強は一生懸命します。しかしそれが日常の生活と結びつかない。すると結局、日本社会一般から見れば、キリスト教というのは、どこか人と違ったことを言っているようだけれども、実際には普通の日本人と何にも変わらない。取り立てて見るべきところもない、ということになってしまいます。
★日本にはキリスト教が根付きにくい環境があることは確かなのですが、それと同時に、キリスト教の方でも、その環境に怯んでしまい、萎縮して過度に日本の社会の価値観に馴染んでしまうことで、なおさらキリスト教が根付かなくなってしまうという面があるのではないかと思うのです。
# by oji-church | 2016-05-11 12:41 | 牧師からのメッセ-ジ
命の尊厳を願う

〈イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。……イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った〉(マルコによる福音書10章36~51節)

★願い事をするという点では、二人の弟子たちと盲人バルティマイの間に違いはありません。でも一方に対してイエス様は「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」とたしなめ、他方に対しては「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って励まし、祝福します。いったい何が違うのか。
★わたしたちはみんな、命を与えられてここに生きています。それは限りある命で、この世界全体から見れば、一つ一つは小さな命に過ぎませんが、しかし、一つひとつの命には尊さ、尊厳が与えられています。イエス様が「空の鳥を見なさい。あなたがたは鳥よりも価値があるものではないか。野の花を見なさい。あなたがたはなおさらではないか」と言われたようにです。けれどもわたしたち人間は時に、この命一つに与えられた尊厳以上のものを求めようとします。それは、権力、財力、社会的地位、軍事力等々。弟子たちが求めたのは、そのような人間の命一つひとつに与えられた尊厳以上のものでした。
★一方、バルティマイが求めたのは、自分の命に与えられているはずの尊さそのものでした。目が見えないことによって、人間以下のもののように貶められ、道端に放り出されていたバルティマイは、自分の命一つの尊厳を求めて、たとえ叱られ遠ざけられようとしても、声を挙げ続け、叫び続けた。頑張ったのです。それに応えてイエス様は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて彼を励まし、祝福して、彼の命の尊さ、尊厳を救い出したのでした。
# by oji-church | 2016-05-04 15:45 | 牧師からのメッセ-ジ
「みんなの力」をどう出し合うか

★都会の問題はやはり、人と人との「心の距離」があまりにも遠いということではないかと思います。そこら中にコンビニ、スーパーがあり、ネット通販を利用すれば、家の外に出かけなくても、翌日には、早ければその日のうちにも、家に居ながらにして欲しいものを手に入れることができます。当然、その間、誰とも触れ合いませんし、言葉を交わすこともありません。そこには、人に煩わされずに自分にいいように生活できる気安さがあるのかもしれません。都会というところは、そういう気安さを求める人たちが集まる場所になっています。
★同時に近年、個人のプライバシー、個人情報の保護ということも厳しく言われるようになりました。牧師として病院にお見舞いに行ったところ、家族ではないからと、病室を教えてもらえなかったり、転院先の病院を教えてもらえなかったりして、困ったことがありました。プライバシー、個人情報の保護という見方からすると、一人ひとりの個人が人と繋がらずにバラバラに生きていることは、あたかも「よいこと」であるかのように見なされることになります。
★個人がバラバラに生きていくことが「よいこと」と見なされる社会の中で、病いやしょうがいを負った人、貧しさの中にある人、そうした弱い立場に置かれて、一人では立ち上がることが難しい状況に陥った人は、助け手を見つけることできずに、ますます厳しい状況に追い込まれることになります。個人が個人として大切に守られるということはとても大事なことです。でも、一人だけでは、個人を守ることができません。もともと民主主義というのは、個人を個人として守るために、「みんなの力」をどう出し合うのか、ということを考えに考えた末に編み出された仕組みです。個人個人のその人らしさを守るために、「みんなの力」をどう出し合うかということを、国や人任せにせずに、自分自身の事柄としてもう一度考え直してみるべきところに、いま、わたしたちは置かれているのではないかと思うのです。
# by oji-church | 2016-05-04 15:43 | 牧師からのメッセ-ジ
お金とこころ

★少し前までは、お金で何でも解決できると考えるのは、いやらしいこと、浅ましいことだという感覚が、少なくとも庶民の間にはあったように思うのですが、今では、いかにも「お金さえ積めば、誰も文句はないだろう」と言わんばかりの政府の経済政策に多くの人がこぞって期待を寄せる有様になっています。、お金の力によってどんな問題を解決できるとわたしたちが考える時、わたしたちはお金を生み出してくれると思える人の言うことを、ひたすら聞くしか無くなるでしょう。たとえその人がよからぬことを企んでいたとしてもです。そのときには、きっとわたしたちは「よからぬこと」を、「よからぬこと」とも思えなくなってしまっています。なぜなら「お金が何でも解決してくれる」のですから。戦前の日本がまさにそうでありました。昭和恐慌に見舞われる中、「満蒙の特殊権益」やがては「大東亜共栄圏」なるものを死守しようと、戦争は「よくない」と思いながらも、果てしない戦争に突き進んでいったのです。
# by oji-church | 2016-04-21 09:45 | 牧師からのメッセ-ジ
この心にイエスを宿して

★マルコによる福音書で空の墓の場面に出くわした女性たちは、別の場面で「イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた」と語られています。それは華々しく福音を語る働きではなかったかもしれませんが、心を込めて体を動かす働きであったことでしょう。それがここでは「世話」という言葉で語られています。
★心を込めて体を動かす。そんなわたしたちの働きの中に、復活されたイエス様が宿って、今も生きておられる。それが、本当の意味での復活ということなのではないかと思わされます。復活のイエス様と出会うということ、それは、必ずしも、自分自身の外で起こる目に見える形での出会いばかりでなく、わたしたち自身のこの心、この体にイエス様を宿して、わたしたちが自分の人生を、自分のいのちをもう一度生き直していく中で起こってくることではないかと思うのです。
# by oji-church | 2016-04-14 13:01 | 牧師からのメッセ-ジ
心の中にイエスを生かす

★灰谷健次郎さんが書いた『太陽の子』という作品にこんな言葉が出て来ます。「ほんとに得手勝手な人間になれたら、人間ちゅうもんはきらくなもんやな……と、ふうちゃんは思った。いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのやないやろかと。いい人というのは、はじめからいい人であったわけではないのだろう。」
★自分の心の中に自分以外の人間が住んでいる。そんなことを思ったことがあるでしょうか。牧師という仕事をしてきて、何人もの人のお葬式をしてきました。先週も、この教会にずっと昔から通っていた96歳のおばあさんが亡くなってお葬式をしてきました。今は目に見える姿ではお会いできません。でも、目をつぶって思い出せば、心の中にそのおばあさんが笑っている顔が浮かび上がってきます。お話しようと思えば、お話しだってできます。そんなふうに、わたしのこの心の中に、亡くなったその人が今も生きていることを感じることができます。
★「生きている人の中に死んだ人もいっしょに生きているから、人間はやさしい気持を持つことができるのよ。」(『太陽の子』)亡くなった人が精一杯生きたことを思い出して、わたしも精一杯生きようと思う時、自分以外の人を大切にしようという気持ちが生まれてきます。あのお墓の中で「ガリラヤへ行けば、もう一度イエス様にお会いできる」と天使が言ったのは、そういうことではないでしょうか。「精一杯生きられたイエス様を、あなたの心の中に生かしていきなさいよ」と。わたしたちは、わたしたちの心の中に、イエス様を住まわせているでしょうか。イエス様を生かしているでしょうか。(2016年3月27日イースター合同礼拝説教より)
# by oji-church | 2016-04-06 09:23 | 牧師からのメッセ-ジ