不確かな出会いの中に(2)
★生身の人間というのはとても不確かなものです。人間は間違えるし、言っていることとやっていることが違ったり、ウソをついたり、裏切ったり、傷ついたり病気になったりして、やがて皆、息絶えていなくなってしまう。そんな人間と出会い付き合いは、思い通りにならない苦労が多く、当てにならないものです。それに比べて、パウロが探求していた文字に書かれた律法の掟は、確かと思えるものです。パウロという人は、そんな確かさを求めて律法学者となり、その確かさに基づいてキリスト教徒の迫害にも携わっていたのではないかと思うのです。
★でもキリストから「なぜあなたはわたしを迫害するのか?」と問われた時、パウロは、自分の前に、自分の思い通りにならない存在があって、でもその自分の思い通りにならない不確かな存在が、それでも自分にむかって「あなた」と呼びかけてきて、自分と出会い、つながって、共にあろうとしている。そのことの重み、真実さを初めて経験したのではないかと思うのです。生きるとは、もろくて不確かで、思い通りにならないものと出会い、受けとめ、つながって、共に歩んでいくことに他なりません。
★神様は、全ての人、一人ひとりに手を差し出して、その不確かさ、もろさ、はかなさ、頼りなさ、心許なさ、全部を受けとめて、なお共に、神様の御国に到るまで、共にあろうとされる。だから、わたしたちも、不確かではあっても互いに生身の手を取り合って、信頼を形作り合っていこう。それがパウロが宣べ伝えた福音、そして信仰というものだったのではないかと思います。福音とは、わたしたちの不確かさ、もろさ、はかなさ、頼りなさ、心許なさにもかかわらず、神様がわたしたちを信頼し、どの人にも手を差し伸べ、み国に到るまで、共におられるということ。信仰とはその神様の信頼を受けとめて、多様なわたしたちの間に信頼を築くために、裸の不確かな手を差し出し合い、握り合うことなのでしょう。