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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
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不確かな出会いの中に(2)

★生身の人間というのはとても不確かなものです。人間は間違えるし、言っていることとやっていることが違ったり、ウソをついたり、裏切ったり、傷ついたり病気になったりして、やがて皆、息絶えていなくなってしまう。そんな人間と出会い付き合いは、思い通りにならない苦労が多く、当てにならないものです。それに比べて、パウロが探求していた文字に書かれた律法の掟は、確かと思えるものです。パウロという人は、そんな確かさを求めて律法学者となり、その確かさに基づいてキリスト教徒の迫害にも携わっていたのではないかと思うのです。

★でもキリストから「なぜあなたはわたしを迫害するのか?」と問われた時、パウロは、自分の前に、自分の思い通りにならない存在があって、でもその自分の思い通りにならない不確かな存在が、それでも自分にむかって「あなた」と呼びかけてきて、自分と出会い、つながって、共にあろうとしている。そのことの重み、真実さを初めて経験したのではないかと思うのです。生きるとは、もろくて不確かで、思い通りにならないものと出会い、受けとめ、つながって、共に歩んでいくことに他なりません。

★神様は、全ての人、一人ひとりに手を差し出して、その不確かさ、もろさ、はかなさ、頼りなさ、心許なさ、全部を受けとめて、なお共に、神様の御国に到るまで、共にあろうとされる。だから、わたしたちも、不確かではあっても互いに生身の手を取り合って、信頼を形作り合っていこう。それがパウロが宣べ伝えた福音、そして信仰というものだったのではないかと思います。福音とは、わたしたちの不確かさ、もろさ、はかなさ、頼りなさ、心許なさにもかかわらず、神様がわたしたちを信頼し、どの人にも手を差し伸べ、み国に到るまで、共におられるということ。信仰とはその神様の信頼を受けとめて、多様なわたしたちの間に信頼を築くために、裸の不確かな手を差し出し合い、握り合うことなのでしょう。



# by oji-church | 2021-11-17 09:11 | 牧師からのメッセ-ジ

不確かな出会いの中に(1)

〈「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」〉(使徒言行録9章4節)

★パウロは元はユダヤ教の指導者として、ユダヤ教から異端と目されてきたキリスト教を迫害する立場にいました。けれどもある時、幻の中でキリストと出会うのです。そのキリストは、こう問いかけます。「なぜわたしを迫害するのか?」と。これはわたしの勝手な想像に過ぎませんが、パウロはこのキリストの問いかけに、究極的に、答えられなかったのではないかと思うのです。

★ユダヤ教の指導者としてパウロにはいくらで答えようはあったと思います。曰く、キリスト教徒はイエスなどという、十字架で処刑された犯罪人=罪人を、あろうことか救い主として崇めて、神を冒涜している。さらにユダヤ教の律法の掟をいいかげんに扱って、ユダヤ教の根幹をゆるがせにしようとしている、等々。けれども、幻の中でキリストから面と向かって、「なぜあなたはわたしを迫害するのか?」と問われた時、パウロはそれに答えることができなかった、のではないかと。

★パウロはそれまでユダヤ教の律法学者として、文字に書かれた事細かな律法の掟を詳細に調べ、探求してきたことだろうと思います。それを知り尽くし、守り尽くすことが正しい信仰であり、正しい生き方であると心得てきたのです。だからこそ、それをないがしろにするキリスト教を許すことができなかったのです。しかしそうして自分が迫害してきたキリスト教徒のその核心部に居るキリストから、幻であったとしても面と向かって「なぜ、わたしを迫害するのか?」と問い返されるという経験は、パウロがそれまで経験したことのない種類の経験だったのではないかと思うのです。どんな経験かといえば、「出会う」という経験。生身の人間と言いますか、生身の「存在」と「出会う」という経験です。(つづく)


11月7日の週報コラム「ひだりて」_e0088612_13334134.jpg
教会近くの路上で小さい秋を見つけました。


# by oji-church | 2021-11-09 13:34 | 牧師からのメッセ-ジ

信仰は「聞く」ことから(2)

〈実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。〉(ローマの信徒への手紙10章17節)

★福音書を読むと、そんな小さな人たちの声になるかならないかの小さな声に、よく耳を傾け、それを受けとめて応えるイエス様の姿が各所に語られています。12年間出血が止まらず、群衆の中に紛れ込み、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って、後ろからそっとイエス・キリスト様の服に触れた女性。イエス様の前に来てひざまずき、「御心なら、わたしを清くすることがおできになります」と願い出た、皮膚病を患う人。「かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と叫び訴える悪霊に取りつかれた人。「何をしてほしいのか」というイエス様の問いかけに「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えた目の見えない人。イエス様は、そんな小さな人々のかすかな声を精一杯、聞き受けたのでした。イエス様もまた、その信仰は「聞く」ことに始まっていたのです。

★ここで言われている「キリストの言葉」とは、厳密に聖書に文字で表された「キリスト教の言葉」で、これを聞かない者はキリスト者ではなく、救われない、なんていうように、人を分断するものではなく、むしろ、イエス様ご自身が受けとめられた、小さな人々の小さな言葉、かすかな声を含んでいると思うのです。その中に神様からの声=福音は、響き渡っている。そしてその声は、クリスチャンであってもなくても、耳をそばだてれば誰でも聞くことができるはずなのです。逆に、自分には信仰がある、自分は選ばれた、救われる資格を持っている、なんて変な自信を持つことで、むしろその声は聞こえなくなってしまうのかもしれません。この小さな、かすかな、しかし、世界の果てまで、いたるところに響き渡っているこの福音に耳をそばだてて、それを受けとめる者でありたいと願います。


10月31日の週報コラム「ひだりて」_e0088612_14270251.jpg
子どもの教会のスタッフの方が作ってくださったどんぐり人形たち。秋の日差しにひなたぼっこです。


# by oji-church | 2021-11-03 14:28 | 牧師からのメッセ-ジ

信仰は「聞く」ことから


〈実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。〉(ローマの信徒への手紙10章17節)

★人生の半分近くを、日曜日ごと説教をしながら生きてきましたが、いまだに何をどう語ったらいいか戸惑い、うろたえながら準備しています。この聖書の言葉を読みながら、神学校の説教学の授業で教えられたことを思い出しました。

★関田寛雄先生は、川崎の多摩川河川敷とその周辺に暮らす在日韓国・朝鮮の方々と共に、河川敷に教会を建てて牧会をされていました。その先生が繰り返し語られたこと。説教は、牧会、すなわち平日に人々と出会い、触れ合い、語り合うことを通じて人々を気遣っていく働きと、聖書を介して行き来するものだ(説教学的循環)と。「集会づくめの牧師の生活である。悪くするとこれらの集会をうまくやりくりして『こなして行く』事が牧会であるかの錯覚に陥りがちである。しかし本当の牧会の内容は『出会い』にあると筆者は考える。ひとりの病む者、心に傷を負った者、家庭崩壊の苦悩にある者、いじめや差別に苦しむ者などなどの『ひとり』との出会いに勝って大切な牧師の務めはない。……このような『出会い』は牧師が先ず誠意をもって『聞く』事に集中する所から始まるであろう。……それは時間を要する営みである事は言うまでもない。しかしそこに真実な『出会い』と信頼の生まれることに勝って豊かな祝福はないのである」。(「説教学的循環を生きる」『「断片」の神学』所収)。

★牧師はまた事務的な仕事もしっかり取り組まなければならない。そこで牧師は自らの人間的限界に直面し、実存の変革を迫られる。つまり自分の欠けや破れを自覚して、助けを必要とする「小さな自分」へと変えられていくということでしょうか。そうした自己変革こそが、日曜日の説教の新しい「言葉」の源泉となると言うのです。「キリストの言葉」は聖書の中と共に、巷の「出会い」の中に響いていることを想います。


# by oji-church | 2021-10-27 09:13 | 牧師からのメッセ-ジ

人の救いと能力主義(2)


★(承前)「『だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることだ」。この社会では「あいつは能力が足りないから、デキナイから、切り捨てられるだろう」。そんな眼差しで人が判断される。しかしイエス様は自ら罪人として十字架に掛けられて殺されることで、社会から切り捨てられる命の姿を自ら生き通された。そのような生き/死にざまによって、社会から切り捨てられる人も、神様によって愛された者として救いへと導いた。「だれが底なしの淵に下るか」と問うことは、そんなイエス様の働きを無にすることではないか。

★一方には、人間の価値を能力で判断し、人を認め、また切り捨てる、そんな社会の眼差しがある。他方には、命そのものの根本的な尊さに眼差しを注ぎ、命が救われることを何よりもよしとする。その二つの眼差しがここには示されています。

★一人ひとりの人の命を見つめ、その命が傷つけられ、失われることに涙し、怒りや悲しみを胸に湛える。そんな眼差しを、今このコロナ禍の中でわたしたちは失いつつあるのではないか。人の表面的な能力だけを見て、誰が選ばれ救われ、誰が切り落とされるか、そんなことにばかり目を見張るような社会になってはいないか。

★イエス様は、汚れて不要なものとして捨て去られ、底なしの淵に落とされようとする命に寄り添い、十字架の死にいたる命を生き通された。そして死を越えて甦り、命そのものにどこまでも慈しみの眼差しを注ぎつづける神様の姿をわたしたちに示されました。この、命そのものに注ぐ、神様の慈しみの眼差しを、もう一度取り戻すことができるように、イエス様の生きざまに向き合って歩んで行きたいと願います。


# by oji-church | 2021-10-20 09:18 | 牧師からのメッセ-ジ