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あじさいの花

関東地方もとうとう梅雨に入り、心晴れのしない天気が続いています。でも、こんな気候の時にも、探せば、心晴れるものは見つけられます。飛鳥山裏の電車道には、あじさいがたくさん咲いています。薄曇りの空の下にも、あじさいの色はよく映えるものですね。(大久保)
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# by oji-church | 2006-06-12 14:09 | みちばたの教会
教育基本法「改正」案を読む(3) 「国を愛する」を考える③

神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20~21)
「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ3:20)


★「国」=「国家」というのが、あくまで富を集めてきて、それを分配する目的で、人為的に造られたものだとするなら、「国」自身が「国を愛せよ」と言い立てることの目的は、やはりあくまで「国」に富を集めるための侵略や収奪・搾取に人々を駆り立て、人々に犠牲を強いることより他にはありません。どんなにそれを「文化」や「伝統」で覆い隠そうとしても、「国」が自ら言い立てる「国を愛する」ということは、やがて人々を戦争や競争に駆り立てることに、必ず結びついていきます。
★それでは、「国」を愛することは、どうしたって不可能なのでしょうか。それでも「国」を愛せる可能性はあると思います。それは、あくまで「生身に触れ合う関係を大切にしていく」ということです。わたしたちが愛すべき人間同士の結びつきというのは、ある範囲を区切って「ここからここまで」というものではないのです。それよりもわたしたち一人一人が生きているその場で出会い、経験する結びつきそのものを愛するということです。
★「国」(=人々の結びつき)というのは、あくまで「あなたがたの間にある」と聖書は語ります。決して自分の生きる場をある「範囲」で区切らずに生きていくならば、わたしたちは様々な人々と出会い、触れ合うことになります。日本人もおり外国人もいます。よき伝統を分かち合う関係を持てることもあれば、かつてや今の日本の「国」の誤りを指摘する人もいます。でも、そういう出会いを一つ一つ、そのたびごとに大事にしていくということです。
★一つ一つの生身に触れる出会いをそのたびごとに大切にしていくことを通じて、初めてそこに「愛する」関係が生まれてきます。その場所こそが「わたしたちの本国」であるということ。決して「国」や「文化」や「伝統」が先にあるのではなく、わたしたちが国籍などに関わりなく、生身に触れる人間と人間の出会いを、そのたびごとに大切にしていく場所に、わたしたちが本当に愛する、わたしたちの「生き場」が生まれてくるということでしょう。
# by oji-church | 2006-06-12 13:49 | 牧師からのメッセ-ジ
教育基本法「改正」案を読む(2)「国を愛する」を考える②
★「国」=「国家」というのは、あくまで富を集めてきて、それを分配する目的で、17~18世紀頃のヨーロッパで人為的に出来上がったものに他なりません。富を集めるためには、やはりそれをどこかから持ってこなければなりません。19世紀から20世紀前半にかけて、富は「帝国主義」という在り方によって、アジアやアフリカからヨーロッパ、アメリカ等に集められました。植民地とされたアジアやアフリカの人々は、これによって大変苦しめられたのです。
★日本はこの欧米の帝国主義の触発されて、明治維新を行い、遅ればせながら帝国主義に踏み出して、中国、朝鮮、台湾を始め、アジアへの侵略に乗り出していきました。そこでも多くの人々が日本による侵略によって、土地や故郷や家族や命を奪われて大いに苦しめられたのです。こうした国家の在り方は、現在も
★このように、あくまで富を集める目的で人為的に造られ、やがて侵略や搾取・収奪に至る「国家」というものからは、本来「愛する」というような情感は生まれてくるものではありません。
★第二次世界大戦後、こうした「国家」の暴走に一定の歯止めをかけるために、国際連合という組織が作られました。日本国憲法や教育基本法もまた、第二次世界大戦の痛切な経験への反省から、こうした「国家」の暴走への歯止めとして造り出されたものです。「国家」が侵略や搾取・収奪へと至らないために、日本国憲法は、世界に先駆けて「武力の放棄」を掲げ、教育基本法は、一人ひとりの人間を「国家」の侵略・搾取・収奪に巻き込まないために「個人の尊重」を掲げたのです。
★わたしたちが「おくにはどちら?」と聞かれた時に思い浮かべる自分の「故郷」なるものは、おそらくそうした「国家」とは違う在り方をしたものでしょう。互いの顔や風景が思い浮かべられる肌身に触れた関係のある場所のことです。ここからなら「愛する」という情感も生まれてくることもあるでしょう。
★ただし、人の「故郷」というのは、「国家」とはまた別に、様々な因習やしきたりに束縛された場所だったりもするので、必ず「愛する」という情感が生まれてくるものと決めつけることはできません。ただ「国家」というものからは本来、「愛する」という情感は決して生まれてくるはずもないのに対して、「おくに」と呼ばれる「故郷」からはそれが生まれてくる可能性はあるということです。(つづく)
# by oji-church | 2006-06-08 09:13 | 牧師からのメッセ-ジ
教育基本法「改正」案を読む(1) 「国を愛する」を考える①
★いま、国会では教育基本法の「改正」の審議が始まっています。政府の「改正」案の中には、「教育の目標」として「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という項目が記され、民主党案の前文には、もっとはっきりと「日本を愛する心を涵養する」という文言が見られます。現行の教育基本法には、こうした「国」というものを「愛する」という文言はありません。代わりに「個人の尊厳を重んじ」(前文)、「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび」(教育の目的)といった言葉が見られます(「改正」案では、「教育の目的」の項目の「個人の価値をたつとび」という文言は、巧妙に削られています)。
★「人が自分の国を愛するのは、ごく自然なことである」とは、この「改正」に懐疑的な人の口からも出る言葉です。しかし果たして本当に、自分の所属する国を愛することは、自然なことなのでしょうか。
★わたしたちの語感では「くに」という言葉には、二つの意味が含まれています。「おくにはどちら?」と聞かれたら、「上州」とか「九州は熊本」とか答える人もいるでしょう。もう一つは「国=日本」という意味です。確かに最近は「くに」といえば後者の方が一般的になりつつあるかもしれません。
★しかし「国=日本」というのは、これはかなり最近に、つまり明治維新以後、国家の政策によって創り出された観念です。それまでは「上州」とか「九州は熊本」とかいう感覚の方が一般的でした。というのも、もともと「くに」という言葉には、自分の肌身に触れて、生活の物資(モノ)や気持ちのやりとりをする場所という語感が含まれていたからです。「愛する」という情愛が自然と生まれてくるのも、そもそもは、そのように肌身に触れて気持ちやモノのやりとりがなされる場所に他なりません。
★これに対して「国=日本」という考え方は、もともとがそのような肌身に触れた気持ちやモノのやりとりのために創られたものではないのです。明治政府はまず、「富国強兵」「殖産興業」という看板を掲げました。これは、力づくでもどこからか「富」をかき集めて、あるいはブン取ってきて、その分け前にあずかろう、ということです。
★これは何も戦前の日本だけがやっていたことではありません。それは17~18世紀頃の西欧に生まれた「国民国家」という、人間の集まり(共同体)の一つの形態です。19世紀になると西欧諸国はアジアやアフリカに乗り出していってこの「富のかき集め・ブン取り」を始めます。これに触発されて、日本もまた、そのような「国」造りを始めたわけです。(つづく)
# by oji-church | 2006-06-02 15:10 | 牧師からのメッセ-ジ
5月14日(日)に、第3回の「難民と交流する会」がありました。今回は、この会に来られているクルドの方の故郷(クルディスタン)の風景をみんなで書きました。前回は海の風景を書きましたが、その二倍の大きさの大作になりました。
緑と岩のある高原に羊を放牧しています。雪解け水が小川を作り、その水を舟にためて羊の飲み水にします。クルディスタンから来られた方は、本当に恋しそうに「ああ、この水をまた飲みたい」と語っていました。しかし、いまは故郷に帰ることもできなければ、日本に難民として受け入れられることもできないのが現状です。
難民の人たちは、故国での迫害を逃れ、助けを求めて日本にやってきますが、多くが入国拒否にあい、またオーバーステイとして逮捕され、法務省入国管理局の「管理センター」という収容所に送られます。助けを求める人を「犯罪者」として扱うのです。
収容所での日々は、刑務所よりもつらいものになります。なぜなら、受刑者は刑期が定められ、刑期を終えた後の人生に希望を託すことができます。収容された難民認定申請者は、収容期間も定められず、突然、迫害の待つ故国に強制退去させられるかもしれない恐怖におびえながら時を過ごさなければなりません。このような日々の中では、将来に希望を持つことはできません。人生の将来への希望のすべてを奪われてしまうのです。このような仕打ちを、助けを求めてやってきた人たちに対して行う国、それを作ってしまっているのがわたしたち日本人です。その責任は重いと言わざるを得ません。
次回の交流する会は、5月28日午後4時30分からです。
演劇ワークショップの経験のある方を交えて、「何か」をやってみる予定です。関心のある方は、ぜひのぞきにきてください。(大久保)
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# by oji-church | 2006-05-18 12:28 | みちばたの教会

王子教会へのアクセス

JR王子駅北口(ホームの北の端。一番「東十条」寄り)の改札を出て、
右方向にお進みください。バスロータリーがあります。
自動券売機の前を通って、三菱東京UFJ銀行とコージーコーナーの間のガード沿いの道を進み、「北とぴあ」の前に出ます。
角を左に曲がり、ガードの下をくぐります。
その後、まっすぐ坂を上ると交番があります。
交番の斜め向かいに日本基督教団王子教会があります。
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日本キリスト教団 王子教会
北区王子本町1-19-2
電話・ファックス 03-3900-4952
# by oji-church | 2006-05-08 13:42 | 教会へのアクセス

バラが咲いた

教会の玄関の傍らにあるバラが今年も大輪の花を咲かせています。会堂の建て替えのときには、ここに植えておくわけにはいかなくなります。何とかしてあげたい気がしますが・・・。どなたか挿し木などで、生かしてあげることの出来る方はいませんでしょうか。(大久保)
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# by oji-church | 2006-05-08 13:34 | みちばたの教会

遠くて近いこと

4月29日に、王子教会の所属している日本キリスト教団東京教区北支区の社会部主催による横須賀軍港見学に参加してきました。横須賀には、米海軍と自衛隊が共用している軍港があります。
日米両国の政府は、現在横須賀を母港としている空母キティホークの後継艦として原子力空母を配備しようとしています。
原子力空母が母港とするということは、そこに原発を置くというのと同じことを意味します。しかも原子力艦船の場合、一般の原子炉と比べても、余裕のない狭い艦船の中に置かれ、たえず振動にさらされ、軍艦ですので高性能の火薬と同居するということになります。
米海軍は1999年11月に、米国サンディエゴの湾内で原子力空母ステニスが、原子炉の二次冷却水の中に泥が入り込んだことから原子炉が停止して航行不能になるという事故を起こしています。しかし米軍は当初、この事故を発表せず、たまたま近くで米軍の通信を傍受した一般人がいたことから事故が発覚しました。このような事故は一般の原子炉では、明らかに「事故」と見なされますが、米海軍の基準ではこれは「事故」とは認められないとして発表がなされなかったのです。
横須賀に住む一般の人は、日常的にそうした危険にさらされることになります。そして、ひとたび大規模な事故が起これば、これは決して横須賀だけの問題ではなく、首都圏一円に被害が広がることになります。
軍隊というのは、傍らにある人の生命を危険にさらすことで、「国家」を守ろうとするものです。しかし、それで守られるものって、いったい何なのでしょうか。こうした軍隊の力が、世界全体を覆っている今、わたしたちにとって、軍隊の行動による生命の危険を巡っては、「遠い」「近い」という区別はもはや無くなりつつあります。(大久保)

写真は横須賀の軍港の様子。左下に見えるのは、自衛隊の潜水艦。中央に見えるのは自衛隊のイージス艦の艦橋。右端に見えるのが空母キティホークの艦橋。奥に見える緑に覆われた島の地下には、艦船用の巨大燃料貯蔵庫があるそうです。写真のすぐ手前には、一般のデパートがあります。
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# by oji-church | 2006-05-08 13:26 | みちばたの教会
《ひだり手》       「弱い」言葉に耳を澄ませば
「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、…来たのである」(マルコ10:45)。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~8)。


★宗教あるいはキリスト教を巡る言葉には、「荘厳」「厳格」「厳粛」「敬虔」「聖典」「正典」「真実」「真理」「伝道」…といった「強い」言葉がたくさん貼り付いています。これらは元来は、人間を遙かに超えた「神の強さ」を表す言葉だったのでしょうが、やがていずれもが、その宗教を司る、あるいはその宗教を信奉する「人間の強さ」を表す言葉になってゆきます。そうしてその強さは、人間の間で〈聖職者〉→〈信仰者〉→〈未信者〉という順に、強い方から弱い方へと序列化されていきます。キリスト教もやはり、そういう「強さの序列化」を長い歴史の中で形づくってきました。
★しかしキリスト教の一番最初の一粒であるイエス様の生き様、その中から響くわたしたちへの呼びかけは、むしろそうした「強い」言葉によって言い表される人間の「強さ」を、徹底して退けていく(拒否していく)闘いだったのではないでしょうか。試しにマタイ福音書の山上の説教からイエス様の言葉を拾ってみると、「心の貧しい人々…悲しむ人々…柔和な人々…」「地の塩、ともし火」「わたしたちに必要な糧…」「空の鳥、野の花」「パンを欲しがる自分の子ども…」等々。これらは当時の価値観から言えば徹底的に「弱い」言葉、「弱い」存在の羅列に他なりません。イエス様は「弱い」言葉を敢えて選び取ることで、人の世の序列化へと至る「強さ」を徹底して退けたのです。上のマルコ福音書の言葉の前にある「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない」という言葉がその辺りの消息を伝えています。
★教会にとって「信仰」の道筋というのは、この「弱い」言葉の響きにこそ、耳を澄ませていくことなのではないでしょうか。聖書の中にも「強い」言葉はたくさんありますが、上の二つの聖書の言葉は、「弱い」言葉の奥深くに隠された「かけがえのないもの」の在処を示しているように思います。「強い」言葉の方が耳に入りやすく、わたしたちはそれに心を奪われがちですが、むしろ「強さ」というものを徹底して退けて、「弱い」言葉にこそ深く耳を澄まし、その奥底に響く「かけがえのないもの」を見つけてごらん、というのが、神様からわたしたちへと託された、実はとても重い課題なのです。(大久保)
# by oji-church | 2006-05-08 12:42 | 牧師からのメッセ-ジ

日曜の朝

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右の説教看板は教会員M田姉のご奉仕です。いつも、ありがとう。
# by oji-church | 2006-04-30 12:04 | 担当者から
昨日は、定期総会が開かれ、前年の活動の報告と今年の計画がみんなで話し合われました。その中でブログによる活動も承認されました。週報にも「アドレス」が掲載されました。これからは、ますます管理人の働きをきちんとしないといけませんね。
今日は、
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ばあばママさんのリクエストにお応えして、教会の玄関のところの写真を載せます。
いかがでしょうか。
携帯の写真でも、ブログでは十分きれいに見えます。今後もいろいろ工夫していきたいと思います。(ふるふる)
# by oji-church | 2006-04-24 21:09 | 担当者から

万緑の中

万緑の中や吾子の歯生え初むる(中村草田男)
先日4月20日午後1時頃、出かけようとして王子駅に向かう途中、駅近くの音無親水公園にて。直前まで激しく降っていた雨が上がり、春の陽光に照らされて、新緑が本当に萌え上がるように映えていました。都会の中の車が激しく行き交うすぐ脇で、自然は激しくいのちを燃やしています。感動して思わず写真を一枚。でも写真じゃあんまり伝わりませんね。(大久保)
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# by oji-church | 2006-04-22 14:11 | みちばたの教会

難民と交流する会

この4月から、月2回ほど、近隣に住む難民の方々との交流の場に、王子教会の場を提供するようになりました。難民とは、「難民条約」では、次のように定義されています。
「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者、及び、常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができない者またはそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まない者」。
このような境遇にある人たちが、日本に助けを求めてやってきて、年間200人以上の人たちが難民認定を求めていますが、そのうち認定を得ることができる人は30人足らずに過ぎません。他の国の難民受け入れ状況とは極端な差があります。
そうした状況の中で、難民認定を申請している人は、収容所に送られ、いつ迫害が予想される本国に送還されるかもしれないという不安の中に置かれています。
この交流の場は、難民の人たちの話を聞き、また一緒に絵を描いたりして、その思いを分かちあう場です。
前回、4月15日には、皆で平和のイメージを絵にしようということで、海と鳥と太陽を書きました。次回は 5月14日(日)午後4時30分 に変更になりました。よかったらのぞきに来てください。(大久保)
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# by oji-church | 2006-04-18 13:22 | みちばたの教会

イースターおめでとう

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4月16日のイースターは、例年と同じく、教会学校の子どもたちといっしょに礼拝を守りました。礼拝後は、「サンドするもの持ち寄り」で、オープンサンドの愛餐会。こどもからおとなまで、ひとりひとりが自己紹介しあって、楽しいひとときとなりました。
# by oji-church | 2006-04-17 12:14 | 全体のお知らせ
《ひだり手》  「教会」とは何なのか?(12) 「『従うこと』と『律法主義』」(4)
「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るもの影にすぎず、実態はキリストにあります」(コロサイの信徒への手紙2:16~17)
★「キリストに従う」ということは、自由に向かって解放されていく歩みに他なりません。しかしひとたびわたしたちが、「キリストに従っていこう」と集まり、教会という場を形づくり始めると、上の聖書の言葉にあるような「食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のこと」といった慣習的な規則が次から次へと生まれてきて、それによって、わたしたちは自由を失ってしまうことがあります。
★人の集団というものは、規則を作りたがるものです。ひとたび人が集まって集団を形づくると、その集団はひとりひとりの人間の意図や発想を越えて、集団そのものを守ろうとして、やたらと規則や規制、慣習を生み出し、それを人にまもらせようとするのです。
★教会という人の集まった場所において、わたしたちはこのことに気をつけたいと思います。もちろん、規則なんて無くっていいというわけにはいかないでしょう。ユダヤ教の律法は規則ですが、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものです」(ローマ7:12)。しかし「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」(ローマ7:7~8)という現実がわたしたちにはあります。
★むしろ教会は、規則を考えるとき、いつも「イエス様がどのように生きたか」を念頭に置き、そのことが実現するように工夫がされなければなりません。この「イエス様がどのように生きたか」をいつも念頭に置く、ということが、実は「キリストが頭(かしら)である」ということの意味なのです。
(大久保)
# by oji-church | 2006-04-16 15:42 | 牧師からのメッセ-ジ
↓にある受難ロードを歩き終わると、当然最後はイエスが十字架刑にかかった地点があります。そこに、ローマンカトリックの「イエスの復活教会」があります。祭壇です。
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# by oji-church | 2006-04-15 17:45 | 担当者から

今日は受難日

エルサレム旧市街の受難ロードにある十字架を負って歩むイエス像です。
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# by oji-church | 2006-04-14 17:56 | 担当者から
受難節のイエスがみんなの足を洗ったという、聖書の箇所に基づいて、受難の一日前の木曜日ですので、タイトルのように「みんなで手を洗い合う」という祈祷会を行います。
19:00からの予定です。
9名の出席がありました。(4/14記述)
# by oji-church | 2006-04-13 11:54 | 全体のお知らせ
《ひだり手》            春が来た
★桜の花が咲き、ようやく春がやってきたという感じです。我が家では、昨年から猫(メス、1歳)を一匹飼っているのですが、それが春の到来と共に「さかり」がついて、エライ騒ぎとなっていました。夜な夜な「おゎんおゎん……」と鳴いて、クネクネして、見ている方もつらいです。萩原朔太郎という人の「猫」という、こんな詩を思い出します。「まっくろけの猫が二疋(ひき)、/なやましいよるの屋根のうえで、/ぴんとたてた尻尾のさきから、/糸のようなみかづきがかすんでいる。/『おわぁ、こんばんは』/『おわぁ、こんばんは』/『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』/『おわぁぁ、ここの家の主人は病気です』」。折しも春風邪を引いて二日寝込みました。
★人間はカレンダーを見て季節の到来を測りますが、うちの猫は、家の中に居るだけなのに、どうも体が季節の到来を感じ取るようです。自然の内に他の命と共に生きているということなのでしょう。人間はそういう、体が他の命と共に生きるという感覚を失ってしまっているのかもしれません。
★そんなことを考えていたら、八木重吉というクリスチャン詩人の詩の中に、こんな詩を見つけました。「万象」という題の詩です。「人は人であり/草は草であり/椎は椎であり/おのおの栄えあるすがたをみせる/進歩というようなことばにだまされない/懸命に 無意識になるほど懸命に/各々自ら生きている/木と草と人と栄えを異にする/木と草はうごかず 人間はうごく/しかし うごかぬところへ行くためにうごくのだ/木と草とには天国のおもかげがある/もううご
かなくてもいいという/その事だけでも天国のおもかげをあらわしているといえる」。
★キリスト教はかつて、動物や草木には魂がないということを公式見解としましたが、そのことで、命というものへのまなざしを相当に貧しくしてしまったように思います。イエスやパウロの言葉にはしかし、人間も被造物として動植物と共なる魂を生きるものであることを思わせる言葉があります。
★今年に入って、相次いで二人の教会の友が天に召されました。「もううごかなくていい」場所へと召されたお二人の魂を思う春、同じ一つの魂を万象が共に生きる「天国のおもかげ」に触れる気がします。(大久保)
(写真は、近くの音無川の桜です)
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# by oji-church | 2006-04-11 22:29 | 牧師からのメッセ-ジ
ばーばママ様のリクエストに応えて……。
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# by oji-church | 2006-04-11 13:30 | 担当者から