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礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「悪魔のトン走」

「汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」。(マルコ5:12~13)

★最近、作家の加賀乙彦氏の『悪魔のささやき』(集英社)という新書版の本を書店でたまたま見つけて、新書に似合わないその題名にひかれて買ってきて読み始めました。
★加賀氏は犯罪心理学を研究する精神科医でもあり、多くの死刑囚との対話も重ねてきました。凶悪そうに思える殺人犯が実は多くの人とさほど変わりなく、それが「まるで悪魔にささやかれたように」殺人を犯してしまったと言うのだそうです。そうしてそうした「悪魔のささやき」は、必ずしも一人の人間だけではなく、一度に大勢の人間に「パッと同時に働きかけることがある」とも言います。
★かつて日本全体が沸き返った戦争もまた、そうした「悪魔のささやき」により引き起こされたものと言えなくもない。そういう大衆心理に働きかける「悪魔のささやき」に弱いのが日本人の特徴とも書いています。
★最近、自民党の総裁選挙をわたしたちは目撃しました。各派閥が相乗りで一人の候補者を推し、圧倒的な票を獲得するのを目撃しました。それを見て悪魔が「豚に乗り移らせてくれ」と懇願し、湖の中へとなだれ込んで溺れ死ぬ上の聖書の場面を思い出しました。朝鮮への強硬姿勢や、憲法改正を第一目標として掲げていることで知られる議員です。豚の「トン走」は、まだまだこれから続き、その先に大きな災厄が待ち受けているようで、不気味な気がするのは、わたしだけでしょうか。(大久保)
# by oji-church | 2006-09-26 15:33 | 牧師からのメッセ-ジ

荒川土手の夕日

9月18日、知り合いの難民の人たちと自宅に集まって食事をしていましたが、腹ごなしに荒川土手に散歩に出かけました。「早く行かないと、日が暮れちまうぞ・・・」なんて叫びながら、車で着いて、土手をのぼると・・・。
本当に見事な夕日が輝いていました。こんな夕日は近年見たことがありませんでした。もしかしたら、日本海側を通り過ぎた台風のせいかもしれません。
刻々と光りは移り変わり、やがて日は暮れていきました。
難民の人たちも、母国の夕日を思い起こしているようでした。(大久保)

画像をクリックすると、大きな画像で見られます。
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# by oji-church | 2006-09-20 13:20 | みちばたの教会
「復活としての未来」

★教会建てかえの工事も始まると早いもので、もう牧師館と教会堂の奥の部分はすっかり解体されてしまいました。礼拝堂のある前面の部分も囲いに覆われて、見えなくなりました。右の表紙の絵に描いた教会堂の建物は、この世では見られないものとなりました。
★なんだか少し残念に思う気持ちもあります。「もったいない」という気持ちもあります。そういう気持ちは後ろ向きのような気もしますが、でも大切にもしたいものです。
★古くなったものを愛おしむ気持ちはやはり大事なものでしょう。大切なのは、その気持ちを持ち続けることなのかもしれません。
★思えば、聖書の告げるイエス様の復活などというのも、気持ちとしてはもともと後ろ向きなものだったのかもしれません。何しろ十字架の上であからさまに殺されたイエス様をいつまでも思い続ける中で起こったことなのですから。
★でも、むしろ弟子たちがそれを思い続けたからこそ、復活の出来事は起こったのだと言えるかもしれません。しかもマルコ福音書に登場する墓場の天使が言うのは、「ガリラヤに行きなさい。そこで復活のイエス様と出会える」ということでした。
★ガリラヤといえば、それこそずっと始まり、イエス様の活動の出発点でした。そんな前にまで遡ってふり返るというのは、後ろ向きといえば後ろ向きです。でも後ろをふり返り歩んできた道を大切にしながら前に向かって進んでゆくとき、わたしたちは単なる「未来」ではない、「復活としての未来」を生きることになるのでしょう。王子教会もそんな「復活としての未来」を待ち望んでゆきたいと思います。
# by oji-church | 2006-09-20 13:12 | 牧師からのメッセ-ジ

ネコだらけ

いま教会の事務所のある岸町周辺は、どうも“人口”ならぬ、“ニャン口”の多い地域のようで、先日、自転車で事務所に向かおうとしていたところ、名主の滝公園の外で、総勢20匹近くのネコファミリーが、ピクニックをしているじゃありませんか。母ネコと子ネコと色とりどりのネコが集まって、秋の日のひなたぼっこです。人間もこのくらい優雅に暮らしたいものですが、ネコも病気や、車に轢かれたりなど、見えない苦労があるんでしょうね。(大久保)
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# by oji-church | 2006-09-16 12:19 | みちばたの教会
 もうテレビニュースは見ない!?

★先週は、「ある家の人々」の間に子どもが生まれたという話題で世間は持ちきりになりました。テレビをつけると、どのニュース番組も8割方の時間をその話題に割いています。日本人の「右へならえ」もここに極まれりという感じです。
★だんだん腹が立ってきました。先週生まれた子どもは、他にもたくさんいたはずです。そして、先週亡くなった子どももいたことでしょう。また先週、子どもが出来ず、悩んだ夫婦もいただろう。しかしテレビをつければ、どこのチャンネルでも、この「ある家の人々」に子どもが出来たというニュースだけが大映しに出てきます。でも、画一的な報道を批判する声はどこからも聞こえてきません。これはもう国を挙げたマインドコントロールといってよいでしょう。
★思えば、最近は普段からテレビのニュースといえば、どの局も世間の耳目を引く、人の表面的な関心や興味を煽るばかりの報道を、延々と垂れ流しているように思います。でもその陰で、人知れず苦難や不安や悩みにさいなまれている人たちが、この国にはどれほど沢山いることでしょうか。
★先々週、オリンピック候補地を福岡と競った東京都知事が、福岡を応援していた在日韓国人の大学教授を指して「怪しげな外国人」と発言しました。ほとんど報道されていませんが。
★大々的に報道される「ある家の人々」の子どものニュースを聴きながら、知り合いのフィリピン人の子どものことを思いました。かたや国を挙げて祝福される子どもの誕生と、かたや日本に暮らしているだけで犯罪者のように扱われ、貧困におとしめられる家族の子どもと、そのいのちに何の違いがあって、この境遇の差が生まれるのでしょうか。「貴あれば賤あり」です。そういう序列=差別の社会の価値観を、わたしたちは知らず知らずのうちにメディアによって植え付けられてしまいます。だからもう、テレビニュースは見たいと思いません。(大)
# by oji-church | 2006-09-15 17:01 | 牧師からのメッセ-ジ

難民絵画の会

先週、日曜日に「難民絵画の会」を、教会の仮事務所で行いました。狭い場所ですが、かえってわきあいあいと行うことができます。絵は、先週高尾山へ行った難民の方の山のイメージ。普段、絶え間ない緊張を強いられる難民の方ですが、山へ行くと落ち着くことができると言います。目は、わたしたちを優しく見守っていてくれる「山の目」だそうです。そして、先週傷ついた鳩を拾ったとのこと。はやく傷がいやされて、自由な空へ飛び立つことが出来るように・・・。(大久保)
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# by oji-church | 2006-09-07 14:25 | みちばたの教会
「『貧しさ』からの出発」

わたしの魂は主を讃美する。
貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
わたしと共に主をたたえよ。
ひとつになって御名をあがめよう。

この貧しい人が呼び求める声を主は聞き
苦難から常に救ってくださった。
(詩編34編より)

★聖書の語る「貧しさ」という言葉の中には、単に経済的な貧しさにとどまらない、豊かな意味が含まれています。「貧しさ」という言葉は、もとは「押さえつけられた」という意味から始まった言葉ですが、「謙遜」とか「高ぶらない」「柔和」という意味にも用いられます。端的に「低み」という言葉で言い表されるかもしれません。
★日本語には「高み」という言葉はありますが、「低み」という言葉はどうやらないようです。高いところには意味や価値があっても、低いところには意味も価値もないという価値観から来ているのでしょうか。
★聖書を読んでいると、高さよりもむしろ低さに深い意味を見いだしている言葉に多く出くわします。そして現実の世界にあっても、むしろ貧しさの中にある人が、人のために、精一杯の思いを尽くそうとする姿に出くわしてきました。「低み」に立ってこの世界を注意深く見つめるときにこそ、何が一番大切なのかということがよく分かるのかもしれません。
★実は、この「低み」に込められた意味を見いだすことが、教会の果たすべき本来の役割なのではないかと思うのです。(大久保)
# by oji-church | 2006-09-03 14:11 | 牧師からのメッセ-ジ

会堂ステンドグラス

会堂の解体に併せて、もともとはめ込まれていたステンドグラスを保存するために、取り外すことになりました。保護のためのカバーを取り外すと・・・。
パァッと光が差し込んで、えもいわれぬ美しさでした。

カバーの板を取り除いた瞬間、光が差し込んで・・・
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外から見ると、こんな感じ。レトロ調です・・・
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外したものを持ち帰って、光に透かしてみました。
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# by oji-church | 2006-09-03 01:14 | みちばたの教会

教会堂解体始まる

ついに教会堂の解体が始まりました。中をのぞいてみると、こころなしか「廃墟の美」さえも感じられます。それも、やはり人の息づかいが、いっぱいつまっているからなのでしょう。
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# by oji-church | 2006-09-02 14:02 | みちばたの教会
「猫も引っ越し」

★岸町の教会仮事務所の外に、礼拝堂の長椅子を重ねてその上にブルーシートをかぶせて置いてありました。先日、その長椅子を補修のために運び出しました。
★もう日も暮れた頃で、次々椅子を運び出していたところ、何個目かの椅子の上で、なにやらムクムク動いているものがあります。そういう得体の知れないものは基本的に苦手で、おそるおそる近づいて、そっとのぞき込みました。すると、何あろう、小さい生まれたばかりの子猫が三匹、ムクムクやっているのです。
★いつ生んだのか分かりませんが、そういえば、ブルーシートの中で、なにやら猫がごそごそやっているなあ、とは思っていました。が、まさか子どもを生んでいるとは……。その日は、椅子は半分だけ運び出したところで終わったので、子猫は残りの半分の椅子の山の間にそっと置いて、母猫が入れるくらいの隙間を空けてブルーシートを掛けておきました。作業をしている間中、母猫がチラチラと様子をのぞきにやってきていたものですから。
★もともと動物には冷淡だったわたしも、この一年ばかり自宅で猫を飼うようになってから、猫には妙に親しみを覚えるようになりました。日曜日、事務所に教会の人たちがやってくると、さっそく「ちょっと、ちょっと……」と皆を呼び止めて、ブルーシートをはがして、自慢げに中をのぞかせました。動物好きの誰かさんは、「ウワァ~」と歓声を上げて、さっそく頬ずりしています。普段一人で仕事をしているときも、すぐ傍に子猫がムクムクしていると思うと、なんだか心が安らぎました。
★月曜日、事務所にやってきて最初にしたのは、まず表のブルーシートの中をのぞくこと。でも、いません。
★どうしたのだろうと思っていたら、前日夕刻、事務所に来た人からメールが入っていました。子猫は、かあちゃん猫に連れられて、お引っ越ししていったようです。どうやら日曜日、いろんな人にのぞかれたり、触られたりしたのが、よほど鬱陶しかったのでしょう。でも、子猫を守るために一匹ずつ口にくわえて引っ越しするかあちゃん猫のたくましさを思い、こちらも「頑張らねば」と思った次第です。(大久保)
# by oji-church | 2006-08-27 13:59 | 牧師からのメッセ-ジ
「こころの問題」

★先週8月15日に、小泉首相が靖国神社を参拝しました。首相は「個人のこころの問題」とうそぶき、社会で交わされている靖国神社を巡る議論などはどこ吹く風の様子でした。
★首相は、「個人のこころの問題」とうそぶくことで、自分個人の内面に、中国や韓国の政府、またそれに同調する「勢力」(なるもの)が介入し、自分の「信教の自由」(?)を冒しているという構図を演出しようとしています。
★しかし、首相の靖国神社参拝というのは、果たして、首相個人の「こころの問題」で片付くものでしょうか。
★まず第一に、首相は8月15日の靖国神社参拝を首相就任時の公約に掲げたと言います。普通個人の「こころの問題」は、政治的な場での公約に掲げるものではありません。それを公約に掲げたというのは、首相自身が最初から、靖国神社参拝は「個人のこころの問題」ではないということを重々承知していた証拠に他なりません。
★そもそも、宗教というのは、教会に集うわたしたち自身を省みれば分かるように、単に個人の「こころ(内面)の問題」にとどまるものではなく、外面も含めて、この世の中で、わたしたちがどのように生きるか、という問いかけを深く投げかけてくるものです。
★靖国神社は、かつてもいまも戦争を称揚して、自国の権力の勝利だけを目指し、そのためにはそれ以外のいのちの犠牲をかえりみないという「宗教」施設です。それは単に「こころ(内面)の事柄」にとどまらず、外面においても戦争を引き起こしていく力を持っています。このような「宗教」に首相が率先して参拝し、国を挙げて引きずり込んでいこうとする「外面」の力に対して、「いのちを共に生きよ」と呼びかける聖書を携えているわたしたちは、やはり単に「こころの問題」としてだけではなく、外面においても反対していかなければならないのではないでしょうか。(大)
# by oji-church | 2006-08-20 14:03 | 牧師からのメッセ-ジ
長年親しんだ教会堂ともお別れの日が近づいてきました。7月23日、現会堂に感謝を捧げる礼拝を、教会学校の子どもたちと共に守りました。多くの人たちの思いが、この会堂の壁や床や天井に染みこんでいることでしょう。その目には見えない思いを、これからも大切にしてゆきたいものです。
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# by oji-church | 2006-07-29 13:44 | 全体のお知らせ
教会、下着、屋根裏部屋

「ヤッファにタビタと呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。……人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。」(使徒言行録9:36~39)

★いよいよ会堂建築着工の目処が立ち、現会堂とのお別れの時が近づいてきました。古い牧師室の天井を見上げると、いくつもシミがあって、でもその一つ一つがここで教会の働きを積み重ねてきた人々の息づかいとなって響いてきます。
★わたし自身は8年半、会堂のない教会で牧会をしてきました。多く不便なこともあり「簡単でいいから、みんなが気兼ねなく集まれる場所があればいいね」なんて声が上がることもありました。けれども建物がない分、「教会って何だ?」ということがハッキリと分かる面もありました。
★教会とは、神さまと人とが結ばれる場所です。そうして神さまに結ばれた者同士、人と人とが結び合う場所でもあります。イエス様は最初に「人間をとる漁師にしよう」と弟子たちに呼びかけられました。漁師の仕事の一つに「網を繕う」作業があります。これを英語で言うと、「ネットワーク」という言葉になる。教会という場所の本質は、神さまと人、人と人との結びつき=ネットワークを形づくる場所といってもよいでしょう。建物が「教会」なのではなく、そこで形づくられる神さまと人、人と人との結びつきこそが、何よりも「教会」なのです。
★使徒言行録に印象的な女性が登場します。タビタという名のこの女性は、「やもめ」となった女性のために数々の下着や上着を縫う働きをしていたようです。この女性が死ぬと、やもめの女性たちは彼女が縫った下着や上着を持ち寄って、彼女を悼みました。
★まさにこの「下着や上着」こそが、「教会」じゃないかと思うのです。タビタの働いた場所は「階上の部屋」。屋根裏のような質素な小さな部屋を思い浮かべます。そんな簡素な場所であっても、教会は「教会」たりうるのです。いやむしろ、そんな場所でこそ、人の目には多く触れない場所で、人知れぬ、小さくされた人の小さな働きの中で、神さまと人、人と人との結びつきは、繕われているのでしょう。建物の見える形はどうあれ、王子教会がそんな教会になっていかれればと思います。
# by oji-church | 2006-07-28 10:31 | 牧師からのメッセ-ジ
教会の境界

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ福音書3:8)

★このところわたしたちの教会の属する教団の中で、「正しい聖礼典」ということが喧(かまびす)しく言われるようになっています。「聖礼典」というのは洗礼と聖餐のことです。この中でとりわけ「正しく行うべき」と言われるようになっているのが聖餐についてです。
★教団の規則の中にはこのようなことが書かれています。「陪餐会員とは、信仰を告白してバプテスマ(洗礼)を領した者…をいう」(「教規135条)。また、各教会の規則のひな形にはこう書かれています。「聖餐にはバプテスマを受けた信徒があずかるものとする」(「教団教会」規則(準則)8条)。「正しい聖礼典」というのは、ここをとらえて洗礼を受けていない人にも聖餐を開いている教会を抑えようということです。しかし、これらの規則で語られているのは、教団の「信徒」についてのことであり、「洗礼を受けていない者は、聖餐にあずかることはできない」という規則ではありません。
★教団の規則というものは、元来、教団のメンバー(洗礼を受けた信徒)にのみ当てはまるものです。教団の規則が、まだ洗礼を受けていない人の振る舞いを規制することはできないのです。教会は伝道や宣教という働きをイエス様から託された場です。ですから教会という場所は、他の団体や組織と違って、いつも正規のメンバー以外の人との「ふれあい」を運命づけられている場所でもあるのです。
★そういう意味で、教会という場所は、いつも「迎える場所」であると言ってもよいでしょう。イエス様は「霊から生まれた者として、新たに生まれなければならない」ということを言われました。「霊」とは風のように、外からわたしたちのもとに吹き来るものです。イエス様も、教会の中にいるのでなく、外から風のように教会にやって来るのだと言っても良いでしょう。
★正規のメンバー以外の人との「ふれあい」を託され、いつも「迎える場所」である教会という場所の境目は、実は結構曖昧で、曖昧であってもいいのです。そこにイエス様が宿る「隙間」が生まれるのですから。
★大事なことは、この「隙間」を大切にして、教会を訪れる人ひとりひとりを大事にして、イエス様を迎えるように、喜びを持って迎えていくことなのでしょう。
# by oji-church | 2006-07-18 17:25 | 牧師からのメッセ-ジ
いよいよ会堂建築の着工が近づいてきました。7月8月はあわただしくなりますが、よろしくお願いいたします。会堂建築に関わる7月8月の主な予定は、以下の通りです。

7月 9日(日) 礼拝後、引越作業(梱包、不要品の整理・処分等)
7月16日(日)           同
7月17日(月)           同
7月23日(日) 会堂感謝合同礼拝、礼拝後、引越作業
7月25日(火) 松井建設との契約
7月30日(日) 礼拝後、引越業者による引越作業
8月 6日(日) 北とぴあ(902会議室)にて礼拝(10時30分~)
8月 7日(月)頃より、解体工事着工
8月13日(日) 王子工業会館にて礼拝(10時30分~)
          北支区講壇交換(早稲田教会 上林順一郎牧師)
          大久保牧師は早稲田教会にて説教奉仕
8月20日(日) 北とぴあ(902会議室)にて礼拝(10時30分~)
8月27日(日) 王子工業会館にて創立記念礼拝(10時30分~)

会堂建築中の礼拝会場の場所については、左の「カテゴリ」メニューの「会堂建築中の礼拝会場」をご覧下さい。
# by oji-church | 2006-07-06 11:57 | 全体のお知らせ
差別からの解放を祈る

★先々週の土曜日に、牧師が委員を務める東京教区部落解放5支区代表者会主催の「部落解放祈りの日礼拝」という催しがありました。
★部落差別というのは、目に見える形ではなくなったかに思えます。ことに東京のような匿名性の高い場所では、もはや問題にさえならないようにも思えます。
★でも、考えてみてほしいのは、部落差別というのは、もともと目に見える形での「違い」に基づく差別ではないということです。差別はどの差別でもそうですが、「差別される側」に原因があるのではなく、「差別する側」の意識に原因があるのです。
★教会の部落解放の働きに関わる中で、多くの人たちが意識せず「部落」というものにマイナスのイメージを持っているのに出くわしてきました。そのようなマイナスのイメージを植え付けられてしまっているということ自体、「差別する側」の人も、「差別」というものの犠牲者であるといってよいでしょう。
★「差別」からの解放を祈るというのは、もちろん「差別される側」の人が差別を受けない未来を祈ることでもありますが、もう一つ大事なことは、知らず知らずの内に、「差別する心」を植え付けられてしまっているわたしたちが、そうした「差別する心」から解放されることを祈るということでもあります。
# by oji-church | 2006-07-04 17:30 | 牧師からのメッセ-ジ
教育基本法「改正」案を読む(4) 「態度を養う」を考える

★先日、子どもの学校の授業参観があって行ってきました。内容は「道徳」です。帰ってきてから、子どもと授業の話をしました。すると子どもがおもしろいことを言います。「道徳の時間は、みんながブリッ子になる時間」。もしかしたらウチの子だけがヒネクレていて、そんなことを言うのかもしれませんが、ちょっと考えさせられました。当日の授業の内容は、「自分のいのちを支えていてくれるものに思いを巡らせる」というような内容でした。皆それぞれに「両親」とか「ご先祖」とか言っていた。ウチの子どもに言わせると、道徳の時間は、みんながいかにも「正しい」ことを口を揃えて言う時間だ、と。普段はそんなこと、考えても、してもいないのに、ということです。
★政府与党が出している教育基本法「改正」案には、「教育の目標」としてゴタゴタと、いくつもの「徳目」が掲げられています(数えてみると、21項目にものぼります)。「一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」。
★いっぱいありすぎて、読んでいるだけで頭が痛くなりそうです。この基本法が可決承認されれば、おそらくこれらの「徳目」のいちいちについて、子どもは「評価」にさらされることになるでしょう。実際に、「愛国心」を通知表で評価する学校もすでにあるのです。
★気になるのは、「態度を養う」という言葉が繰り返し用いられていることです。「態度」が「評価」されることになれば、子どもは必ず「態度」を装うことになります。国や学校の求める「子ども」像に自分をはめ込み、自分自身を押し隠すことを、子どもたちは強いられることになります。ただの「ブリッ子」のうちはいいのですが、やがて自分自身を失った子どもたちは、どうなるのでしょうか。そら恐ろしい気がするのは、わたしだけでしょうか。
# by oji-church | 2006-06-21 11:31 | 牧師からのメッセ-ジ
アゼルバイジャン、イラン、タンザニアの方が参加され、また、こどもたちもたくさん参加、本当に楽しいひとときでした。
みなさんのお話しを通して、日本は外国人にとって暮らしにくいということもよくわかりました。
キリスト教会内くらい、ちょっと違うな? と思えるコミュニティー作りをしたいと思ったのはぼくだけだったでしょうか。
カレーライスもおいしかったです。

★昨日の「辛いペースト」について質問があったので、お答えします。材料はタマネギ1個、ナス中くらい1個、オクラ4本です。
すべてみじん切りにします。まず、タマネギを油で炒めます。
そして、色がついたころにナスを入れます。そして、ナスがしんなりしたら最後にオクラをいれます。そこで水150㏄を入れます。コンソメスープ1個、溶かしておくといいでしょう。
あとは、スパイスです。
コリアンダー、ガラムマサラ、黒胡椒、唐辛子系の辛いやつ(ハバネロペッパー)、クミンシード、全部同量にしました。小さじ2ぐらいだったです。
昨日は元々のカレーを辛くするためだけのものでしたから、そのくらいにしておきました。
水がなくなったら、火から下ろします。その間中火です。
(ふるふる)
# by oji-church | 2006-06-12 18:09 | 担当者から

あじさいの花

関東地方もとうとう梅雨に入り、心晴れのしない天気が続いています。でも、こんな気候の時にも、探せば、心晴れるものは見つけられます。飛鳥山裏の電車道には、あじさいがたくさん咲いています。薄曇りの空の下にも、あじさいの色はよく映えるものですね。(大久保)
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# by oji-church | 2006-06-12 14:09 | みちばたの教会
教育基本法「改正」案を読む(3) 「国を愛する」を考える③

神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20~21)
「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ3:20)


★「国」=「国家」というのが、あくまで富を集めてきて、それを分配する目的で、人為的に造られたものだとするなら、「国」自身が「国を愛せよ」と言い立てることの目的は、やはりあくまで「国」に富を集めるための侵略や収奪・搾取に人々を駆り立て、人々に犠牲を強いることより他にはありません。どんなにそれを「文化」や「伝統」で覆い隠そうとしても、「国」が自ら言い立てる「国を愛する」ということは、やがて人々を戦争や競争に駆り立てることに、必ず結びついていきます。
★それでは、「国」を愛することは、どうしたって不可能なのでしょうか。それでも「国」を愛せる可能性はあると思います。それは、あくまで「生身に触れ合う関係を大切にしていく」ということです。わたしたちが愛すべき人間同士の結びつきというのは、ある範囲を区切って「ここからここまで」というものではないのです。それよりもわたしたち一人一人が生きているその場で出会い、経験する結びつきそのものを愛するということです。
★「国」(=人々の結びつき)というのは、あくまで「あなたがたの間にある」と聖書は語ります。決して自分の生きる場をある「範囲」で区切らずに生きていくならば、わたしたちは様々な人々と出会い、触れ合うことになります。日本人もおり外国人もいます。よき伝統を分かち合う関係を持てることもあれば、かつてや今の日本の「国」の誤りを指摘する人もいます。でも、そういう出会いを一つ一つ、そのたびごとに大事にしていくということです。
★一つ一つの生身に触れる出会いをそのたびごとに大切にしていくことを通じて、初めてそこに「愛する」関係が生まれてきます。その場所こそが「わたしたちの本国」であるということ。決して「国」や「文化」や「伝統」が先にあるのではなく、わたしたちが国籍などに関わりなく、生身に触れる人間と人間の出会いを、そのたびごとに大切にしていく場所に、わたしたちが本当に愛する、わたしたちの「生き場」が生まれてくるということでしょう。
# by oji-church | 2006-06-12 13:49 | 牧師からのメッセ-ジ