日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「正月最良のすごし方」

★年末年始、家族が出払ったのをいいことに、「おひとりさま」の正月最良のすごし方を思案しました。結果、大晦日池袋の書店に行き、普段読みたいと思いつつ読めずにいた本を3冊購入。①カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』②中島岳志『親鸞と日本思想』③ハンナ・アーレント『人間の条件』。
★元日朝から3冊を脇に居間のソファに座り順繰りに読んでいきます。1冊を1時間程キリのいいところまで読んだら次の本。こうすると疲れず飽きずに読み続けられます。それぞれジャンルが違うのがいいようです。元日は一日読書三昧。2日午前中は第2週に控えた諸々の委員会・役員会の準備。午後は人に誘われ外出。3日も昼間は仕事に費やしたので本当の読書三昧は元日だけでしたが、楽しい正月でした。
★読んでいて一番楽しいのは①。ファンタジー仕立ての小説の中、人間の「記憶」をめぐり、各々違った、あいまいな「記憶」を携えた異なる人間同士が、加害/被害の歴史の上に立って、共に生きていくことの困難と意味を考えさせられます。②は戦前、『歎異抄』に著された親鸞の信仰がブームとなり、それが著名な作家や宗教家によって、「日本民族」を称揚する国粋主義に結びつけられ、やがて政府の主導するファシズムに接続されていく様を描き出します。キリスト教において戦前・戦中ファシズムに接続した「日本的基督教」の形成過程と驚くほどよく重なります。③は読むのに至極難儀する本ですが、②との関連で言えば、人間がなぜ、自由を奪い生命や生活を破壊する「右へならえ」のファシズム(全体主義)になだれ込んでしまうのか、それを人間存在の根本から考察した本です。「自分はそんな『右へならえ』になだれ込みはしない」と思っている「普通の人」こそが、社会の構造的変化の中で知らず知らずのうちに飲み込まれてしまう恐ろしさを感じさせられます。世界全体がそのような趨勢(ポピュリズム)に向かっているいま、読むのは大変ですが、本当はしっかり捉えられなければならない本だと思います。
# by oji-church | 2018-01-10 10:06 | 牧師からのメッセ-ジ
「想いを贈る」

★クリスマスが来ると思い出す絵本があります。『しんせつなともだち』という絵本。雪の降る夜、こうさぎが食べ物を探しに出かけて、カブを二つ見つけて帰って来ます。こうさぎは一つを食べて考えます。「ゆきがこんなにふって、とてもさむい。ろばさんはきっとたべものがないでしょう。このかぶをもっていってあげましょう」。ろばの留守宅にうさぎはカブをおいて帰ります。食べ物を探しにでかけていたロバはさつまいもを見つけて帰って来ます。家に置かれたカブをみてろばは考えます。「「ゆきがこんなにふって、とてもさむい。やぎさんはきっとたべものがないでしょう。このかぶをもっていってあげましょう」。ろばはやぎの留守宅にかぶを置いて帰ります。食べ物を探しにでかけていたやぎは、はくさいを見つけて帰って来ます。家に置かれたカブをみてやぎは・・・。カブはうさぎからろばへ、ろばからやぎへ、やぎからしかへ、次々と受け渡され、真夜中、うさぎが目を覚まして枕元を見ると・・・。
★どの動物も、「ゆきがこんなにふって、とてもさむい。~さんはきっとたべものがないでしょう」と、誰かのことを想い描き、贈り物を届けます。「おもう」という漢字は二つあります。「思う」と「想う」。「思」の「田」は人の頭を表し、自分の頭の中だけで考えていることを表します。「想う」の「相」は、人が向き合っている様を表し、自分以外の誰かを想い描くことを表しています。
★ルカによる福音書のクリスマス物語には三人の博士は登場せず、黄金・乳香・没薬の豪華プレゼントもありません。出てくるのは貧しい羊飼いと、飼い葉桶に寝かせられた乳飲み子。羊飼いのもとに天使の声が響きます。「天には栄光、神にあれ。地には平和、喜びの人々に」。神様はこの世に生きるすべての命ある者を想い描き、すべての命ある者に平和をもたらす光を贈ります。照らされた羊飼いたちは、名前も知らない「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を想い描き、見つけるために出かけてゆきます。神様がすべての命ある者の平和を想い描き、羊飼いたちが飼い葉桶に寝ている乳飲み子を想い描く。それがルカのクリスマス物語の二つの贈り物なのでしょう。
★クリスマスの出来事の奥底には、「想い」を贈る。神様から人へ、人から人へ。そんなプレゼントが秘められているようです。
# by oji-church | 2018-01-03 11:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「地には平和、喜びの人々に」

〈いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ〉(ルカによる福音書2章14節)
★聖書のクリスマス物語は、真夜中に羊の番をしていた羊飼いたちだけに、飼い葉桶の中に寝かせられた救い主の誕生を告げています。それは不思議に満ちた物語です。なぜ、真夜中なのか、なぜ知らせを告げられるのは羊飼いたちだけなのか、なぜ、告げられる知らせは、飼い葉桶の中に寝かせられている乳飲み子なのか。この不思議な知らせが、わたしたちへの「しるし」であると言われます。聖書の語るクリスマスの出来事はわたしたちに、この不思議を解くことを求めているのです。
★不思議を解く鍵は、その次の天使の言葉にあります。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、喜びの人々に」。光は神様がわたしたちにもたらしてくれるもの。人間は自分の栄光を求めて、かえって競争を引き起こし、敵味方に分かれて争い、暴力と傷をもたらしてきました。光は「いと高きところ」にいる神様が与えて下さるもの、人間はそれを自分だけのものにしようとしてはならない。わたしたちが光を、神様から与えられたものとして分かち合う時、地上に平和が生まれるのです。
★神様が天地万物を創られた時、神様は造られたすべてのものを見渡して、こう言われました。「見よ、それは極めて良かった」。これが神様が最初に挙げた喜びの声です。この世にあるものはすべて、本来神様から「とってもいい!」と喜ばれている存在なのです。ですから、「地には平和、喜びの人々に」というのは、この世界に生きるすべての人のもとに平和があるように、という呼びかけなのです。
★いま、わたしたちの生きる世界を見渡す時、力を持つ人々が自分だけの栄光を求める傍らで、平和を奪われている人たちが生み出されています。そんなもっとも小さくされた人たちのもとに、平和がもたらされる時にこそ、初めてこの世界に生きるすべての人々に本当の平和が訪れるのです。宮澤賢治さんは「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言いましたが、たぶんそれはほんとうのことです。
# by oji-church | 2017-12-25 09:58 | 牧師からのメッセ-ジ
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# by oji-church | 2017-12-19 18:02 | 全体のお知らせ
「やぶれた家族の中に」

★イエス様とその両親ヨセフさんとマリアさんの集うクリスマスの情景は、「聖家族」として麗しく泰西名画の中にしばしば描かれます。そこから家族というものは無条件に麗しいものだという価値観が、教会の中にも深く根付いているように思います。むしろ教会が率先して「健全な」「麗しい」家族像というものを賞讃してきた歴史があると言えます。けれども、家族の形というのはどの家族一つを取ってみても一様ではないでしょう。麗しい家族像を賞讃することは、そうした家族像に当てはまらない人を排除することにも繋がります。性的少数者の人たちに対して、その人権や存在を認めない差別的な風潮がとりわけ教会に色濃いのも、そうした教会が形作ってきた家族に対する価値観が深く関わっているように思います。
★「麗しい家族像」を賞讃することは、国家が引き起こす戦争とも深く関わっています。先頃ある国会議員が「子どもを4人以上産んだ女性は国が表彰すべきではないか」という発言をして波紋を呼びました。「産めよ、増やせよ」とのかけ声の下に、子どもを産むことが最も奨励されたのは、戦時中でした。子どもを多く産んで、兵士を増やすことが目論まれたのです。
★いまの政府が「学校教材として用いることを否定しない」と閣議決定さえしています。その内容には「爾臣民、父母に孝行し、兄弟や夫婦は仲良く」と「麗しい」家族像が語られています。しかしその最後には「一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉シ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼シ奉ルベシ」、家族が「麗しく」あることは、戦争の時に、「この世のある限り永遠に続く天皇の命運を守る」ためにそうしなければならないものだ、と言うのです。さらにいままた、与党は同じように家族の在り方を国が指図する内容の「家庭教育支援法案」なるものを準備しています。
★イエス様は「聖霊によって身ごもった」と言われる、当時の「麗しい家族」に当てはまらない、「やぶれた家族」の中に生まれました。そのことに、このクリスマスを待ち望む時、あらためて心巡らせたいと思います。
# by oji-church | 2017-12-19 17:39 | 牧師からのメッセ-ジ
「レッテル貼りを退ける」

〈身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた〉(マルコによる福音書3章21~22節)

★イエス様が律法学者たちによって誹謗中傷するレッテルを貼られ、イエス様の家族らがそれに急き立てられて「取り押さえに来た」という話です。かつて戦時下、日本では「アカ」とか「非国民」とかいったレッテル貼りが横行しました。権力者たちがそれを奨励し、一般民衆はその尖兵として利用されました。戦時下日本のキリスト教は、自分たちがこのレッテル貼りの対象となることを恐れて、従順に国家の政策に従い、神社参拝や国民儀礼(宮城遙拝・君が代斉唱)を率先して行いました。背う線に出向いて、神社参拝を拒否する朝鮮のキリスト者たちに対して神社参拝を奨励することまでしました。あたかもイエス様を取り押さえにきた身内の者たちのようにです。
★戦後、日本の教会は降って湧いた「キリスト教ブーム」に乗っかり、戦前・戦時下の自らの有り様を反省することがありませんでした。日本の教会が、過去の自らの有り様を省みたのは、1967年に日本基督教団が発表した「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、いわゆる「戦争責任告白」が初めてでした。日本の教会は自らのありようを省みるという点で、誠に「鈍い」と言わざるを得ません。
人にレッテルを貼り、人を排除し、抹殺していくような有様に乗っかっていくことが、キリスト教の信仰から見て果たして正しいことなのか、わたしたちはそのことを目を開き、目を覚まして省みる必要があるでしょう。
# by oji-church | 2017-12-06 13:31 | 牧師からのメッセ-ジ
「悲しみの力」

〈わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章11節)

★評論家の若松英輔さんがこんなことを語っています。「涙は必ずしも頬を伝うとは限らない。悲しみが極まったとき、涙は涸れることがある。深い悲しみのなか、勇気をふりしぼって生きている人は皆、見えない涙が胸を流れることを知っている」(『悲しみの秘儀』)。
★若松さんはまた、「同じ悲しみなど存在しない」とも言われます。「同じ悲しみなど存在しない。そういうところに立ってみなければ、悲しみの実相にはふれ得まい。同じものがないから二つの悲しいは響き合い、共振するのではないか。独り悲しむとき人は、時空を超えて広く、深く、他者とつながる」。同じ悲しみなど存在しないからこそ、わたしたちは、一人ひとり掛け替えのない存在なのであり、それゆえにこそ、一人ひとり大切に、耳を寄せて一人ひとりの悲しみに聴き、心を寄せ、悲しみを寄せて寄り添い合うことが必要なのです。
★「わたしたちは絶えず、イエスのために死にさらされている」。わたしたちは、それぞれに何かしらその人固有の悲しみを背負って生きざるを得ません。でも、そんなわたしたちだからこそ、イエス様はわたしたち一人ひとりの悲しみに耳を寄せ、心を寄せ、悲しみを寄せて、寄り添い伴って歩んでくれるのでしょう。そのことを覚えるとき、わたしたちの胸の内には悲しみの涙のひとしずくから、生きる力のひとしずくがあふれ出してくる。いや、わたしたちの胸の底の悲しみの涙のひとしずくこそが、生きる力のひとしずくそのものなのです。
# by oji-church | 2017-11-29 10:09 | 牧師からのメッセ-ジ
「人々のそばに」(2)

★どこまでも人々のただ中に、人々と共に、人々のそばに居ようとすること。それは確かに麗しいことです。でも、不思議とわたしたちは自分が人間であるにもかかわらず、人々のただ中に、人々と共に、人々のそばにずっと居ることに疲れてしまうことがあります。それはなんでなのだろうかと思うのです。お互いに人間同士であるのに、そのただ中に、人と共に、人のそばに居ると疲れてしまうというのは。
★思うに、人間が一緒にいる時、どういうわけかそこに、ある種の「競争」めいたものがどうしても生まれてきてしまうからではないかという気がします。「自分のほうが上だ」「自分の方が正しい」「自分の方が分かっている」。そんな競争。それは教会の中でも変わりがありません。「わたしの方が信仰深い」という競争。教会ではそれが変な風にねじ曲がって、「わたしの方が信仰が薄い」「いやいや、わたしの方が罪人だ」。そんな奇妙な競争になってみたりもするのですが。そこには人間というものをどうしても上下で考えてしまう心の癖のようなものがあるのではないかと思うのです。自分より上だと思えば持ち上げて、自分より下だと思えば貶める。そんな心の癖です。
★「あなたは神の子です」と言えば、それは確かにイエス様をほめる言葉かもしれません。けれども、それは他方で、人間を上と下とに分けて考えてしまうあのわたしたちの心の癖と、どこかで繋がってもいるのではないでしょうか。
★「あなたは神の子だ」という誉め言葉に対して、イエス様が「いや、自分は神の子なんかじゃない」と言ってそれを退けたのは、そんなふうに人間が人間を上と下とに分けて、やがて競争を演じ始める、そんなわたしたちの心の癖、また生き方の癖を退けたということでもあるのではないかと思うのです。
# by oji-church | 2017-11-22 13:04 | 牧師からのメッセ-ジ
「人々のそばに」

〈イエスが多くの病気をいやされたので、、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。〉(マルコによる福音書3章10~12節)

★どうしてイエス様は「あなたは神の子だ」という悪霊の叫びを「言いふらさないように」と厳しく戒められたのでしょうか。イエス様が「神の子」というのは聖書的には決して間違いではないのに。神学では「メシアの秘密」と言って、イエス様が「神の子」であることは、十字架に掛けられて人々の罪を贖(あがな)うまで秘密にされておかれなければならないこと、イエス様の贖いの業を知らないでイエス様を「神の子」と呼ぶのは「間違い」だから、というようなモットモラシイ説明がされるのですが、ナンだかアンマリ、シックリきません。
★こんなふうに想像してみました。病気でずっと悩んできたのが、イエス様に出会って、病気が癒されたのだとしたら嬉しさのあまり、悪霊でなくても思わず知れず、「あなたは神の子です」なんて叫びたくもなってしまうのじゃないかと思うのです。それに対してイエス様は「いやいや、自分は神の子なんかじゃない」と応える、そんな場面が幾つもあったのじゃないか、そんなふうに想像するのです。これは「神の子」イエス様に対する冒涜なのでしょうか。
★イエス様に出会って、病気が癒されて、嬉しさのあまり、飛び上がるように「あなたは神の子です」と叫ぶ人に対して、「いやいや、自分は神の子なんかじゃない」と応えるイエス様。そこには、「神の子」という特別な立場に立って、人々を「救ってあげる」救い主ではなくて、どこまでも人々のただ中に、人々と共に、人々のそばに居ようとするイエス様の姿があったのじゃないかと思うのです。(つづく)
# by oji-church | 2017-11-16 12:23 | 牧師からのメッセ-ジ
「民主主義とキリスト教」

★今週末から、北支区の日韓宣教協議会が始まります。主題は「キリスト教と民主主義~敗戦・解放後の歩みのなかで」というものです。韓国では先年、腐敗した政権を市民がデモを繰り広げることによって退陣に追い込んだ「キャンドル革命」が起こりました。一方日本では、数にものを言わせた与党・政府の恣意的な政治が続き、庶民の生活がないがしろにされる一方で、「戦争をする国」への準備が着々と進められています。この違いは一体何なのだろうかと考えるのです。
★韓国では、戦前・戦時下の日本の植民地支配、また戦後の軍事独裁政権の支配に対して市民自らが声を挙げて抵抗し、時の権力を覆して新しい時代をひらくということをしてきた歴史があります。日本ではそのように、一般の市民が自らの手で歴史をひらくということがなかなかできずに来ました。歴史は、力のある者が作った「出来合い」のものを受け取るだけ、という感覚が根強く色濃いのかもしれません。
★昨年、「安全保障関連法案」に反対するデモが路上を埋めていた国会前には、SEALsの若者たちの「民主主義ってナンだ?」「コレだ!」というコール&レスポンスが響いていました。民主主義とは、権力の集中や絶対化を退け、それぞれの小さな個人が能動的な「主体」(コール)となって、「対話と合意」(レスポンス)の下に社会を形作ることでしょう。その根底には、神のみを神とし、神の前での一人ひとりの人間(個人)の自由と平等を受けとめるキリスト教信仰があったことは確かです。
★いま日本の教会は信徒の数が減少する中で、衰退を余儀なくされています。でも、一人ひとりの個人が、生き生きと自由に呼びかけ、応えするなかで社会を形作る民主主義の奥底に、キリスト教の信仰があることを、もう一度教会は受けとめ直す必要があるように思います。このことを教会・キリスト者がしっかりと噛みしめるとき、今の時代の中で、教会は小さくあっても、市民、一般庶民と共に歴史をきりひらいていく大切な一員になることができるはずだと思うのです。
# by oji-church | 2017-11-08 11:11 | 牧師からのメッセ-ジ
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11月3日(金)に王子教会オープンチャーチを開催いたします。
午前中はバザー、喫茶、カレー、お弁当、子どもコーナー(ゲームとわたあめ作り、コマ作り)。
午後は、お琴とゴスペル、コーラスのミニコンサートを開催します。
ぜひご来会ください。お待ちしております。



# by oji-church | 2017-10-31 14:04 | 全体のお知らせ
「ゆるしとしての生き方」

〈安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか〉(マルコによる福音書3章4節)

★以前、ある牧師さんがこんな言葉を語っていたことを伝え聞きました。「神様が許しておられるのは、共に生きることだけ」。ひっくり返せば、神様は「共に生きること」以外は全部禁じておられるという意味にもなるでしょう。わたしたちの生き方を律する神様の厳しさが伝わってきます。だけれども、それはまた、もう一度ひっくり返せば、「共に生きる」ためならば、どんなことでも神様はわたしたちに許して下さっておられるということです。
★いかに自分が「正しく」生きるか、あるいはいかに自分が「救われる」か、ということが人生の目的なのではなくて、いかにして「共にいきる」か、ということこそが、わたしたちの生き方の一番大切な目的なのだということです。
★いかにして「共に生きるか」。それをわたしたちの人生の一番の目的として生きようとするとき、その一番の土台となるのは、何よりもまず、このわたし自身が、どうあれ「生きること」を「ゆるされている」ということなのではないでしょうか。神様はわたしたち一人ひとりに、わたしたちの姿がどうあれ、何よりも先ず「生きていていいんだ」とゆるしの声を呼びかけておられる。このことをわたしたちが本当に心の奥底に刻むとき、わたしたちの生き方は、「共に生きなければならない」という義務としての生き方から、「ともに生きていい」という喜びに溢れた「ゆるしとしての生き方」に変えられていくのではないかと思うのです。
★いま、将来への不安から、いたるところで自分中心と、他者への不寛容が、黒雲のように世界を覆っていくような時代の中、「~してはならない」生き方、「~しなければならない」生き方から、「~してもよい」生き方、「生きていていい」と呼び交わす生き方、「共に生きていい」というゆるしの声を喜んで受けとめる生き方、「ゆるしとしての生き方」を、見つけ出してゆきたいと願うのです。
# by oji-church | 2017-10-31 13:44 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱い声と言葉のために」

〈安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある〉(マルコによる福音書2章27~28節)

★今選挙の真最中で街には、「強く、勇ましく、人を圧倒する」言葉が各所に響いています。わたしたちは「強く、勇ましく、人を圧倒する」ことが「いいこと」だと思っています。でも自分自身を振り返ると、弱く、臆病で、人を圧倒しもしない自分に不甲斐なさを感じるものです。でも人間のほんとうの姿って、「強く、勇ましく、人を圧倒する」ものなのでしょうか。
★イエス様の弟子たちが安息日に、麦の穂を摘んで食べたことを見とがめて「安息日にしてはならないことをした」とクレームを付けてきたファリサイ派の人々たちにイエス様が応えた言葉が、上の言葉です。「安息日は人のために定められた」。ここで語られる「人」というのは、道端の麦の穂をちょっと摘んで口に放り込んでみるような、「弱く、臆病で、人を圧倒しもしない人」のことでしょう。安息日は、神様がこの世界を創られて、休まれたことを覚える日です。安息日が「弱く、臆病で、人を圧倒しもしない人」のためにあるということは、この世界それ自体がそのような人のために創られたということでしょう。
★「ああ、思った通り、やさしそうな人でよかった」。「今日帰ったら、お母さん、起きてるといいな」。「ええ? 今日ママ、家にいるの?」。どれも、子ども食堂に来ている子どもたちの口から出た、小さな小さな言葉です。人を圧倒することもなく、臆病で、弱い言葉です。そんな小さな声と言葉が、実はわたしたちの日常・普段の生活の傍らには幾つも響いています。神様は、そんな人間のために、そんな人間に向かって、そんな人間を大事にするために、そんな人間に焦点を合わせ、そんな人間を目指して、安息日を与えられたのだ。この世界を造られたのだ。そして今日も今も働いておられるのだ、そう思ってこの世界をもう一度、見渡してみるのです。
# by oji-church | 2017-10-25 16:24 | 牧師からのメッセ-ジ
「新しいわたしたち」

〈だれも、織りたての布から布切れをっとって、古い服に継ぎを当てたりはしない。…また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない〉(マルコによる福音書2章21~22節)

★実はわたしたち人間というのは、目に見えるものだけを見ているだけでは、「希望」なんて、どこにも見出すことができないのです。なぜって人間には未来を見通すことができないのだから。目に見える隣国のミサイルとか、テロとか、独裁者だとか、そういうものに突き動かされているのではどこからも本当の「希望」なんて生まれてきはしないのです。「希望」というのは敢えて持つもの、嬉しいことや楽しいことが何処にも見当たらなくても、目に見えるものはミサイルやテロや独裁者であったとしても、それでも「希望」を持とうとわたしたちが心に決める時、その時初めて「希望」というのはわたしたちの胸の内に、小さな新しい芽を芽生えさせるのでしょう。
★以前信徒の方が礼拝で語ってくださった言葉が今も心に響いています。「どんな人でも、今が一番若いのですから」。自分の内に「新しいもの」「喜ばしいもの」を見つけ出すことが難しくなってくると、わたしたちは、自分の過去に依り頼もうとします。自分はこれだけのことをやってきた。こんな経験をしてきた。これだけのことを知っている。分かっている。そうやって自分を人よりも「上」の立てて、自分を守ろうとしてしまうのです。「どんな人でも、今が一番若いのだから」。そこには「自分の」業績や経験ではなくて、「神様が」造り出す、まだ見えない未来に、喜びを見出そうとする「希望」が感じられます。生きている限り、今日という、神様が作られる「一番新しいもの」を与えられている点では、生まれたばかりの赤ちゃんも、お年寄りも、まったく変わりはないのです。
★ここでイエス様が言われている「織りたての新しい布」「新しいぶどう酒」「新しい革袋」というのは、新しい今日という日を与えられているわたしたち自身のことなのです。一方「古い服」「古い革袋」というのは、わたしたちが自分自身の過去の業績や経験に依り頼んで、「上から目線」で世の中を見ようと苦労しているわたしたちの心持ち、有様のことなのでしょう。
# by oji-church | 2017-10-18 10:21 | 牧師からのメッセ-ジ
「病むことを当たり前として」

〈医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである〉(マルコによる福音書2章17節)

★8月に腰を痛めて4日間入院。歩行不能のわたしは看護師さんにストレッチャー、ベッド、車椅子で運ばれる日を送りました。普段お見舞いで伺いスタスタ歩く事になれた病院の廊下を「運ばれる」時、何とも言えない気持ちを味わいました。「情けない」「格好悪い」「申し訳ない」……。でもそれはもしかしたら、介護や介助を受ける側に身を置いておられる多くの人たちが、内心で感じていることかもしれないなあと思ってみるのです。そんな介護や介助を受ける側に身を置く人の胸の内に秘められたかすかな声は、なかなか世の中の表舞台には上がってきません。世の中の表舞台は、健康で丈夫な、介護・介助される必要のない人間というものを「当たり前」として成り立っていて、そういう小さな声に焦点が当てられることはほとんどありません。
★「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。ここでイエス様は、丈夫な人ではなく、病気の人に焦点を当てて、世の中の表舞台の真ん中に置くのです。確かに病気の人がお医者の手当てを、介助を、介護を必要とするのは「当たり前」のことです。イエス様は、丈夫で、自分の足で立ってスタスタあるいて「人を助ける側」にいるのが「当たり前」という世の表舞台のありようをひっくりかえして、むしろ病気の人をその真ん中に置いて、病気の人が手当てや介護や介護を必要とすることこそが「当たり前」であって、それは「情けない」ことでも「格好悪い」ことでも「申し訳ない」ことでもないと言われているのです。いわば、立ってスタスタ歩く目線を「当たり前」にするのではなく、車椅子に座り、ベッドに横たわり、ストレッチャーに寝かされて運ばれる時の目線をこそ、「当たり前」として、この世の中を見直してみること(=悔い改め)をわたしたちに呼びかけているということでしょうか。
# by oji-church | 2017-10-11 15:27 | 牧師からのメッセ-ジ
「愚直の信」

〈四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがし穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われた〉(マルコによる福音書2章3~5節)

★当時、「治らない病気」は「呪い」によると考えられました。治癒が困難であればあるほど、それはより強い「呪い」、すなわち、「神様の呪い」と考えざるをえなかったのです。それでもなお、この四人の人たちが中風の人をここに運んできたのは、彼らの思いの内に、「いや、神様は、人を永遠に罰するような、そんな呪いを人間に下す神様ではなく、人を祝福する神様であるはずだ」と、そんな強い希望があったからではないでしょうか。イエス様だったらそんな本当の神様の姿をよく知っているはずだ、と連れてきたのです。
★イエス様に引き合わせるために、人の家の屋根をひっぺがえすなど、アホのやることです。わたしたちはしばしば、クリスチャンになると途端に「訳知り顔のクリスチャン」になってしまいます。でも、信仰とは「愚直」であること、「愚かになる」ことでもあるのではないか。何に対して? それは、「神様は、人を祝福する神様であって、人を呪う神様であるはずがない」という希望に対して。病いを得ているどの人も、生きることに困難や厳しさを負っているどの人も、神様の祝福から外れているはずがないと。その困難や厳しさを乗り越えて、一緒に、与えられた命を喜んで生き生きと生きることのできる道が必ず備えられているはずだと。神様に対して「愚直」であることは、必ず、自分一人のわたくし的な「心の中の信仰」に留まらず、自分以外の人と手を取り合って共に生きることへと繋がっていきます。
★彼らの「愚直」な信仰を「見て」、そこに心を重ねて、イエス様は言われます。「あなたの罪は赦される」。「見てご覧。あなたはこんなにも愚直に、人を祝福する神様への希望を携えた人たちに囲まれているじゃないか。そうならば、あなたは神様に呪われてなんかいるものか。こんな人たちに囲まれて、あなたは確かにもうすでに、目一杯神様に祝福されているぞ」。そんなふうにイエス様は言われたのじゃないかと思うのです。
# by oji-church | 2017-10-04 12:21 | 牧師からのメッセ-ジ
「煽られた危機感の先には」

★先週、朝鮮がミサイルを発射しました。これに際して日本政府は「Jアラート」なる警戒警報を、北海道から東北、北関東3県、他に新潟、長野の計12県に発したということです。わたし自身、先月29日、秋田県にいた時にこの「Jアラート」を受けました。朝6時頃、突然枕元のスマホがすさまじい音量でビービー鳴り出しました。「こんな音で目覚まし、掛けたっけか?」と思いながらスマホを取り上げると、なにやら「国民保護情報」云々と書かれていましたが、寝ぼけて何かボタンを押したらすぐに消えてしまい、何のことやら分からぬまま、また寝てしまいました。
★朝鮮がいきなり日本にミサイルを撃ち込むことがないことは、現在までの情況を考えれば明らかです。また、実際に核弾頭を搭載したミサイルが日本に向かって発射されたなら、こんな警報が間に合わないことも明らかです。こうした警報を発することで、人の危機感や恐怖感を煽って、戦争をする態勢へと人心を束ねていこうとする意図があるのではないかと勘ぐってしまいます。
★84年前、桐生悠々という信濃毎日新聞の記者が「関東防空大演習を嗤う」という記事を書きました。昭和8年東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して「如何にそれが大規模のものであり、また如何にしばしばそれが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない」と語りました。この記事を読んだ信州在郷軍人会が信濃毎日新聞の不買運動を展開し、桐生は信濃毎日新聞を退社することを余儀なくされました。
★煽られた危機感によって自由な発言や批判が封じられた先には、有無を言わせぬ戦争が待っています。その時犠牲にされるのは一般庶民に他なりません。「Jアラート」は決して「国民を保護する」ものではありません。そんなことよりも、国際間に対話の気運を開くように努めることのほうが、余程意味あることではないかと思います。
# by oji-church | 2017-09-20 11:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「いやし―人をひととして向き合うこと」

〈イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人をいやし…〉(マルコ1:34)。

★聖書で使われる「いやす」という言葉は「テラペウオー」というギリシア語です。辞書で調べてみると、最初に出てくる意味は「いやす」ではないのです。「奉仕する、仕える、侍する、(神を)祀る、尊崇する」とあって、「世話をする、面倒をみる、意を用いる、心がける、配慮する」、次は「ご機嫌をとる、歓心を買う、へつらう、おもねる」、次に「育む、養う、大切にする、重んずる」とあって、その次「看護する」とあって、ほとんど最後に「治療する」とあります。聖書はイエス様のいやしの業をサラッと書いていますが、パパッと癒して「はい、次」というような「お手軽」なものではなかったのじゃないかと思えてきました。
★先月、腰を悪くして4日間入院しました。看護師さんたちには本当に頭が下がりました。担架で、ベッドで、車いすで運ばれ、歩行器で歩くのに付き添われしました。普段自分の足でスタスタ歩いている自分がどれだけ、高い目線でしか物を見ていないかを知らされました。そんなわたしを看護師さんたちは、丁寧に丁寧に、チョットした段差にも声を掛けて配慮して運んでくださいました。夜中中叫んで居られるお年寄りもいました。それでも嫌な顔一つせずに、呼ばれればそばに行き、説教めいたことは一言も言わず、言われたことに応える働きをなさっておられた。そういう看護師さんたちがおられることに心打たれました。
★「藪医者は人で持つ」という言葉があります。病気が治るかどうか以前に、病いや怪我を負った人を、尊い一人の人間として大切に、丁寧に扱ってもらえるかどうか、それがもうほとんど全部じゃないか、という思いを一層強くしました。イエス様がなした「いやし」「テラペウオー」というのも、そういうものだったのじゃないか。人を人として大事にする、心を通わせることのできる相手として向き合う。専門家にしかできないことではありません。だけれども、簡単にできることだとも思いません。問われているのは、わたしたちがどれだけ、人を人として、大切な存在として見つめ、向き合うことができるかということでしょう。

# by oji-church | 2017-09-14 13:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「記念―想い起こすこと」

★世の中では、学校で会社でも、しばしば創立何周年記念というお祝いをします。教会もしばしば同じように、創立記念の日にお祝い事をするのですが、聖書では「記念」という言葉は「想い起こす」という特別な意味を持っていることを知らされます。
★想い起こすという人間の営みには、さまざまな感情が伴わざるを得ません。時には胸の痛みや恥ずかしさ、悲しみと共に想い起こされる思い出もあります。しかし同時に、わたしたちが痛みや恥ずかしさや悲しみを越えて、前に進んでいくための力や励ましを与えられるのも、やはり「想い起こす」ことを通じてではないかと思います。わたしたちには未来を見晴るかすことはできません。わたしたちの胸の内に残されているのはすべて過去の出来事です。しかしまたわたしたちは、前に向かって、未来に向かって進んで行かなければなりません。その時に、前に向かって歩みを進めるわたしたちを支える杖となるのも、やはり過去の経験なのです。
★聖書を開けば、そこに語られているのは、ほとんど最初から最後まで、過去を想い起こす人間の営みです。聖書の中で神様は繰り返し「想い起こして見なさい」と人々に呼びかけています。聖書の中でイスラエルの人々は、神様によって繰り返し繰り返し、過去を想い起こすことを促され、そこに示されていたはずの神様の指し示しに、自分たちが、また自分たちの先祖が従い得なかった「罪」を直視させられるのです。しかしそれと同時に、その「罪」にもかかわらず、繰り返し神様がイスラエルの人々に呼びかけ続けてこられた、そしていまも呼びかけ続けておられる、そういう神様の姿をも想い起こさせられるのです。そうした改めて、神様から、今、そしてこれから未来に向かってわたしたちが進んで行く道筋を示される。それが、聖書の最初から最後までほとんど全部の頁に語られていることであり、この「想い起こす」という営みそのものが、聖書の信仰と言ってもよいでしょう。ですから、わたしたちもまた、教会の歴史を記念する時、単にそれを祝うのではなく、「想い起こす」ことが求められているのです。
# by oji-church | 2017-09-07 10:54 | 牧師からのメッセ-ジ
「なすべきこと―石の叫びに耳を寄せて」

★戦争から72年目の8月を迎えています。先月誕生日を迎えて48歳になりました。戦争後の72年とわたしの生きてきた48年とを引き比べると、丁度この敗戦後72年の3分の2の時間を生きてきたことになります。8月を迎える度に、わたしたちは戦争によるあまりにも多くの犠牲に思いを致し、平和を求めて礼拝を行っていますが、70年以上にわたってそれを積み重ねてきながら、いまのわたしたちを取り巻く状況を見ると、70年経ってまた、戦争の前に舞い戻っているかのようです。「特定秘密保護法」「安保法制」「共謀罪」と、いずれも戦前、民主主義の存在しなかった日本で、人々を国の都合で操り、戦争へと駆り立てる諸々の法律が定められていきましたが、それと同じものがいま、出揃っている有様です。この72年間、わたしたちは何をやってきたのか。少なくともその3分の2、半分以上の責任を、わたし自身も負っているのです。今からでも遅くない。そう信じて、なすべきことをなしてゆきたいと願うものです。
★わたしたちが平和を形作ってゆくために、まずなすべきことは何だろうか。イエス様は「もっとも小さい者にしたことが、わたしにしたことなのだ」と言われます。わたしたちは、この世界で「もっとも小さい者」を見つけることはできません。「もっとも小さい者」とは「わたしよりも小さくされた者」のことなのでしょう。平和を求めて進む時、それは、あの戦争によって無念の死を遂げた人々のことではないでしょうか。すくなくともいまここにいるわたしたちは、戦争によって命を奪われてはいないのですから。戦争によって無念にも命を奪われた人たちの、その声に耳を傾けること。それが平和を求めて進む時、わたしたちがまずなすべきことではないでしょうか。亡くなった人は声を挙げることはできません。それでもなお、その声なき声に耳をそばだてようとするとき、きっと聞こえてくる声があるはず。イエス様もそう言われています。「この人たちが黙れば、石が叫びだす」(ルカ19:40)と。平和を求める石の叫びに耳を寄せ、それをわたしたち自身の声として、平和を求め、形作ってゆきたいと願います。
# by oji-church | 2017-08-24 12:34 | 牧師からのメッセ-ジ