日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28
「イムジン河の畔」(2)

★韓国と朝鮮は、朝鮮戦争の結果、北緯38度線で分断されて、北と南の二つの国家に分けられてしまっています。歌でよく知られたイムジン河は北と南の境界線にあります。その河のそばに連れていってくださいました。朝鮮戦争時代、そこには鉄橋が架かっていました。爆撃で破壊されたその鉄橋を、朝鮮戦争の最中、荷物を抱えた人々が鉄橋の柱にしがみつきながら鈴なりになって戦火を逃れてくる様子を写した有名な写真もあります。今は破壊されて、橋脚だけが残っています。その脇には、金大中だ大統領が「太陽政策」の中で作った新しい鉄道の鉄橋が架けられていますが、その後、再び朝鮮と韓国の関係は冷えてしまい、いまはまた、閉鎖されています。
 川岸は有刺鉄線で囲われて軍隊の監視所が置かれており、河のほとりに降りていくことはできません。展望台のある高台には、北朝鮮に故郷がある人たちが、韓国のお盆やお正月に先祖を祀るための祭壇が築かれています。周辺には、北と南に分け隔てられてしまっている同胞が、再び平和裡に統一されることを願うメッセージを書いたリボンが、壁に無数に結びつけられています。今回、わたしがよく知り合っているソウル老会の牧師さん方の多くが、家族が北出身であることも知りました。北には親族もいるはずですが、まったく消息はつかめません。韓国の人たちは、北朝鮮の人たちとの間に、血の繋がった一人一人の顔を思い描くことのできる繋がりを持っているのです。ですから、韓国の人たちが北朝鮮に対して持っている感情は、「敵意」や「憎しみ」「恐れ」よりも、根本的には深い深い「悲しみ」の感情であると言っていいのではないかと思います。日本人が、そのように現在の朝鮮のありようを、「悲しみ」を共有しつつ思い描くことができるかどうか、問われた気がします。
# by oji-church | 2017-05-17 10:34 | 牧師からのメッセ-ジ
「イムジン河の畔」(1)

★4月17日から20日にかけて、韓国基督教長老会ソウル老会の定期会に出席するため、ソウルに行きました。日本では連日、アメリカと北朝鮮が一触即発の事態にあるかのような報道がなされていました。韓国でも同じように皆が深刻な危機感の中で緊張しながら暮らしているかのような報道です。帰ってきた今も同じような報道が繰り返されていますし、わたし自身も実際に行くまでは、韓国の人たちも同じような危機感の中で暮らしているものと思い描いて、「一緒に平和を祈りましょう」というメッセージを携えて行く準備をしていました。しかし、実際に韓国に行ってみると、韓国の人たちは、ごく普通の当たり前の日常の生活を続けていました。むしろ、日本でそんな大騒ぎになっていることに驚くと同時に、あきれてもいました。韓国の人たちは、こうした危機感というのが、一部の権力を持つ人たちが自分たちに都合良く社会を動かそうとして「演じられている」ものだということを、日本人よりも余程冷静に見極めている感じがしました。何故かと言えばそれは、日本による過酷な植民地支配に置かれた戦前・戦中、戦後も、朝鮮戦争や、軍事独裁政権に対する民主化闘争など、数々の厳しい社会情勢を乗り越えてくる中で韓国の人たちが培ってきた社会というものに対する確かな見識というものがあるのだろうと感じます。しかしそれとは別に、もっともっと大事なものを、韓国の人たちは日本人と違って、持っているということを今回の旅で感じさせられました。
★定期会の翌日、ソウル老会の人たちが、わたしたちをあるところへ連れて行ってくださいました。それはソウルから車に乗って、一時間足らずのところ。ソウルの町の真ん中には漢河(ハンガン)という大きな河が流れていますが、その川沿いを河口に向かって車で進んでいくと、河口の近くで別の河との合流点があります。別の河というのはイムジン河という名前の河です。(つづく)
# by oji-church | 2017-05-10 14:27 | 牧師からのメッセ-ジ

イースターのひよこたち

e0088612_11382264.jpg
教会学校の子どもたちが作ったかわいいひよこたちが教会の窓辺に迎えてくれます。


# by oji-church | 2017-05-03 11:39 | 教会学校のご案内
「知るとは愛すること」

〈一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった〉(ルカによる福音書24章30~31節)

★イエス様が十字架に付けられて殺された後、二人の弟子たちは復活したイエス様に出会いますが、二人はそれがイエスだとは気付かず、通りすがりの旅人と思って「そんなことも知らないのか」とイエス様が十字架に掛けられて殺されたことを「オレの方が知っている」とばかりに得々と説いて聞かせます。すぐ目の前に、隣りにいる人を、同じ人間とわかっていながら、人間として心通わせて出会うことができない。そんな人間の弱さ、不完全さを、わたしたち誰しもが実は持っています。
★日暮れが近づき、二人の弟子たちは、なお先に進もうとされる旅人を、エマオの村にある自分の家に強いて招きます。そこでイエス様と二人が食事の席に着き、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡したその時、はじめて二人の「目が開け、イエスだと分かった」と語られています。
★韓国では「食口(シック)」という、「一つのお皿からみんなで食べれば、もうそれで家族だ」そんな意味の言葉があります。人間は食べなければ生きては行かれない存在です。そんなある意味で人間の持っているどうしようもない弱さを、「一緒に食べる」ということは、共に分かち合うという意味があるのだと思います。そういう意味で、「一緒に食べる」というのは「愛する」ということの一つの形でもあるのでしょう。一つのパンを分かち合い、そのようして「愛する」ことをした時、はじめて目が「開けて」、弟子たちは「イエスだと分かった」のです。
★「一緒に食べること」は「愛すること」、「知る」とは「愛すること」。一緒に食べることを通じてわたしたちがお互いを知り合う時、そこに「愛すること」が起こっています。今、隣国同士、敵意や競合がわき起こっている中で、大切にしなければならないことかもしれません。
# by oji-church | 2017-05-03 11:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「韓国での出会いから」

★4月17日から20日にかけて、北支区長として韓国基督教長老会ソウル老会(「ソウル教区」のようなもの)の定期会(「総会」のようなもの)に出席するためにソウルを訪問しました。これで定期会に出席するのは4度目になりますが、毎回行くたびに、ソウル老会の方々は多忙を極める中で歓迎され、盛んな食事の接待や、韓国内の歴史を学ばせてもらえるいろいろな場所に連れて行っていただけることは本当に有り難く、感謝のしようもない程です。
★この間、知り合うことのできた牧師さんの中に、イン・ヨンナム先生がおられます。一昨年までソウル老会の総務(事務の総責任者のようなお仕事)を務めておられました。普段コワモテながら冗談ばかり言っている気さくな方ですが、本当に律儀な方で、定期会のお仕事やご自分の教会の働き(韓国の教会は毎朝5時くらいに早天祈祷会が行われます)に忙しい中を縫って、夕食後、ただわたしたちと一杯のコーヒーを飲むためだけに駆けつけてくださいました。一昨年、わたしが個人で韓国を訪れたときもホテルの手配をしてくださり、ソウル以外の町で泊まりがけで重要な会議をしている最中に時間を作ってソウルまで出て来てくださり、夕食をご馳走してくださいました。今回も、最後はただわたしたちをほんの一瞬見送るためだけに、車で1時間弱かかる空港まで駆けつけてくださいました。韓国の方々のこうした篤い懇意を有り難く思うと同時に、わたしたち日本人が見習わなければならないことだなあと思わされます。
★そのイン・ヨンナム牧師から、いまご自身が牧されているヒョンソ教会と王子教会とで交流を結びましょうとの提案を頂きました。本当に有り難く思いました。ぜひ実現に繋げて、本当に顔と顔とを合わせた出会いと繋がりを形作っていきたいと願っています。
# by oji-church | 2017-04-26 13:36 | 牧師からのメッセ-ジ
「ののはな」

★寒かった3月から、4月に入ってようやく春らしい気候になってきました。教会の植え込みの花もそれぞれに色とりどりの花を咲かせて、心を和ませてくれています。それぞれにいろいろな人が植えたもので、ほとんど手入れもしていないのに毎年こうして花を結んでくれることに感謝の思いで一杯です。この花々の姿から学ばされることはたくさんあります。
★「ののはな」の名前を冠した子ども食堂にも、一人また一人といろいろなところから子どもたちが集まってくるようになりました。ささやかな「居場所」ですが、本当にこの場所を楽しみにしてくれ、またここで出会って友だちになったつながりを、本当に喜んで大切にし合ってくれています。その姿を見るにつけ、まさに「野の花を見よ。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」という言葉の真実を教えられます。
# by oji-church | 2017-04-21 15:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「つまずきましょう」(3)

★振り返ればこれまで、自分がサービスを受けることより、人のために立ち働く人が、他の誰よりも生き生きと喜んでいる姿に出会わされてきたなあと思わされます。心身の不自由など「弱さ」を負って小さくされた人から、あるいは小さな子どもから、力強く人を励まされ、背中を押されたことは何度も。わたしなどよりもよほど厳しい貧しさの中にある人から招かれて、歓待を受けたことは数知れず。そんな、この世の常識をひっくり返したような生き様に触れさせられてきた。その度毎に、いっぱしに一人前のこの世の、世間の常識を身につけてきたと思っていた自分自身をつまづかせられ、打ち砕かれてきました。でもその度毎に、神様から与えられてある本当の「いのち」というものに触れさせられてきたようにも思う。
★この世の「当たり前」をひっくり返す神様の働きは、この世の表側からは見えないところで確かに、今日も今も働いて働いているます。
# by oji-church | 2017-04-12 16:15 | 牧師からのメッセ-ジ
「つまずきましょう」(2)

★「コレハドウイウコトダロウカ? 力が弱さの中でこそ発揮されるというのは、仕えられるためではなく、仕えるために来るというのは、最も小さい者が、最も偉い者だというのは、貧しい人々が幸いだというのは?」。考え始めると、ワケが分からなくなる。心が乱されて、バラバラになる。つまづき転んで、自分というものが地面に落ちた卵のように割れる経験をする。
★「人の子は必ず多くの苦しみを受けて、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」というイエス様の言葉を聞いて、ペトロは「そんな物騒なことを言っちゃいけません」と、この世の物の考え方からすれば当たり前のことを言ったはずでしたが、それを「サタン、引き下がれ」とこっぴどくイエス様からこっぴどく叱られて、ペトロの心は乱れ、砕かれ、バラバラになったことでしょう。でもそんな乱れ、砕かれた心でもって、もう一度この世界を見直してみるとき、この世界が違って見えてくるということがあるのじゃないか。
★これまで当たり前と思ってきたことが、当たり前じゃなく見えてくることがあるのじゃないか、と思うのです。「当たり前」と思っていた自分自身が砕かれて、「当たり前」の自分自身が砕かれることによって、はじめて、「いのち」というものの本当の姿が見えてくるのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の特があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。これが「いのち」というものの本当の姿です。この世の常識とは正反対の。
# by oji-church | 2017-04-05 10:20 | 牧師からのメッセ-ジ
「つまずきましょう」

★「つまずく」という教会用語があります。人のクリスチャン「らしくない」振る舞いによって、信仰を持って生きる気力を奪われたという意味。元は何らか挫折を経験して、そこから先に進めなくなってしまうという意味でしょう。「つまずく」というのはあまりいい意味で使われません。けれども、この言葉が大切なこととして語られている場面もあります。パウロは、自分がこれまでのユダヤ教のように、救われるためには割礼が必要だと宣べ伝えていたとすれば、「十字架のつまずきもなくなっていたでしょう」と語っています。つまり、イエス様のことを宣べ伝えるときには、必ず「つまずき」というものが伴うんだと言っています。
★イエスを宣べ伝えること、それは、この世の中の、世間一般の普通の見方、考え方をひっくり返すようなことを宣べ伝えるということです。そしてそれはこの世の中の表側の、目に見えるありようからは見えないことです。この世の中の表側の目に見えるありようだけを見て生きている時、わたしたちはどうしたって、イエス様の言葉やイエス様の生き方に、つまずかざるを得ないのです。
★「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ」。「最も小さい者こそ、最も偉い者だ」。「貧しい人びとは幸いだ」。そんなのはこの世の常識とは違う。そんなことあるわけがない、と。わたしたちはつまずきます。そこでつまずいて止まってしまい、また世間の常識的なものの見方、考え方に帰っていくこともできます。でも、そんなふうに聖書の言葉につまずいた時が、チャンスでもあるのだと思うのです。「コレハドウイウコトカ? 仕えられるためではなく、仕えるために来るというのは、最も小さい者が最も偉い者だというのは、貧しい人々が幸いだというのは?」。考え始めると、ワケが分からなくなる。心が乱されて、バラバラになる。つまずき転んで、自分というものが地面に落ちた卵のように割れる経験。しかしそこが「始まり」なのです。(つづく)
# by oji-church | 2017-03-30 16:05 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱さの傍らにいることこそ」

〈力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ〉(コリントの信徒への手紙二12章9節)。

★いまわたしたちの生きる世界は、アメリカの大統領の選出によく現れているように、どの国も、どの人間も、競って我勝ちに自分の利潤、利益を追い求める世界になっています。この利潤競争に打ち勝つための「強さ」が求められる時代です。その中で、わたしたち一般の人びとは権力を持つ人たちに煽り建てられるようにして、お互いにお互いを分け隔てて対立し合い、貶め合い、憎しみをぶつけ合う様相を呈しています。そんな醜い自分自身の有様を繕うために、嘘偽りがそこら中に横行はびこっています。その傍らで、貧しい人や難民となる人びとが犠牲とされています。そのように「強いことこそいいことだ」と考えてきた末に、わたしたち人間の世界は、おそろしく醜く、また残酷な世界になっているのではないでしょうか。
★わたし自身も、自分の「能力」だとか「粘り強さ」(執念深さ?)だとか、そんな自分の「強さ」を頼りにしようとしている自分がいることに気付かされます。でもそんな自分の「強さ」が綻ぶとき、わたしもきっと醜く、残酷な姿をしているのです。
★「子ども食堂」を開いて、学校や家庭になかなか「居場所」を見出すことのできない子どもたちを迎えにいって、隣り合って歩き、肩を寄せて一緒に食事の準備をし、遊び、食べる、そんなささやかな「居場所」の中で、自分自身の「強さ」を解かれ、弱さの中からほんとうの「喜んで生きる力」が沸き上がってくる経験をします。嘘偽りで自分を取り繕う必要はまったくありません。ああ、これが「力は弱さの中で発揮される」ということなのかなあと思い至ります。「弱いことこそ、いいことだ」「弱さの傍らにいることこそ、嬉しいことだ」、掛け値無しにそう言い合える世の中を待ち望みたいと思うのです。
# by oji-church | 2017-03-22 11:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「語る言葉を持たない声に耳を寄せて」

〈イエスは……一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。『わたしの名のためいこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。……あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である』〉(ルカによる福音書9章47~48節)。

★イエス様は、「誰が一番偉いか」という議論に対して「自分が一番偉い」「自分が一番正しい」とは言わないのです。「自分が一番偉い」「自分が一番正しい」のだから、自分の言うことを聞け、自分を受け入れろ、とは言われないのです。そうではなくて、一人の子どもの手を取ってそばに立たせて、この子を「受け入れなさい」と言われるのです。弟子たちはびっくりしたでしょう。子どもというのは当時、ただただ世話の必要な厄介者と見なされていました。「子どもの人権」などと言われるようになったのはごくごく最近のことです。そんな中、イエス様は「誰が一番偉いか」という議論に対して「この子どもを受け入れなさい」と、つまりは「この子どもの言うことを聞きなさい」と言われたのです。そして、それがイエス様を受け入れるということであり、神様を受け入れるということなんだと言ったのです。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。
★よくわたしたちは謙遜して「わたしなど小さな者です」なんて言ってみたりしますが、実はそれは、ここでのイエス様の言葉に照らしてみれば「エライ」ことを言っていることになります。「自分が一番偉い」と言っていることになるのですから。「わたしなど小さな者です」と「言える」ということは、実は結構自己主張している、ということでもあるわけです。
★大人たちの間に立たされた子どもは「わたしなど小さな者です」とも言えなかったでしょう。語る言葉を持っていなかったでしょう。でもそんな小さな子どものように「語る言葉」さえ持たない者、その「弱さ」「小ささ」に、じっと耳を寄せて、耳を傾け、受けとめていくことの中に、わたしたちが神様を受け入れる、神様に聞き従って生きていくという道筋があるんだ、といういことを、イエス様は弟子たちに示されたのではないでしょうか。
# by oji-church | 2017-03-15 10:53 | 牧師からのメッセ-ジ
「愛とは与えることだけど」

★昨年7月に起きた相模原の障害者施設での殺傷事件の被害者の中で、実名を公表している尾野一矢さんのご両親がニュースの中で語っておられた言葉が、深く心に残りました。家族の真ん中にいつも一矢さんがいた、とご両親は語られます。「一緒にいて不幸だと思ったことは一度もない。わたしたちに宝だ」と。そのようにして大切に、愛して、一矢さんをご両親は育てて来られました。犯人に対する憎しみがわき起こってくるのを「そればかり考えていると、犯人に負けてしまうから」と敢えて憎しみを封印して、代わりに「障害者は不幸をつくることしかできない」「障害者なんていなくなればいい」という犯人の言葉とたたかうために、顔と名前を明かして自分たちの姿を明らかにしたと言われます。そうしてお母さんが言われた言葉が深く心に残りました。「息子は今回、被害者となったが、他人を傷つけることしかできない容疑者より幸せだ」「一矢は刺されちゃったけど、刺すよりはマシかなって。私は一生懸命かわいがって、いらない子なんかじゃなかったから」。
 この言葉を聞いて、本当に「愛する」とはどんなことなのかを教えられた気がしました。「愛とは与えること」。でもそれは「愛するばっかりで何の見返りもない」わけではないんだということです。愛するということ、自分の弱さをを人にさしだし、与えていくことを、本当に本当に、大切に、丁寧に重ね、育てていくとき、そこには本当に、深い「喜び」があるのだということを教えられました。それは人を憎む気持ちとたたかって打ち勝つ強さを持った「弱さ」「愛すること」なのです。
★自分の「弱さ」など人に差し出し与えたところで何の役に立つだろう、と思われるかもしれません。でもそれこそが、真の意味で「人間」というものを造り上げていくのでしょう。「いらない子なんかじゃない」人間、宝としての人間を、です。お互いの「弱さ」をさしだし合い、「弱さ」によって出会い、繋がれながら、お互いに大切な、宝物である人間になっていく、そういう道を見出し、進んでゆきたいと願います。
# by oji-church | 2017-03-08 13:30 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱さの中に働く神様の力」

〈わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ〉(コリントの信徒への手紙二第12章9節)

★弱さの中にこそ満たされる神様の力って、いったいどんなものなのでしょうか。それはやはり、人と人とを繋ぐ力、人と人とを出会わせ、結び合わせる力なのではないでしょうか。パウロ自身が持病やしょうがいを負っていたように、人は生きている限り誰もが心や体に傷を負っているものです。生きるということは傷を負う弱さを背負うということです。そんな自分の弱さを心に留める時、わたしたちは自分一人では生きられないと思う。誰かと繋がり、誰かと結び合わせられることによって、初めて人間というのは生きることができる存在です。しかしわたしたちは、なかなかそのように自分を見つめる眼差しを持つことができません。自分の「強さ」、自分の「力」に寄せる思いしか持っていないから。それで、自分の「弱さ」に直面すると、もうそこで絶望するしかなくなってしまいます。「弱い」自分に直面すると、もう夢を望むことができないと思ってしまう。それで「強い」人、「力を持った」人に依り頼もうとしてしまいます。
★けれどもパウロが示されたのは、「自分の」力、「自分の」強さ、あるいは自分より「強い人」の「強さ」、自分より「力ある人」の「力」ではなく、神様の「力」でした。それは「弱さの中にこそ満たされる力」。人と人とを同じく「弱さ」を背負った者として受け容れて、出会わせ、結び合わせ、互いに助け合う者同士として繋ぐ力です。この神様の力によって、わたしたちは自分自身の「弱さ」に直面し、自分自身の「弱さ」を背負いながらも、なお夢を望むことができるのだと思うのです。
# by oji-church | 2017-03-01 16:43
「誰かが弱っているなら」

〈誰かが弱っているなら、わたしが弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ11章29節)

★先々週から先週にかけて、神学校で日本基督教団の歴史を教える授業を受け持ちました。かつての戦時下、ひたすらに戦争勝利のための「強さ」が追い求められた時代の中で、日本のクリスチャンたちが自分たちのだけの「生き残り」のために、国家崇拝に同調し、戦争を支持し、戦意昂揚に加担していった歴史を神学生たちと一緒に学んでいます。でもそれによって、どれだけ多くの人たちが戦争に駆り立てられ、また戦争によって命を奪われたか計りしれません。戦時下の教会は自分たちだけの生き残りを図って、ある意味でそれは成し遂げられましたが、そこには戦争に駆り立てられ、戦争で命を奪われていった多くの人たち、その「誰か」に心寄せる信仰を失っていたことは否めません。
★今教会はいわゆる「教勢」の落ち込みの中でじり貧の状態であることも神学生たちに教えます。その中でやはり自分たちの「生き残り」のために「強さ」の時代に同調していくことも可能でしょう。ですが、あの戦時下の教会の有様を振り返る時、いま教会が「弱さ」の中に置かれていることの中に、むしろ神様の「恵み」らしきものが感じる気がするのです。この「強さ」の時代の中で、数多く「弱さ」の中で苦労を背負わされ、ゆく先の見えない状況に追い込まれている人たちがいます。今教会が背負わされているじり貧の「弱さ」には、もしかしたら、そんな「弱さ」を背負わされて、苦労している多くの人たち、その「誰か」を離れないように、その「誰か」の傍に居続けるように、という神様の思い、神様の呼びかけが響いているのではないかないと思うのです。
★イエス様に出会い、弱さのままに、裸の姿で、しかしなお前を向いて進んでいく。そうして、同じく弱さを背負った「誰か」と出会わされ、その「誰か」の元を離れずに、弱さゆえの苦労を分かち合い、それを通じて希望を見出していく、心を温かく燃やされていく、そんな信仰の歩みを大切にしてゆきたいと願うものです。
# by oji-church | 2017-02-15 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ
「信仰を生きるということ」

★2月11日は国の暦では「建国記念日」です。これは日本神話で神武天皇(伝説上の天皇で歴史学的には存在しなかったとされてます)の即位の日が西暦661年旧暦1月1日(現在の暦で2月11日)とされていることによります。戦前は「紀元節」と呼ばれていました。日本基督教団の暦ではこの日は「信教の自由を守る日」となっています(1968年の教団常任常議員会決議)。
★2月に入って神学校で「日本基督教団史」を教えています。1939年に各宗教団体を国の統制下に置くための「宗教団体法」という法律が公布されます。折しも救世軍に対して「英国のスパイ」だとするバッシング・キャンペーンが各地の新聞で巻き起こります。これに恐れをなした日本のプロテスタント教会諸派は、その後雪崩を打って、国の指導に沿った「日本基督教団」という一つの教団の形成へと突き進みます。
★1941年に創られた日本基督教団は、その創立当時の規則の中に「生活綱領」という信徒の生活指針とするべき箇条を掲げています。「本教団ノ生活綱領左ノ如シ 一 皇国ノ道ニ従ヒテ信仰ニ徹シ各其分ヲ尽シテ皇運ヲ扶翼シ奉ルベシ 二 誠実ニ教義ヲ奉ジ主日ヲ守リ公礼拝ニ与リ聖餐ニ倍シ教会ニ対スル義務ニ服スベシ 三 敬虔ノ修行ヲ積ミ家庭ヲ潔メ社会風教ノ改善ニ力ムベシ」。ここでは国の指導する国家崇拝と、日常の「敬虔な」信仰生活とが一つにされて、信徒が生活指針とするように薦められています。当時教会はほとんど、戦争を遂行する国家の一機関となって信徒を戦争へと駆り立てる働きを担っていたのです。その中で信仰は、ただ心の中で信じるだけのもの、具体的な生き方や社会の中には反映されないものになっていきました。
★わたしたちも、ともすると信仰というのは「心の中で信じること」と思ってしまいがちですが、しかし信仰というものは、実際の生活の中での具体的な生き方や働き方として表されないならば、口では「平和の福音」を説きながら、実際には権力や暴力を追い求める世の中の風潮に同調する「偽善」になってしまいます。「信仰を生きる」とはどういうことなのか、簡単なことではありませんが、いつも心のどこかに留めておかなければいけないことでしょう。
# by oji-church | 2017-02-08 10:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「『誇り』はどこからやって来る?」(2)

★2011年の3月11日の震災後、何度か救援に行きました。今から思えば、そこでわたしがやった救援活動など、いかほどか役に立ったのか、誠に心許ないものでした。ただ、そこで奥羽教区の教会の人たちから教わったことがあります。何かといえば、とにかく体を動かすのだということ。確かに救援の働きそのものの成果はほとんど無きに等しいものだったかもしれませんが、しかしとにかく体を動かして進んでいった時、その先には必ず誰か『人』がいました。苦悩と痛みと悲しみを背負った人たちです。その人たちに対して、わたしも小さな存在に過ぎず、何も役に立つことは出来なかったけれども、少なくとも、そこに向かって身体を動かして進んでいったことで、その人の苦悩と痛みと悲しみの一端を、分かち合うことができただろうか」。そんな思いを持っています。
★人間とは小さな存在です。災害や、国々の大きな権力の横暴による戦争や、大勢の人の塊によって引き起こされる差別や抑圧や、排除や反目を前にして、一人ひとりの裸の人間は誠に弱く、卑小な存在です。だけれども神様は、そんな小さな身の丈のわたしたち一人ひとりに、裸の「わたし自身」を与えて下さいます。そうして、そういうお互いの弱く小さな「わたし自身」を出会わせ、つなぎ合わせていくとき、そこに本当の「誇り」、身の丈に合ったと言っても、実はそれ以上に誇るべきものなどあり得ない、大いなる「誇り」が訪れるのでしょう。「誇り」というものは、「オレってスゴイ」「日本ってスゴイ」と、いくら自分で自分を誉めそやしてみたところで、本当の誇りというものは生まれては来ないでしょう。「誇り」というものは、小さな身の丈の自分自身を担い、その小さくて無力な自分自身を、他の小さく無力な人に触れ合わせ、その小ささ故の弱さや痛みや苦悩や悲しみを分かち合う中から、自ずとわたしたちのもとを訪れてくるものなのでしょう。
# by oji-church | 2017-02-02 15:19 | 牧師からのメッセ-ジ
「『誇り』はどこからやって来る?」

★今、夜のテレビ番組を見ていると、毎日と言ってもいい程必ず「日本はスゴイ」という主題の番組が放送されています。自分自身や自分の暮らす国の「よい部分」を見出すことは決して悪いことではありませんが、完璧な人間も完璧な国家も存在しない以上、自分自身の「よい部分」を見出すことが本当に意味あることになるためには、同じだけの注意深さをもって自分の「悪い部分」も直視しなければならないでしょう。
★第一次安倍政権では教育基本法が改定され「愛国心」が盛り込まれました。安保法制が作られて戦争をする体制が整えられています。「日本スゴイ」が連呼される一方で、国立青少年教育振興機構が2015年に公表した調査では、高校生の72%が「自分はダメな人間だと思うことがある」と回答しているとのことです。個人の尊厳が傷つけられる一方で、国の尊厳が称揚される社会というのは危うい社会だと言わなければなりません。
★人間というのは、自分自身の尊さ、尊厳を噛みしめながらでなければ、本当に人間らしく活き活きと生きることのできない存在です。でもいま物事がうまく進まない時代の中で、それがとても難しいことになっています。いきおい身近なところにあるもっとも大きく強いもの、国家というものに自分の尊厳、誇りのよりどころを見つけ出そうとします。けれども国家というのはどんなに優れた国家であっても、それは人間が作りだした、今のところなお未完成の不完全なものです。それゆえ国家というものは、余程注意深く監視し、整えていくことを怠らないようにしなければ、しばしばその大きさ・強さによって生みの親であるはずの人間を飲み込み、食いつぶし、命を奪う存在なのです。ですから自分自身の尊厳、誇りを見出すそうとする時には、手近な大きいもの、強いものにそれを託すより前に、人間の真に奥深いところに問い尋ね、省みながらじっくりと考えてみることが大切なことです。(つづく)
# by oji-church | 2017-01-25 12:06 | 牧師からのメッセ-ジ
「人間を創り上げる力」

〈わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ10:4~6)。

★人間というのは、誰しも「強さ」と「弱さ」を合わせ持った存在です。強い部分では自分は他の人たちよりも「できる」部分を持っていると考えていますが、ひとたび自分より強い相手に出くわすと、とたんに「弱い自分」が前に出て来ます。そうしてそんな「弱い自分」に劣等感を感じながら、卑屈に振る舞ったりします。同じくらいと思う相手には、虚勢を張って、張り合ってみたり。けれども、そんなふうにしているうちに、わたしたちはきっと自分自身というものをバラバラに崩れさせてしまい、自分という一人の人間の価値、本当の尊さを見出せなくなってしまいます。
★パウロはそんな「強い自分」と「弱い自分」の間で右往左往しているわたしたちに「自分の力に依り頼むな」と呼びかけます。神様の力がわたしたちの存在の芯の部分に働いているんだということを知る時、わたしたちは真実の、キリストにふさわしい穏やかさを見つけ出すことができるのでしょう。それは人間を真に人間らしく創っていく穏やかさです。
★わたしたちの世界は今、国同士も人間同士も互いに虚勢を張って自分を誇り、他を見くびり貶めるような有様を呈しています。このような「人間の強さ」は、やがて人間自身を自分の力によって打ち倒してしまうことでしょう。そうではなく、人間を創り上げる力とが不思議にもわたしたち一人一人には与えられているのだと。この「神様の力」をわたしたち自身の内に見出し、それを確信し、見た目の「弱さ」とは裏腹に、神様の平和と正義を打ち立てるための力強くねばり強い歩みを歩んでゆきたいと願うのです。
# by oji-church | 2017-01-17 09:56 | 牧師からのメッセ-ジ
「『生きていく人間』であるために」

★2017年が明けました。まだこの年がどんな年になるのかはわたしたちには分かりません。わたしたちに出来ることは過去を振り返りつつ、そこで経験したことを未来に生かすことだけです。昨年2016年はどんな年だったでしょうか。4月には熊本で大きな地震があり、50人の方が命を奪われました。いまも救援、支援の働きが求められています。10月にも鳥取でやはり大きな地震がありました。さらには11月にも福島県沖の地震により、あの東日本大震災以来、再び津波が起こり、現地の人たちは恐ろしさに打ち震える経験をしなければなりませんでした。このように自然災害が続いている状況は、何かわたしたち人間に警鐘を鳴らしているように思えてなりません。
★メディアではオリンピックの話題がたけなわです。その一方で、オリンピック開催に掛かる費用を巡る駆け引きが連日報道されていました。そもそも遡ってみれば、このオリンピックは「福島の原発は完全にコントロールされている」と、世界中に「嘘」を報告することで招致にいたったものです。
★こうした「嘘」の背景には、「嘘をついて騙しても構わない」という人間を軽視し、見くびる思いが隠れているように思います。こうした人間に対する軽視、侮りは必ず、人間を痛め傷つけても構わないという「暴力」へと繋がっていきます。嘘をついても、力を持つことこそが「正しい」ことだと考えて、嘘や不正を告発されても力でねじ伏せてしまえばいいと考える傲慢な権力崇拝が生まれます。
★権力崇拝が、必ずや人間そのものを破壊し、人間を滅びへと導くものであることを聖書は語っています。真実を見据えるということは、人間を尊重するということです。「滅びへと至る人間」ではなく「生きていく人間」であるために、真実を見据えることを大切にしてゆく1年にしたいと願うものです。
# by oji-church | 2017-01-11 16:37 | 牧師からのメッセ-ジ
「一過性の喜びでなく」

〈代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜びとし、その民を喜び楽しむものとして、創造する。……泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない〉(イザヤ書65章18~19節)。

★今わたしたちの暮らす世界では、国同士や民族同士の対立や反目が高まっています。国や民族を繋ぐのは軍事同盟や「お金」といった人間の創り出す「モノ」ばかりです。新しい「モノ」が生み出されれば、それが「光」と見なされます。でもその「光」は、すぐに古び、色あせてしまい、わたしたちはまた別の「モノ」を求めて、際限なく暗闇の中を彷徨うことになります。わたしたちは、そんなわたしたちの時代の暗闇とたたかうために、この暗闇の世界の中から生じてくるのとは違う光を見出さなければなりません。それは、わたしたち人間が創り出すのではない、神様がこの世界にもたらすもの、神様の働きそのものです。
★神様はこの世界を造って、それで働きを止めてしまったわけではない。神様は「わたしは創造した」と過去形で語るのではなく、「わたしは創造する」と現在型で語ります。そして、神様は何を基準に新しい創造の働きを始めようとするのかと言えば、それは「喜び」です。神様はわたしたちに向かって、「あなたがたにとって、本当の喜びとは何なのか」と問いかけておられるのです。それは次々と新しい「モノ」を手に入れることなのか。でもそれは、再びどこかで「泣き声、叫び声」を生み出す一過性の「喜び」に過ぎません。「あなたがたにとって本当の喜びとは何なのか」と問いかける神様に促されて、わたしたちは、わたしたちの一過性の喜びの傍らで、泣き声、叫び声を挙げている人たちの、その泣き声、叫び声に耳を傾け、その悲しみや苦しみを共に感じ受けて、それが本当の喜びへと変わることを目指して歩む道へと押し出されます。
# by oji-church | 2016-12-20 15:18 | 牧師からのメッセ-ジ