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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
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神は人を分け隔てしない(1)

〈おもだった人たちからも強制されませんでした。——この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。〉(ガラテヤの信徒への手紙2章6節)

★ある時、ユダヤから一群の人々が、パウロが活動していたシリアやキリキアの教会にやってきて、異邦人は、ユダヤ教の律法に従って割礼を受けるのでなければ、キリスト教徒として認められない=救われないと説きました。彼らはどうも、エルサレムの教会本部の権威を笠に着て、「上から目線」でそうしたことを説いて回っていたようなのです。そこには彼らの人間的な思惑がありました。それは自分たちのユダヤ人としての「優越感」です。

★人はしばしば、自分が人よりも「上」の立場でありたいと望みます。そうして、そのことを示せる目印を見つけようとします。この場合、ユダヤ教の律法の掟に従って割礼を受けているというのがその目印でした。この目印に従って人に優劣の順番を付けるのです。ひとたびそうした順番付けが始まると、それは際限なく広がっていき、すべての人がその順番に沿って並べられることになります。

★その中で自分が一番「上」であったら嬉しいに違いないけれど、いつも自分が一番「上」になれるとは限りません。その時、人は自分よりも「上」に誰かが居ることを認めつつ、でも自分よりも「下」に誰かが居ることで自分を慰めようとする。そして、自分よりも「上」の人の力を借りてきて、自分より「下」の人々を押さえつけようとする。これが、「優越感」の正体かもしれません。別名「権威主義」と呼ばれるものです。(つづく)


# by oji-church | 2022-05-25 13:43 | 牧師からのメッセ-ジ

「あなた」に呼びかける福音(2)

〈わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。〉(ガラテヤの信徒への手紙1章11〜12節)

★パウロは自分が受けた福音は、人から受けたのではなく、イエス・キリストによって知らされたのだと言います。どういうことでしょうか。使徒言行録にはその場面が物語られています。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた」(使徒言行録9章3〜7節)。

★パウロはここで恐らく、にわかには他の人と共有できない、他ならぬたった一人の自分に向かって、イエス様から呼びかけられるという経験をしたのだと思うのです。福音は、「みんながやっているから」という人間同士の集団心理において生まれるものでもいなければ、集団心理において働くものでもないということです。

★福音とは、神様が、人がどうあれ、すべての人に向かって「必ず『あなた』を見つけ出し、どこまでも『あなた』を愛し通そう」と約束され、呼びかけられているということ。福音とは、他ならぬ、一人の人間としての「あなた」に向かって「あなた」と呼びかけられる神様の声なのだということです。


# by oji-church | 2022-05-18 09:06 | 牧師からのメッセ-ジ

「あなた」に呼びかける福音(1)

〈あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。〉(ガラテヤの信徒への手紙1章13〜14節)

★パウロは元はユダヤ教の熱心な律法学者として、キリスト教徒の迫害に携わっていました。パウロの属したファリサイ派のグループの中では、キリスト教徒を迫害することは、ユダヤ教の信仰を清く保つために善いことと見なされていました。

★こうした状況で「集団心理」が働いて、暴力がエスカレートしていきます。ファリサイ派という大きな集団の中に浸かりきると、それとは違うもの、またその集団にとって不都合なものを許せなくなっていきます。そうしたことは現代社会にあってもわたしたちの身近なところに多く生じています。例えば「日本」「日本人」という集団に没入する時、日本政府や日本社会のあり方に批判や問いを投げかける外国や人々に「反日」というレッテルを貼って攻撃したり、ヘイトスピーチを浴びせたりすることです。

★また、そうした集団の中にあって、自分が他の集団の中でどう見られるかが気になって、集団の中でより称賛を得るために、あるいは見下されないために、競って暴力的に振る舞う心理が働くことになります。今盛んに伝えられているロシア軍によるウクライナ人の虐殺にはそのような心理が働いているように思いますし、それはかつての戦争で日本軍がアジアにおいて行った暴力や虐殺にそのまま重なるものです。

★パウロはその集団の中でより優れた者と見られるために、人と競って、人よりもなお進んでキリスト教徒の迫害に携わったというのです。パウロはそのように、人間の集団の中で集団心理に突き動かされていたのです。(つづく)


# by oji-church | 2022-05-11 09:29 | 牧師からのメッセ-ジ

小さな人間に働く復活の力(2)

〈助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。〉(出エジプト記1章17節)

★マルコによる福音書の復活の場面は、空の墓に出くわした女性たちが逃げだし、「恐ろしかったからである」という言葉で終わっていますが、ここにも「おそれる」女性たちの姿が語られています。エジプトで奴隷としてこき使われていたイスラエルの人々が増え広がることを恐れたエジプト王ファラオが、イスラエル人の男の子を産まれたらすぐに殺すように助産婦たちに命じます。しかし、「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」と語られます。この助産婦たちはファラオの持つ権力に比して、弱く、小さく、はかない存在に違いありません。しかし彼女たちは「神を畏れていたので」、ファラオの権力を恐れることなくそれに逆らって、子どもたちの命を選び取ったのです。

★マルコによる福音書の最後で「恐ろしかったから」と語られる女性たちのありさまは、一見みじめで情けないものです。けれども彼女たちはここで何を恐れていたのか。それは、あのエジプトの助産婦たちと同じく「神を畏れた」のじゃなかっただろうか。★「神を畏れる」こと。それは困難な状況の中においても、「命を選び取る道は必ず備えられている」という神様の呼びかけを真剣に受けとめて生きることです。彼女たちは恐れの中で、ひとたび沈黙したことでしょう。しかし彼女たちは、神様の呼びかけを聴き受け、それと向き合い、それを真剣に受けとめました。そうすることで彼女たちはやがて、あのエジプトの助産婦たちと同じように、不思議にも力を与えられて、命を選び取ることへと踏み出し、イエス様の甦りを伝える者になっていったのだと思うのです。それこそが「復活」の力というものではないでしょうか。

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植え込みのつるバラが見頃を迎えています。



# by oji-church | 2022-05-04 10:55 | 牧師からのメッセ-ジ

小さな人間に働く復活の力

〈「…さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人達は墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〉(マルコによる福音書16章7〜8節)

★マルコによる福音書の復活の場面は、イエス様の復活の知らせにもかかわらず、うろたえて逃げ去る女性たちの姿が語られ、そこで福音書は閉じられています。この結末に満足しなかったマタイやルカがこれとは別にれっきとしたイエス様の復活を物語る福音書を改めて書き下ろしたとも言われます。

★けれど改めて想い巡らせてみます。同じ場面に出くわしたら、わたしたちだって同じようにうろたえて逃げ去り、茫然となって誰にも何も言えないのじゃないか。福音書を書いたマルコという人は、必ずしも否定的に語ってはいないと思うのです。「そうだ。人間とはそういうものだ」と。

★復活とは、命を選び取ることが困難に思える状況の中にあってもなお、「あきらめず、命を選び取ることを求め続けなさい。道は必ず備えられている」という神様の呼びかけであり、そのことのために働く神様の大きな力を現すものです。その命を選び取ることに注ぐ神様の大きな力を前にする時、人間は小さく無力ではかない存在に過ぎません。マルコはこの人間の小ささ、無力さ、はかなさをそのままに「それでいい」と肯定しているのではないかと思うのです。しかし、その小さく無力ではかない人間が、神様の力によって、不思議にも困難の中で、それでもなおあきらめずに命を選び取ることへと踏み出していく。それこそが「復活」と呼ぶべき出来事なのじゃないかと。(つづく)


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子どもの教会のスタッフが玄関の窓をイースター仕様に飾ってくれました。

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# by oji-church | 2022-04-27 10:46 | 牧師からのメッセ-ジ