日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「神様の言葉を生きる」

〈「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。……あなたたちは受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」〉(マルコによる福音書7章8・13節)。

★ここでは、「人間の言い伝え」と「神の言葉」とが対比されています。人は自分が大事にしているものが他の人からも大事にされることを望むものです。それ自体は悪いことではないと思います。けれどもそれが、いつの間にか、「自分が大事にしているもの」ではなく「自分自身」になり、「大事にされる」が、「強く大きく、人を圧倒する立派さを備える」に変わってしまうことがある。宗教というのは、そのように変質してしまう危険をいつも孕んだものなのでしょう。
★神様の言葉って、もともとは、大事なことが、人を問わず、立場を問わず、肩書きを問わず、資格を問わず、地位を問わず、みんなで一緒に大事にされることをこそ、望み求めるものだったのじゃないか。それがいつの間にか、現代の教会でも、地位や肩書きや、立場や資格が問われ、神様の言葉そのものよりも、地位や肩書きや、立場や資格の方が有り難がられる、そんな面もあるのじゃないかと思うのです。
★神様の言葉が呼びかけること、それは大事なことをみんなで一緒に大切にすること。そこには人の大きさや強さや立派さは全く関係ありません。むしろだれもが、それぞれに大きさではなく小ささを、強さではなく弱さを、立派さではなく情けなさを抱えながら生きています。その小ささ、弱さ、情けなさに寄り添うのが神の言葉なのでしょう。神様の言葉は、強く大きく、立派に祭り上げるためのものではありません。神様の言葉は、人を問わず、地位も立場も、資格も肩書きも問わず、みんなで一緒に大切にし、わたしたち自身がそれを「生きる」ためのものなのでしょう。
# by oji-church | 2018-06-13 15:08 | 牧師からのメッセ-ジ
「〈聖霊を信じる〉って?」(2)

★人間同士、すぐには理解しあうことは難しい。解りあえず、気持ちがささくれ立ってしまうこともあるでしょう。むしろ現実の人間同士の触れあいでは、そういうことのほうが多いかもしれません。それがあの人ともこの人とも、続き重なれば、人間に対する失望、アキラメ、絶望だけが残ってしまうでしょう。けれども、「いや、人間同士の関係というのは、今目の前にあるものだけで成り立っているのじゃない。わたしたちの目には見えないところで、お互いの心を開き、心と心を結び合わせてくれる力が働いているのだ」と思い直す時、わたしたちには、お互いの心の「ひらけ」を待ち望む希望と忍耐力が与えられます。歯を食いしばって我慢する忍耐力ではなく、「その時」が訪れるのを希望をもって待ち望みながら、いまなすべきことを一つ一つ丁寧に重ねていく、自由な「忍耐力」と言ってもいいかもしれません。時には、その人と一旦距離を置くことが、その時なすべきことであるかもしれません。
★そんな、目に見えないところで、人の心と心とを結び合わせようと働いている神様の力こそが、聖霊ではないのかと思う。それは、教会の中だけで、型どおりの信仰に人を導くためだけに働くのではありません。普段の生活の中で、理解し合うことのできなかった人と、ふと心が重なって想いを分かちあえたと思える瞬間、「ああ、いま聖霊が働いて、僕らを結び合わせてくれた」と感じることがある。大事なのは、いま目の前に見えていることだけ、それに基づく自分の判断や評価だけで、心を満たしてしまうことを止めて、聖霊の働く隙間を残しておくこと、そして聖霊が働くのを待つこと、ではないだろうか。それが「聖霊を信じる」ということではないかと思うのです。
# by oji-church | 2018-06-06 09:41 | 牧師からのメッセ-ジ
「〈聖霊を信じる〉って?」(1)

★キリスト教の神学では、三位一体と言って、〈父なる〉神様と、その神様の〈子なる〉イエス・キリストと、そして聖霊とが、別々でありつつ、別々でない一人の神、ということになっています。でも、聖霊なるものを、イエス様や神様と同じように、聖霊に向かってお祈りしたり、語りかけたりすることは難しいと思わざるを得ません。なぜそうなのかと考えてみると、聖書を開いても、聖霊が言葉を語っている場面が無いから、かもしません。しかし、キリスト教が聖霊を、〈父なる〉神と〈子〉なるキリストと同じようにわたしたちが仰ぐべき大切なものとして守り信じてきたことを、やっぱり大事なことだと思うのです。
★聖霊というものを神様と同じくらい大切にすることで、わたしたちは目に見えないものを大切にする気持ちを与えられます。そして、目に見えないものを大事に想うことによって、わたしたちの心には、自由と希望とを与えられます。目に見えるものだけを頼りに生きるならば、わたしたちはいま目の前に見えるものに左右され、それに一喜一憂して生きることになります。目に見えるものだけを頼りに生きるならば、いま目の前に生きている人もまた、わたしたちがそれに一喜一憂するばかりの「モノ」になってしまいます。でも、人と共に生きていくということは、いま目の前に見えるだけではない、その人の過去や未来、またその中でその人が思い、感じてきたこと、思い感じていることに、わたしの心を重ねていくことが是非とも必要です。(つづく)
# by oji-church | 2018-05-30 17:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「草にすわれば」

〈イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせる様にお命じになった。……イエスは五つのパンを取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配した。すべての人が食べて満腹した〉(マルコによる福音書5章39~42節)。

★王子教会での子ども食堂の目的は、ただ食事を提供することではなく、子ども同士、子どもとおとなの「つながり」を作ることに移り変わってきました。ただお店を開いて食事を提供するだけでは、つながってくることのできない、孤立している子ども達が多く集まってくるようになったためです。「食事をどうするか?」というモンダイは「自分のお腹をどうするか?」というモンダイであり、それは結局「自分をどうするか?」というモンダイに行き着きます。でも本当のモンダイは「自分をどうするか?」ではなく、「つながりをどうするか?」ということではないかと思えてきました。
★イエス様は「飼い主のいない羊のような有様」の人々を、お互いに顔の見える組に分けて、まあるいグループで青草の上に座らせました。そんな顔の見えるつながりそのものが、人を満たす糧(かて)となるのです。八木重吉という人の「草にすわる」という詩があります。「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる」。草の上に一緒に座ると、「自分をどうするか?」に頭が一杯になっていた「わたしの まちがい」に気付かされる。そんな不思議な消息を、聖書はわたしたちに語りかけているように思うのです。
★わたしたちが目に見えない人間同士のつながりを形作っていこうと志す時、わたしたち自身は、十分な「モノ」を持っていないように見えたとしても、実は、このわたしの存在そのものが、人を満たすに十分な糧であり、わたしたちの生きているこの世界そのものが、人を満たすに十分な青草の原なのだということが分かってきます。
# by oji-church | 2018-05-23 10:10 | 牧師からのメッセ-ジ
「あなたはわたしの愛する子」

〈イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え〉(マルコによる福音書5章11~12節)〈「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」〉(マルコによる福音書1章11節)。

★わたしたちの日々の生活は、いつもいろんな不安にさらされています。安心して生きていきたいというのは誰しもの願いですが、いろんな不安にさらされる生活の中で、是が非でも自分の安心感を得ようとすれば、自分以外の人と「安心」の奪い合いとなり、やがて人間同士傷つけあい、殺し合いにまで発展してしまうこともあります。
★五千人の人が集まった場で、食べ物がパンが五つと魚が二匹しかなかったとしたら、それは不安極まりない状況でしょう。けれどもイエス様はそこで、パンと魚を手にとって、天を仰いで賛美の祈りを唱えます。この不安極まりない状況の中で、イエス様はいったい何を賛美(=感謝)したのだろうか、不思議に思います。
★福音書の初めに、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、天からこんな声が聞こえてきたとあります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この声は一人イエス様だけが受けた声ではないと思うのです。いまここに生きているわたしたち誰しもが、もうすでに、生まれながらにして神様からこのように、呼びかけられてしまっているということ。それをイエス様はご自身の身を以て、わたしたちに知らせてくれたのです。この神様の呼び声、天から響くその声にむかって、イエス様は天を仰いで賛美の祈りを、感謝の祈りを献げたのではないでしょうか。
★生まれながらのいのちそのものを愛して呼びかけられている神様のこの呼び声を聴き、知っている限り、わたしたちは自分の力でもって自分の安心感を確保しようと、欲望を募らせる必要はなく、むしろ、その代わりに、この神様の呼び声を、分かち合い、互いを愛して呼び掛けあう生き方へと導かれ、遣わされて行くのでしょう。
# by oji-church | 2018-05-16 14:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「足のほこりを払って」

〈あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教をした。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。〉(マルコによる福音書5章11~12節)

★ここを読むと、自分を迎え入れてくれない人に向かって、「お前らなど、神様から救ってもらえないぞ」と負け惜しみを言い、後ろ足で砂を蹴って出て行くような姿を想い起こして、あんまり快く読めないできました。確かに、どこかへ出かけていって、そこで自分が受け入れてもらえないという経験は、気分のいい経験ではありません。恨みも残るかも。だけれども、そんな恨みなど、足の裏についた埃のようなものではないか。自分を受け入れてもらえないかった恨みなど、足の裏の埃と一緒に払い落として、顔を上げて、また新しい場所へと遣わされてゆくのだ。そこに神様が必ず新しい道を備えていてくださるのだと、そういう思いを言い表したものではないかと思ってみるのです。
★「宣教」というと、キリスト教に改心する人を生み出して、信徒を増やしていくことと考えられがちです。でも、ここでは信徒を増やすことにはまったく関心が向けられていません。悔い改めるというのは、心の向きを変えるということ。シンプルに、単純率直に生き、自分を迎え入れてくれる人の真心を感謝して受けとめ、一人の裸の人間である自分として、もう一人の裸の誰かと出会い、その人の手を取って語りかけ、その人と触れあい知り合って、そのことが、人が調子を崩している状況から、悪霊を追い出し、病人を癒す働きとなったらいい。そして、自分が受け入れられなかったとしても、足の埃を払って、また前へと進んでいくこと。それが宣教の働きなのでしょう。
# by oji-church | 2018-05-08 17:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「平凡な日常の背後には」(2)

★教会では、毎週だいたい見慣れた馴染みの顔に触れます。そのことで安心して気持ちが落ち着くということもあるかもしれません。でもその反面、見慣れ馴染んだ日常の平凡さの中に埋もれて、身体は生きてはいても、心は死んだように固まって動かなくなってしまっているということもあり得るでしょう。そんなわたしたちに向かってイエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と繰り返し繰り返し、呼び返しておられるのだと思います。
★ご高齢で、いま入院をされているある信徒の方が、たびたびにわたって仰っておられた言葉が胸に刻まれています。一日の終わりに、お祈りをして、その日一日のことを思い返すのだそうです。そうして、そこに注がれた神様の守りと導きを思い巡らせるのだと。平凡な日常の中に、神様の働きを、新しく自由なイエス様の教えを、驚きと感謝とをもって見つめ返すことを続けておられたのでしょう。
★わたしたちは皆、ありふれて、見慣れた平凡な日常の中で年を重ねてゆきます。しかし、その見慣れありふれた平凡な日常の中に、その奥底に、見慣れありふれた平凡な日常を越えて、尊くかけがえのない、わたしたちを解放する自由な新しい教え、福音が響いているのだということ。その響きの耳をそばだてて、受けとめて、日々新たにされていく者でありたいと願うものです。
# by oji-church | 2018-05-02 09:54 | 牧師からのメッセ-ジ
「平凡な日常の背後には」

〈「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。〉(マルコによる福音書6章3節)

★イエス様の故郷ナザレの人々が言ったのは、「イエスというのは、自分たちと何も変わらん、ただの人ではないか」ということです。イエス様の故郷ですから、町の人々は、小さい頃からのイエス様のことをよく知っていたのかもしれません。オギャアと泣いて、お母さんのお腹の中から、裸で生まれてきた、他と何も変わらんただのガキだったではないか。そんなことを言った人いたかもしれません。だけれども、オギャアと泣いて、お母さんのお腹の中から、裸で生まれてきた、ということ、それを平凡でツマラナイことと見るか、いや、そうじゃなくて、それはエライことなんだと見るか、そこに分かれ目があるのではないかという気がします。
★イエス様の語った福音は、普段のありふれた日常の、ツマラナさ、平凡さに埋もれていって、身体は生きてはいても、心は死んだようになってしまいそうになっているわたしたちに向かって、「いやいや、平々凡々に見える普段の日常というのも、実は決して捨てたモンじゃないぞ」ということを伝えるものだったのではないでしょうか。イエス様の宣教の第一声は、こんな言葉で語られていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。わたしたちの普段の日常がどんなに平凡なものであったとしても、わたしたちがいま生きているこの「時」というのは、神様の働きで満たされており、神様の働きは、わたしたちの普段の日常のすぐ傍にあるんだ。悔い改めて(心の向きを変えて)、振り返って見ろ、ということ。心の向きを変えて、振り返って、この福音、嬉しい知らせに心を開こうではないか。これがイエス様が告げ知らせた福音というものでした。(つづく)
# by oji-church | 2018-04-25 11:47 | 牧師からのメッセ-ジ
「かすかな声に耳を傾けるイエス様」

〈見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。〉(イザヤ書42章1~4節)

★福音書の中でイエス様が逮捕され、十字架に掛けられ、殺されていく場面を「受難物語」と呼びます。注意して受難物語を読んでいくと、その中でイエス様がほとんど、自分の言葉らしい言葉を口にしていないことに気付かされます。黙ったまま、十字架に掛けられていくイエス様の姿が表しているのは、もしかしたら、人の心の奥底のかすかな声に耳を傾けている姿なのかもしれないと思うのです。
★人誰しもの胸の奥に響いているかすかな声。人に言い表わすことのできない言葉。声にならない声。それは恐らく、傷ついた心の言葉でしょう。傷つき痛んで消えそうになっている心の声でしょう。その傷ついた心を折ることなく、消えかけた心の声を消すことなく、叫ばず、呼ばわらず、巷に声を響かせずに、その胸の奥の声に耳を傾ける者。それこそが、神様の僕、神様によって支えられ、選ばれ、喜び迎えられている神の子の姿なのです。
★子ども食堂で出会う子どもたちが、時折ポロリと心の中にある悲しい言葉、痛む言葉を口にすることがあります。ともすると聞き逃してしまうような小さな言葉です。わたしもしばしばそれを聞き逃してしまうのですが、そんなかすかな声が響く場所に、イエス様は黙ったまま、耳をそばだてて共におられるのではないかと思うのです。
★黙ったまま十字架への道を進んでいくイエス様は、わたしたちの心の奥底に響いているかすかな声に耳を傾け、わたしたちの傷ついた心を傷つき果てることなく、消えかけたいのちの灯火を消すことなく回復させてくれるでしょう。
# by oji-church | 2018-04-04 12:40 | 牧師からのメッセ-ジ
「〈小さな信〉をつなげられて」

〈ここに12年間も出血の止まらない女がいた。……イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。……「わたしの服に触れたのはだれか」。……女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」。〉(マルコによる福音書5章25~34節)

★神様は、弱く、小さく、惨めに思える者をこそ、敢えて選び分かち、愛して、救いの約束を果たす神様だと、そう信じて生き通されたのがイエス様でした。だから、イエス様は自分の服の裾に誰かが触れた、そのわずかな感触も捨て置くことなく探し回り、見つけ出される。それがイエス様の「信」です。この場面は、そんなイエス様の「信」と、この女性の「あの方の服にでも触れればいやしていただける」と独りつぶやいた小さな「信」とがつながった場面だと思うのです。
★クリスチャン、教会、信仰と言えば、ともすると、強くて大きな「信仰」を持たなければならないと思ってしまいがちです。でもそれは大いなる誤解です。わたしたちは、生まれる前に、この命一つに一つずつ、神様から「信」を与えられています。それは、「わたしのいのちは尊いもの」「わたしのいのちは価値あるもの」という小さな言葉。小さなそれが一つあれば十分です。それがどんなに小さかったとしても、イエス様は必ず、それを感じ受け、わたしたちが、貧しく、情けなく、惨めだと思っているそれを、宝物を探し求めるように探し求め、見つけ出し、わたしたちに近づいて、イエス様の「信」とわたしたちの「信」を繋げて下さる。わたしたちがなすべきことは、その小さなそれを、この女性のように、転げ出るような姿であってもイエス様のまえに、「自分の身に起こったことを、ありのままに」打ち明けることなのでしょう。
# by oji-church | 2018-03-29 15:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「苦海浄土」(2)

★(承前)2月10日に石牟礼道子さんが亡くなって、翌日の新聞記事には、こんな言葉が書かれていました。「誰かが苦しんでいる時、相手の気持ちになってもだえ、悲しみながら、ただ見守るだけの存在」のこと、と書かれています。水俣の人たちはこの石牟礼さんのことを、そういう意味を込めて「悶え神さん」と呼んでいるそうです。石牟礼さんは、水俣病を治すことはできません。水俣病になった人たちのことをただ、その気持ちになって、一緒になって悶えて、悲しみながら、ただ見守るだけのことしか出来ませんでした。でも石牟礼さんがそうやって、水俣の人たちと同じ気持ちになって、一緒になって悲しみを共にしてくれたことを、水俣の人たちは本当に有り難いこと、尊いこととして受けとめて、自分たちの心の傷を癒してくれたと言っています。
★「苦海」というのは「苦い海」「苦しい海」、汚されてしまった海、だけれども「浄土」というのは、天国のような清い場所、尊い場所という意味です。汚されてしまった海、その魚を食べて苦しみに襲われてしまった水俣の人たちだけれども、その人たちと同じ気持ちになって、苦しみ、悲しみを分かち合うことを通じて、わたしたちは清いもの、尊いものを与えられるんだ、と、そういう意味が込められているのだと思います。
★聖書の神様は、人の苦しみ、悲しみを、一緒になって苦しみ、悲しむ神様です。わたしたちが苦しむ人と一緒に、同じ気持ちになって、一緒になって悲しみを共にする時、たとえただ傍で見守ることしかできなかったとしても、神様はわたしたちと共にいてくださるのだと思います。そうして、不思議にも、そういうわたしたちの同じ気持ちが、神様を通じて、きっと人の苦しみ、悲しみを癒す力を持つのだと思います。(2月25日教会学校礼拝説教より)。
# by oji-church | 2018-03-21 10:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「苦海浄土」(1)

〈乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を描くし、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。……彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた〉(イザヤ書53章2~5節)。

★ここには、とても苦しんでいる人が出てきます。みんなから馬鹿にされ、苦しんでいるのに無視されて、見捨てられてしまう人。しかもこの人は何も悪いことをしたわけでもないのに、です。そんなふうに苦しみたい人っているでしょうか。でも聖書には、この人が苦しんだオカゲで、わたしたちに平和が与えられ、わたしたちは癒された(病気が治った)と書かれています。誰かが苦しんだオカゲで、平和が与えられ、病気が治るんだったら、じゃあ「誰かわたしのために苦しんで! 傷ついて!」って頼むことはできるでしょうか。僕はなかなか、そうは思えません。
★そんなことを考えていた時、ある一人の人のことが思い浮かんできました。石牟礼道子さんという人。2月10日に90歳で亡くなられました。この人は『苦海浄土』という本を書きました。石牟礼さんは、チッソという会社が海に流した毒によって体を冒されて、多くの人が苦しんで苦しんで亡くなっていった、その水俣の人たちの苦しみを見て、心が痛んで、水俣の人たちに代わって、水俣の人たちの言葉で、この水俣の人たちの苦しみや悲しみを、そして、それでも一生懸命に生きる水俣の人たちの姿を文章に書くのです。(2月25日教会学校礼拝説教より・つづく)
# by oji-church | 2018-03-14 15:57 | 牧師からのメッセ-ジ
「夜昼、寝起きすることは」(3)

★イエス様は目の前にいる、「生かさず、殺さず、搾り取れるだけ搾り取られる」生活の中で喘いでいる人たちに向かって、それでもあなたたちは意味のない人生を生きているのではないよ、神様の働きと繋がって生きているよ、ツマラナイ人生なんかじゃないよ、神様の喜び、生きていることの本当の意味と喜びを知らされる生き方、「神の国の秘密」を打ち明けられる生き方をしているよと、エールを送ったのではないかと思います。
★今日と明日とを繋いで、夜昼、寝起きして生きる生活。それは、生まれたばかりの赤ちゃんも、お年寄りも、女であっても男であっても、しょうがいがあろうがなかろうが、日本人でも外国人でも、すべて今を生きる人たちが営んでいるいのちの働きです。これを何よりも大切なものとして守り、国同士の「我勝ち」の競争に優って、神様は大きく大きく、その葉陰に空の鳥が巣を作れるほどにも大きくそだてようと、わたしたちのこの小さなからし種のようないのちの一つ一つに寄り添い伴って守り支え、導き、ねぎらい、応援して、働いておられることを心に刻みたいと思います。
# by oji-church | 2018-03-07 10:23 | 牧師からのメッセ-ジ
「夜昼、寝起きすることは」(2)

★一昨年、「津久井やまゆり園」でしょうがいを持つ人たちがむごい仕方で命を奪われる事件をわたしたちは経験しました。容疑者は「障害者は生きていても意味がない」ということを語っているとされています。しょうがいを持つ一部の人たちは、見た目には、ひたすらに夜昼寝起きしているだけの存在に見えるかもしれません。でもその人たちと触れ合うことで、どれだけ生きるということの本当の意味と喜びを教えられるか、それはこのしょうがいある人たちと親密に触れ合った人が一番よく知っていることだろうと思います。逆に言えば、親密に触れ合わなければ、知ることのできないこと、まさに「神の国の秘密」なのだろうと思います。(つづく)

# by oji-church | 2018-02-28 09:47 | 牧師からのメッセ-ジ
「夜昼、寝起きすることは」

〈神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。〉(マルコによる福音書4章26~27節)。

★イエス様のこのたとえ話を聞いていた人たちは、貧しい農民だったでしょう。権力者たちから「生かさず、殺さず、搾り取れるだけ搾り取られる」、そんな生活を送る人たちです。今日と明日を生きるために、夜昼、ただただ寝起きするためだけにも、畑に出て種まきをしなければならなりません。こんなことしていたって、ちょっとでも暮らしが楽になるわけでもないのに、というため息混じりにも。
★今日と明日、ただ夜昼寝起きするためだけに、種まきに出かけていくという、イエス様の話を聞く農民にとっては当たり前のツマラナイ光景を、しかしイエス様は「神の国は次のようなものである」と言われるのです。イエス様は「いやいや、そうでもないぞ」と言うのです。「今日と明日を生きるために、畑に種まきに出かけていくことは、決してツマラナイことなんかじゃないぞ。それは、ひょっとすれば、この世界全体を創って、取り仕切っておられる神様の働きと、どこかで繋がっているかもしれないぞ」。そう伝えることが、もしかしたらイエス様がこのたとえ話を語った意味だったのかもしれません。(つづく)
# by oji-church | 2018-02-22 11:31 | 牧師からのメッセ-ジ
「ともし火としての悲しみと喜び」

〈ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められているもので、公にならないものはない〉(マルコによる福音書4章21~22節)。

★ここで「ともし火」と言われているのは、イエス様が宣べ伝えた「神の国」の福音のことでしょう。この世界は神様が創られたもの。そこに生きるすべての命あるもののために神様は、今日も働いておられ、わたしたちの命を養い回復される。それが「神の国」の福音というものです。
★そんな「神の国」の福音は、特定の限られた人たちだけに打ち明けられるのではなく、この空の下に生きている「みんな」に打ち明けられるはずのものだ、というのが、ここでイエス様が言われていることなのだと思います。
★「ともし火」という小さなものが、みんなを照らす「神の国」という大きなものに繋がっていることが語られています。わたしたちは日々の生活の中で、いろいろな小さな出来事を経験し、その中で、それぞれに小さな喜びや悲しみや痛みを経験するものです。そんな小さな経験の一つ一つを互いに打ち明け合い、受けとめ合いして分かち合う積み重ねの中から、神の国という大きな喜びが、わたしたちのもとを訪れるということではないかと思います。
★わたしたちの日々経験する小さな出来事の中での喜びや悲しみの中にこそ、「神の国」の大きな喜びが秘められており、それはみんなを照らすともし火となるのだ。「神の国」の大きな喜びは、わたしたちの、お互いの小さな経験を打ち明け合い、受けとめ合い、分かち合う積み重ねの中から、いつかきっと必ず、みんなが分かる仕方で明らかになる。イエス様の言葉は、そんな希望をわたしたちに告げています。
# by oji-church | 2018-02-13 11:59 | 牧師からのメッセ-ジ
「食べる」

★先週月曜日、胃と腸の内視鏡検査を受けました。このところ三年連続で腸にポリープが見つかり、毎年検査を受けるハメになっています。検査前日は検査しやすくするために三食いわゆる「検査食」を食べます。検査当日は絶食。ポリープが見つかって切除すると、一晩入院させられ、終日食事はオアズケ。翌日も一日検査食です。今回もやはりポリープが見つかり、検査食→検査→入院→絶食→検査食のコースを辿りました。検査そのものはもう慣れて、どうってことないのですが、問題は検査食。決してまずくはないのですが、如何せん量が少なく空腹とのたたかいになります。空腹と言っても決して「飢餓」ではないのですが、わたしはどうもこれが苦手のようです。目につく食べ物すべてが美味しそうに見えて、しまいにはウチで猫が食べているキャットフードまでウマそうに見えてくる始末。
★ハタと気付いたのは、普段自分が多分に〈食べる〉ことでストレス解消しているらしい、ということでした。決してゼイタクなものを、あるいは大量に食べているわけでもないのですが、どうやら〈食べる〉ことで気分転換しているらしいのです。それが無くなる、あるいは充分な量でないと落ち着かず、身の置き所がなくなってくる。普段あまり物事がメンタルに響かない鈍感なわたしですが、空腹が一番メンタルに響くことが分かりました。
★わたしを痛めつけたければ、「食べさせない」ことが最大の攻撃です。これもヒトの性(さが)かもしれませんが、ともあれ精神衛生を〈食べる〉に依存しているのはあまりいいことではありません。問題が分かって、さてこれをどう克服すべきか、今のところ見当がつきません。ちょうどいい〈食べる〉は、どのあたりにあるのか、お知恵をいただければと思います。
# by oji-church | 2018-02-07 11:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「未来からの家族」

〈イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マタイによる福音書3章33~35節)。

★わたしたちは、未来を見通すことはできず、過去だけが見える人生の中に生きています。すると、往々にして、過去はこうだったから、未来もきっとこうだろうと思いながら生きていくことになります。家族というのは、もともと自分に至るまでずっと繋がってきた血のつながりを表すものです。そういう意味では家族というのは過去を表すものです。一方、イエス様が教えた「福音」というものは、向こうから、未来からわたしたちのもとを訪れるものです。これから神様が行おうとしている新しい働きに希望を寄せながら、いまある自分自身を見つめ直してみなさいということなのです。そこに、イエス様が、肉親との繋がりをぶった切るような言葉を語った意味があるのです。過去がこうだったから未来もこうだろうというわたしたちの思いからわたしたちを自由にして、わたしたちの心に新しい希望の光を灯すために、イエス様は家族、肉親との繋がりをぶった切るような言葉を語ったのだと、そう思うのです。
★わたしたちは過去、お互いに欠けを負った者同士であるけれども、それでもなおわたしたちは、神様がこれから行おうとしている新しい働きによって、必ず、神様はわたしたちを相応しく養い、装わせてくれるんだという希望の光のもとに、肉親を、家族を見出していくということ。勿論それは肉親、家族に限ったことではなく、この世に生きている全ての人が、神様によって養われ、装わせられる希望を与えられている存在なんだと、新しい光の中で見つめ直していくということです。そこに肉親、家族とそうでない人との違いは何もありません。
# by oji-church | 2018-01-31 15:35 | 牧師からのメッセ-ジ
「空の鳥を、野の花を見なさい」(2)

★神様が創られた天と地という隙間があってこそ、わたしたちは自由に羽を羽ばたかせ、わたし色の花を咲かせることがでます。わたしたちはそれぞれに違った「ひとり」「ひとり」であるということを大切に心に留めなければならないと思います。「ひとり」の中でこそわたしたちは、自分自身と向き合って対話し、また、人の役に立つものを作り出すことができます。
★同時にわたしたちは、自分が一人ぼっちではないということも心に留める必要があります。神様が創られた空と大地によってつなぎ結ばれて、違いがあっても共に生きるべき者として、この世界に生かされているのです。恐れなく、自由に、安心して。
 神様が創られた空と大地は、わたしたちに向かってこう告げています。「自分ひとりの孤立した世界の中に閉じこもって、明日のことを思い悩む恐れに取り憑かれてしまうのではなく、わたしが創ったこの空に、この大地に出て行って、そこであなたがた、ひとりまたひとりの違いを差し出し合って、違うひとりまたひとりが、どのように共に生きることが出来るか、安心して、自由によく語り合い、感じ合い、受けとめ合って、違う者同士がその存在を大切にしあって共に生きる愛で満たしなさい」と。
★「わたしの小さな普段の生活」に閉じこもって生きる在り方は容易に、一部の力ある人たちの利益のために、すべてを犠牲にし破壊するあの巨大な塊に飲み込まれてしまいます。そんな悪しき力に立ち向かうには、勇気をもって、安心して、自由に、お互いの違いを差し出し合い、語り合い、感じ合い、受けとめ合う、そんな場が必要です。神様が創られた空と大地のような。教会もまた、その空と大地の中に置かれているはずです。わたしたちはここで羽ばたき、じぶん色の花を咲かせ、そしてまた勇気をもって、安心して、互いの違いを差し出し合い、自由に語り合い、感じ合い、受けとめ合うことを神様から期待されています。そう、わたしたち一人ひとりが「空の鳥」であり、「野の花」なのです。
# by oji-church | 2018-01-25 16:46 | 牧師からのメッセ-ジ
「空の鳥を、野の花を見なさい」

〈空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。……野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。〉(マタイによる福音書6章26~29節)

★新しい年が明けましたが、わたしたちの生きる世界にはあまり明るい兆しが見えません。一部の力持つ人たちが、テロや隣国との紛争の危機感を煽り、人々を、自分に都合のよい同じ一つの方向に向かせるように操作する、そんな見えない圧力がわたしたちの上にのしかかるかのようです。その先にあるのは、わたしたちが一つの大きな塊(かたまり)とされて、自分や隣人の命や生活を犠牲にして顧みなくさせられる「戦争」というものです。
★イエス様が「〈空の〉鳥を見なさい」「〈野の〉花を見なさい」と言っていることに気付きました。〈空〉は神様が創られた〈天〉であり、〈野〉は神様が創られた〈地〉です。イエス様の時代のガリラヤでは、空と言えばどこまでも何も無く広がっているものでしたし、野と言えば、これもまた広く青々と広がって地平線を見渡すことが出来るものでした。そのどこまでも広がる空の中を鳥は舞い、どこまでも広がる野の中に小さな花が咲いています。じゃあ、その鳥は、その花は孤立していただろうか。決してそうじゃない。神様が創られた広い広い天と地によってつなぎ結ばれて、この空と大地に生きている他の鳥、他の花と共に生かされています。
★この空全体がびっしりと鳥に埋め尽くされ、それらが全部ピッタリとくっつき合わせられて巨大な一つの鳥の塊となってしまったら、あるいは、この広い野が一つの花だけでびっしりと埋め尽くされて、それが全部ピッタリとくっつき合わせられて、巨大な一つの花の塊になってしまったとしたら、鳥も花も最早生きられなくなってしまうでしょう。わたしたち一人ひとりの間には隙間が必要です。(つづく)
# by oji-church | 2018-01-18 12:12 | 牧師からのメッセ-ジ