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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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9月15日(日)【聖霊降臨節第15主日】

*子どもの教会礼拝 午前9時20分

【主題】主が教えてくださった祈り

【説教】西脇しのぶ

【司式】上野博之【奏楽】柿沼郁子


*子どもの教会の礼拝には、おとなもご参加いただけます。


*主日礼拝(北支区講壇交換礼拝)

 午前10時30分

 説教「イエスは教会の基となったか?」

 亀岡顕牧師(エパタ教会)

【聖書】マタイによる福音書16章13〜23節

【讃美歌】27.505.390.487.65-1.92-3.

【招詞】イザヤ書57章15節

【詩編交読】146編1〜10節


*主日礼拝には、どなたでもご参加いただけます。



by oji-church | 2019-09-11 11:54 | 全体のお知らせ

自分は救えないのに、他人は救った。

〈「他人は救ったのに、自分は救えない。」〉(マルコによる福音書15章31節)

★若かった頃、自分の将来には、未知の可能性が大きく広がっていて、人の役に立つことも、人を救うことだって、きっと自分には可能なはずだと信じていました。少しばかりは人の役に立つことはあったかもしれません。そうして自分が自分の力で誰かを助ければ、それを自分の能力、自分の優れた点として自分の「点数」に加えてきたとも言えます。人の役に立つ、誰かを助ける、誰かを救う。そうした自分の働きは結局、自分の能力、自分の優秀さを確かめるための手段に過ぎなかった、のではないかと思えてくるのです。

★イエス様は、人を救うことを、決して自分の能力の証しとはされませんでした。イエス様は手当てした人にしばしばこう言われました。「あなたの信仰があなたを救った」と。また「あなたは神の子です」という呼びかけに対しては、決まって「誰にも言ってはならない」と、それを退けられました。イエス様は「自分を救う」ことを一切されませんでした。そして今、なすすべもなく十字架に釘付けにされています。

★しかし、そうしてなすすべもなく十字架に釘付けにされている姿こそ、実はイエス様のいのちの奥底に秘められたほんとうの姿なのではないかという気がしてくるのです。自分にはあれもできる、これもできると、自分の能力、自分の優秀さを拡げていくことは、実はほんとうに人を救うことではない。人を救うというのは、実は無力さと表裏一体のものなのではないでしょうか。「他人は救ったのに、自分は救えない」。これこそがほんとうの救い主の姿なのだと、人々の嘲りの声は裏写しに示しているのです。



by oji-church | 2019-09-11 11:51 | 牧師からのメッセ-ジ

負の歴史と希望

「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」。(エレミヤ書29章10〜14節)。

★バビロニアでの捕虜としての生活は70年続くと言われます。それは絶望的なことではないか。しかし聖書は、それは神様の「平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と語るのです。

★過去、自分たちの繁栄のために貧しい人々を犠牲にし、それによって神様の裁きに直面して国を滅ぼされ、捕虜となり、生きている間は故郷に帰ることを許されない。人々はそんな自分たちの負の歴史を直視せざるを得ない状況に置かれています。しかしそこから、もう一度人間に立ち返って、素朴に人間として生き、国を超えて、敵味方の隔てを越えて人間同士として出会い、共に生きていこうとするなら、その人々の生き方それ自体が、将来と希望を与える平和の計画なのだと聖書は語っているのです。

★「そのとき」というのは70年後のことではありません。人々が負の歴史を直視して、その反省に立ってもう一度、人間に立ち返って、人間同士として出会い、互いの平和を祈り合い、共に生きていこうとする、「そのとき」、神様はわたしたちと共にあり、わたしたちの声を聞き、わたしたちと出会い、わたしたちを愛して守るだろう、ということです。


by oji-church | 2019-09-04 15:24 | 牧師からのメッセ-ジ