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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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正義を勝利に導くとは

〈見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。〉(マタイによる福音書12章18〜21節)。

★「争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」のに、どうして「正義を勝利に導く」ことができるのでしょうか。大事なことは、ここに「正義」と語られていることです。正義とは、すべていのちを与えられた者が、その命を喜んで生き生きと生きることができるように配慮することではないかと思います。そうならば、誰か傷ついている者が一人でもあるならば、それは正義とは言えません。

★かつて宮沢賢治はこう語りました。「世界がぜんたい幸福にならない限りは、個人の幸福はあり得ない」と。幸福と言えばともすると、自分個人の幸福を思い描きがちです。けれども自分の幸福が誰かの痛みの上に立ったものであったなら、それは果たしてほんとうの幸福だろうか。そう宮沢賢治は考えたのだと思います。幸福は正義とセットに考えなければならないものだと思います。

★どんなに迂遠な道のりであったとしても、正義を勝利に導くということは、一人またひとりの痛みに寄り添うことによってしか成り立ち得ません。だから、イエス様は、その声を大通りには響かせず、傷ついた葦を折ることなく手当てし、くすぶる灯心を消すことなく、大事に包んで寄り添うのです。


by oji-church | 2019-08-29 10:43 | 牧師からのメッセ-ジ

熱狂と真実(2)

〈ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。〉(マルコによる福音書15章12〜14節)。

★人々の熱狂のかげに、ほとんど言葉を発しない人が一人、いや二人います。イエス様、そしてもう一人、バラバです。一方のイエスが有罪とされて死刑に処せられていくのに対して、バラバの方は無罪となり、釈放されていくのです。二人の人の運命が交差しているのです。その意味するところは、罪なき神の子が罪人として命を奪われ、罪ある者が赦されて命救われる。そんな交換がここでは起こっているのです。

 このことを、人々の感情にまかせた熱狂の傍らに置いて考えてみるのです。人々が我を忘れて熱狂するその傍らで、自分ではない誰かの命を救うために、一人の人が自らの命を差し出しているということです。バラバにとっては自分が命を救われているのは、この一人の人の犠牲の上に成り立つことなのです。わたしもあなたも皆、取るに足らない人間です。ならば、バラバは自分だと思ってみるのです。取るに足らないわたしがいまここに生きているということは、イエス様の命の犠牲の上に成り立っているのだと、思ってみるのです。これがキリスト教が二千年にわたって宣べ伝えてきた「福音」というものです。

 キリスト者にとって平和とは、自分の感情や熱狂、屈折や憎しみに囚われているわたしたちを、イエス様がその身を、いのちを差し出して解放してくださった、そういうイエス様との出会いに裏打ちされたものです。世に生きる誰もが、イエス様がそのいのちを差し出されるほどにも、値高い存在であるということ。ここに立って、熱狂の前にたじろぐことなく、平和の福音を証しし、告白する者でありたいと思います。


by oji-church | 2019-08-21 10:59 | 牧師からのメッセ-ジ

熱狂と真実(1)

〈ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。〉(マルコによる福音書15章12〜14節)。

★人々の「十字架につけろ」の叫びは止まらなくっていきます。裁判とは真実を明らかにする場であるはずですが、真実よりも人々の熱狂が物事を突き動かしていきます。ピラトは真実を見極めることを放棄して、「群衆を満足させようと思って」、つまり群衆の感情にまかせた熱狂に従ってバラバを釈放し、イエスを鞭打って、十字架につけるのです。

★感情にまかせて熱狂する群衆の姿は、今もわたしたちの身近なところで起こっているように思います。今、お隣りの韓国との関係が大変厳しい状況になって、日本社会では「韓国はけしからん」というような感情が高まっています。政治家が交渉の場面で感情を高ぶらせる姿さえ見られます。それに煽られて人々の間でまた、排外的な感情が高まることになります。

★1932年、日本は謀略を重ねて中国東北部に日本の傀儡国家満州国を建国します。それを国際連盟で指摘されると、日本は憤激して国際連盟議場から退場し、国際連盟を脱退します。帰国した松岡洋右全権を日本人は歓呼の声で迎えたと言います。そうして日本は孤立を深め、泥沼の戦争へと突き進んでいきました。いままた、真実を見極めることをおろそかにして感情に走って行くことによって同じ道をたどるのではないかと危惧するのです。(つづく)


by oji-church | 2019-08-17 06:44 | 牧師からのメッセ-ジ

涙のわけ(2)

〈ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。〉(マルコによる福音書14章60節)。

★ペトロの心の奥底、いのちの奥底にはガリラヤのなまりが根付いていました。それは、自分も誰かからかつて慈しみを込めて語りかけられた者だ、という懐かしさと共に。そしてまた、ペトロの心の奥底には、イエス様から慈しみを込めて語りかけられた経験も根付いていたことでしょう。ガリラヤのなまりから、自分が「イエスの仲間」であることが露見し、それを「呪いの言葉さえ口にしながら」打ち消すことによって、ペトロは自分自身に与えられた言葉を呪い、そうすることで自分自身を呪い、自分自身を見捨ててしまったのです。自分に与えられた言葉を呪ってしまったペトロに、もはや言葉は残されていませんでした。だから、ペトロは、言葉無く、ただ「いきなり泣きだした」のです。

しかし、ペトロが自分で自分を見捨ててしまった時、もう一人、見捨てられた人がいました。ペトロは、自分で自分を見捨ててしまったその境遇に絶望して泣きながら、ふともう一人、いま、自分と同じ境遇に置かれている人がいることに気づかされたのではないでしょうか。そう、イエス様がいることに。ひとたびは「イエスなど見捨てられよ」と呪いの言葉を口にしたペトロですが、しかしその言葉を口にすることで自分で自分を見捨ててしまったペトロが、その自分の傍らに見いだしたのは、見捨てられた自分になお寄り添いともなって共におられるイエス様の姿だったのです。この場面は、最後にペトロが一人で泣いている場面のようでありながら、この場面は実は、言外にペトロとイエス様の再会を物語っているのではないかとわたしは思うのです。


by oji-church | 2019-08-06 15:57 | 牧師からのメッセ-ジ

涙のわけ(1)

〈ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。〉(マルコによる福音書14章60節)。

★わたしたちの心の奥底には、自分ではきづくことのできないほんとうの自分の姿、言葉にならない自分の姿があります。そんな自分を人から指摘されたとき、わたしたちはしばしば恥ずかしさのあまり、かえって怒って耳を貸さなくなってしまうものです。ペトロはここで、自分の惨めさ、情けなさに直面し、打ちひしがれて泣きました。しかし泣きながら、ただ自分の惨めさを嘆く涙からやがて、この泣き声をイエス様が聴き受けておられ、自分の心の奥底の、自分では気づくこともできない自分のほんとうの姿までをも、イエス様が命を賭して受けとめてくださっていることを感じ、ペトロは、そのイエス様に心寄せて、一層声を挙げて共感の涙を流したのではないでしょうか。それゆえにこそペトロは後に、立ち上がって、そのイエス様に心寄せて共感して、出会う人々にイエス様を宣べ伝え、またその人々に心寄せて共感してゆく伝道者となっていったのでしょう。こうしてペトロの涙はやがて、イエス様の涙へと変えられていったのだと思います。

★生きていくなかで、自分の胸の奥底に秘められた自分でも気づかない自分の弱さ、惨めさに直面し、打ちひしがれ、涙しなければならない日があることは確かです。しかしその涙は、自分一人の孤独な涙ではなく、イエス様に受けとめられ、イエス様につながっていることを覚えたいと思うのです。そしてまた、イエス様を通じて、他者への共感へと繋がっていることも。そうして、わたしたちの流す涙が、イエス様の涙へと変えられていくことを、祈り願ってゆきたいと思うのです。


by oji-church | 2019-08-06 15:55 | 牧師からのメッセ-ジ

真実のありか(2)

〈そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け、何もお答えにならなかった。〉(マルコによる福音書14章60節)。

★イエス様が裁判を受ける場面では、イエス様に不利な偽証をする人々が次々に立ち、イエス様をおとしめていきます。しかしその中で、イエス様は何も語りません。イエス様は黙り続けたまま、唾を吐きかけられ、目隠しをされ、殴りつけられ、からかわれ、平手で打たれます。このイエス様の姿は何を表しているのでしょうか。

★それは、イエス様が今ここに「生きている」ということではないでしょうか。イエス様は、いまご自分がここに生きているということを、言葉で説明するのではなく、ただじっと黙ったまま、その体でわたしたちに伝えようとしているのではないか。真実をないがしろにし、自分で自分に目隠しをし、自分が何をやっているのか分からなくなっていく混乱した時代の中で、わたしたちが立ち返るべきなのは、このイエス様の姿なのです。黙ったまま、殴られ、目隠しされ、嘲られ、打たれているイエス様の姿。人が痛めつけられ、苦しめられている姿です。

★どんなに真実がないがしろにされたとしても、どうしたって打ち消しようのない真実が一つあります。それは、わたしたちが今ここに「生きている」という事実です。今ここに生きて、痛みを負い、苦しんでいる人がいるということ。ここに語られるイエス様の姿は、そうした「生きている」人々の傍らに、いまもなお共にあるイエス様を現しているのだと思うのです。この時代にあって、わたしたちが立ち返るべきなのは、このイエス様、黙ってはいるけれども、その痛む体を携えて、確かに「生きている」イエス様、また、「生きている」人々のもとなのでしょう。



by oji-church | 2019-08-06 15:47 | 牧師からのメッセ-ジ