人気ブログランキング |

日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

<   2019年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

「弱さ」と「決断」

〈アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。〉(マルコによる福音書14章36節)

★イエス様は間もなく自分が逮捕され、侮辱された上に、殺されることを予期しています。そんな事態にならないようにと願い訴え祈るイエス様の姿は、「神の子」「救い主」らしからぬ人間的な弱さを露わにしています。でも、そのすぐ後にイエス様はこうも祈っています。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。こちらは人間的な弱さよりも、神様のみこころを優先させる信仰深い姿が示されています。そういうイエス様の信仰深い姿が信仰の模範として示されるか、あるいは、自分の思いを犠牲にしてまで、人々の救いのために十字架の道を進まれたイエス様の救いの業の尊さが強調されます。だけれどもその時には、前半部分の「この杯をわたしから取りのけてください」というイエス様の祈りは忘れ去られています。

★ここには、「この杯を取りのけてください」という人間的な弱さと、「しかし、わたしの願いではなく、御心が行われますように」という神様に信頼を寄せる思いと、二つの思いが交差して、その間で行きつ戻りつ逡巡しているイエス様の姿がうかがえます。果敢に覚悟を決めて十字架の道へと突き進んでいくイエス様よりも、弱さと信仰の間で逡巡して、行きつ戻りつしているイエス様の方に、わたしは心引かれます。

★問題はその傍らで眠っている弟子たちです。弟子たちは「誰が一番偉いか」と自分たちの「強さ」を競っていましたが、自分の傍らに、人間の「弱さ」があることを忘れてしまっています。そんな弟子たちにイエス様は「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と告げられます。そこには、人間の弱さに目を覚まして、その弱さをお互いに守り支え合いながら、「いのちを守る」信仰の決断へと共に歩み出していくようにと告げるイエス様がおられるように思うのです。


by oji-church | 2019-06-27 16:51 | 牧師からのメッセ-ジ

聖霊によって生まれること

〈人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。……だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。……風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。〉(ヨハネによる福音書3章3〜8節)

★人と出会うのは恐ろしいこと。人と出会えば、わたしたちはどこか傷つく可能性があるから。わたしたちは傷つくことを恐れて、人と出会うことよりも、人を追いやるような振る舞いをしてしまいます。でも、わたしたちのこの渇ききったカサカサの命の奥底に、すべての人に分かち与えられた神様の霊が息づいているのだとするなら、わたしたちが誰かと出会い触れ合って受ける傷というのは、むしろ、わたしたちを覆って固くなってしまっている殻を破る破れ目でもあるのじゃないでしょうか。

★「霊によって新たに生まれる」というのは、この殻を破ってもう一度、わたしたちの奥深いところに、神様から吹き込まれ、分かち与えられた聖霊、神様の息吹を、わたし自身の息吹としながら生きていくということではないだろうか。もとは一つであった神様の霊、神様の息吹に導かれる時、わたしの傷はあなたの傷であることが分かってくる。あなたの傷はわたしの傷であったことも。そうして、傷を受けることを恐れて人を追いやる関係から、互いの傷を手当てし、いやしあう関係が生まれてくるのではないだろうか。こうして聖霊は、わたしたちが様々な人やものごとと自由に出会い、触れ合って生きる喜びへと、わたしたちをもう一度生まれさせてくれるのだということ。風のように、どこで誰と繋がるかは分からない。でも、境目なく人と出会い、触れ合って、互いに互いの傷を手当てしていたわり合い、いやし合い、そのように自由に出会い繋がって生きる喜び。


by oji-church | 2019-06-19 11:45 | 牧師からのメッセ-ジ

その体に触れて(3)


〈この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。〉(マルコによる福音書14章8〜9節)

★「この人はできるかぎりのことをした」。この言葉を原文通りに訳すとこうなります。「この人は持っているすべてをわたしに注いだ」。こう語ることによって、今度はイエス様が彼女の人生の全体を尊び、慈しみ、受けとめるのです。そんなイエス様と彼女との重なり合った触れ合いを、わたしはこの場面に感じるのです。

★「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。福音を語る時にはいつも、彼女の姿をも思い起こすべきなのです。福音のそばにはいつも、イエス様の体に臆することなく手を触れて香油を注ぎ、イエス様の命の全体を尊び、慈しんで、癒やし、慰めている彼女の姿があるのです。

★聖書が語る「福音」とは、イエス様がわたしたちの命を救ってくれて、はい、それでおしまいというものではありません。「福音」とはイエス様とわたしたちの関係なのです。もっと言えば「福音」とはイエス様とわたしたちとの「触れ合い」なのです。「福音」だけがただポツンとあるのではなく、福音のそばには必ず人の姿があるのです。その福音に触れる人の姿、イエス様に触れる人の姿です。これをひっくり返せば、わたしたちの傍らにはいつも、福音があるということでもあります。わたしたちの体に臆することなく触れて、死を越えてわたしたちの体に触れて、わたしたちの人生の全体、いのちの全体をなでさすって尊び、慈しみ、慰め、癒やすイエス様の手がわたしたちの傍らにはいつもあります。


by oji-church | 2019-06-12 10:05 | 牧師からのメッセ-ジ

その体に触れて(2)


★死人の体に油を塗って清める手当てについて思い巡らします。それは亡くなった人の最後の姿を整える働きです。亡くなった人の最後の姿が表すのは、その人の生きてきた人生の全体、命の全体でありましょう。その亡くなった人の人生の全体、いのちの全体を尊び、慈しんで、その人生の全体、命の全体を受けとめて油を塗る。手でその体をなでさすりながら。油を塗る行為は当時、病人に対する手当てでもありました。それは癒やしと慰めの振る舞いでもあるのです。亡骸に手で油を塗る行為は、亡くなったその人を癒やし、慰める行為でもありました。そして、この埋葬の際の塗油、体に油を塗る役を担ったのは、いずれの場合も女性であったと言われます。そう、イエス様が十字架に掛けられて亡くなった安息日明けに、イエス様の遺体に油を塗るために墓に向かったのは女性たちでした。男は死人の亡骸を「けがれたもの」と見なして手を触れず、それをやはり「けがれたもの」と見なされていた女性にやらせたのです。

★でもイエス様がその生涯をかけ、命をかけて行ったのは、それと同じこと。「けがれたもの」とレッテルを貼られて見捨てられ、追いやられていた人のその人生の全体、命の全体に手を差し伸べ、その手で触れてその命の全体を祝福された。それが聖書に示された「福音」というものです。いま、一人の女性がこの食事の場に突然現れて、今度は彼女がイエス様に向かって同じことをしたのです。イエス様の体に触れてその手でその体に香油を塗り、イエス様の命の全体を尊び、慈しんで、癒やし、慰めたのです。そうすることによって、彼女はイエス様の生涯の働きを受けとめ、理解していることを示したのです。(つづく)


by oji-church | 2019-06-05 12:46 | 牧師からのメッセ-ジ