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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「おはよう」

〈すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。〉(マタイによる福音書28章9節)。

★復活されたイエス様が出会った女性たちに、最初に発した言葉は「おはよう」でした。「復活」という驚くべき出来事の中で、「おはよう」と言うのは、なんとも間の抜けた言葉です。ですが、わたしはこの「おはよう」という普通の言葉になんだか心引かれるのです。「おはよう」って言ってみて下さい。そのときどんな顔をしているでしょうか。泣いた顔や、怒った顔で「おはよう」って言えるでしょうか。このとき、イエス様はどんな顔をしていたか、思い浮かべてみるのです。それはきっと笑った顔ではないでしょうか。復活したイエス様は、笑った顔で「おはよう」と言ったのです。

★なぜ、笑っているのでしょうか。それは、イエス様だけじゃない、いまも苦しい気持ちや、悲しい気持ちや、痛む心を抱えている人たちと一緒に、イエス様も苦しく、悲しく、痛い思いをしたから、じゃないかと思うのです。つらい思い、苦しい思い、悲しく、痛い思いというのは、決して楽しいことではないでしょう。でも、そういう思いをすることで、誰かのそばにいることが出来たなら、それはイエス様にとっては嬉しいことだったのかもしれません。

★聖書にはこんな言葉があります。「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」。「幸い」というのは「幸せ」ということ。いま泣いている人が幸い、幸せなわけがないと思います。でも、今泣いている人の、その悲しい気持ち、苦しい気持ち、痛む気持ちのすぐそばに、イエス様が、同じ悲しい気持ち、苦しい気持ち、痛む気持ちをもって、でも、笑いながら「おはよう」と呼びかけて、一緒にいてくれる。そういうことを、聖書はわたしたちに伝えようとしているのだと思います。


by oji-church | 2019-04-30 10:36 | 牧師からのメッセ-ジ

天使の翼は生えているか(2)

★人間の幸福といってしかし、それは別に富を蓄えて裕福にはぶりよく生きるなんてことではありません。人間というのは、聖書にもありますが、たった一杯の冷たい水にも、あるいはたった一杯の温かい飲み物にも、無上の喜びを感じることができるものです。そのようにささやかな、小さな物事に、こちらが計り知れない大きな喜びを受けとめて、それによって生きる痛み、苦しみ、悲しみの挫折からよみがえり、もう一度立ち上がって人間らしく生きていくようになる、そんな人の姿に幾度も出会い、触れさせていただいてきました。

★「復活はある」というのは、そんな幸福というものに向かっていこうとする、人間のささやかな願い、希望の切なる積み重ね、その一つ一つの先に思い描かれたものではないかと思うのです。聖書が語るのは、神様はその人間の幸福へと向かおうとするささやかな、切なる願いに、きっと応えて、祝福し、守り支え、導き、救い出すのだと、そのことを伝えるためにイエス様をこの世に送られたのだということです。

★生きているということは、現実の制約の中で、ルールに沿って独りで決まった道を進むことではなく、人間同士、出会い、触れ合い、感じ合いながら共に生きることです。

★わたしたちがいまここに生きているということ自体、もうすでに、ルールを越え、現実の制約の壁を越え、死をさえ越えて羽ばたき、出会い、共に生きることのできる、天使のように自由な翼あるいのちを与えられているということなのです。

★ご自分の背中に天使の翼が生えているのが見えるでしょうか。ルールを越え、現実を越えた想像力が必要です。お互いがお互いにとって、天使のような存在であることを見いだしつつ、出会い、触れ合い、感じ合って、ルールを越えて、現実の冷たさを越えて、死をさえ越えて、共に生きゆくものでありたいと願うものです。


by oji-church | 2019-04-10 17:35 | 牧師からのメッセ-ジ

天使の翼は生えているか(1)

〈あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ〉(マルコによる福音書12章24節)

★牧師という役目を負いながら、幾人かの方々を看取ってきました。しかしどんなに寄り添おうとしても、死を越えてその向こう側まで寄り添うことはできません。その方が息を引き取られれば、すぐにご葬儀の手配やら準備やら実際的な作業に切り換わるというのが牧師という仕事の性分です。その傍らで感じていたのは、死というものの「絶対的な冷たさ」でした。人のいのちは死ねば、もうそこで終わりなのだ。それはもうどうすることもできないのだ。そういう死というものの厳然たる事実を冷静に受けとめることが大切なのだ、と、そんな声がわたしの胸の内にこだましていました。

 けれども人間というのは、どれだけ現実が厳しく冷たいものであったとしても、それでもなお、その冷たい現実を越えたところにある「幸福」というものに向かって思いを巡らし、想像の翼を羽ばたかせてきたのではないだろうか。その中から、一人ひとりの人間が幸せに生きる、つまり、ほんとうに人間らしく生きるという営みも、一歩一歩形作られてきたのじゃないだろうか。そうであるならば、それがどんなに非現実的な想像であったとしても、それを嘲ることは、やっぱりよくないことなのじゃないだろうか。そんなふうに思うようになりました。(つづく)


by oji-church | 2019-04-04 17:12 | 牧師からのメッセ-ジ