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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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神の言葉に導かれつづける

★3月11日に王子教会員であられたKさんが天に召されました。16日に浦和の葬祭場にて大久保の司式により告別式を執り行いました。Kさんは、1950年に当時王子神谷にあった王子東教会において藤城安治牧師より洗礼を受けられました。その後、藤城牧師のご都合により王子東教会が解散することとなり、1952年に、Sさん(故人)やHさん(故人)等とともに、王子教会に転会されました。その後、ご結婚、お子様も生まれて浦和に転居され、教会も浦和東教会に転会されました。2001年に、Sさんの導きにより再び王子教会に転会をされました。学生時代には学生YMCAの活動にも熱心に参加されたそうです。

★王子教会に転入されたときの立証の文章には、受洗時に王子東教会から「我らの救主イエス・キリストの新約聖書」と銘打たれた聖書を送られたことが記されています。今回ご葬儀の準備の中で、ご遺族からその聖書現物が残されていることを知らされました。それは縦10×横7〜8センチ程の携帯用の小さな聖書でした。表紙の革張りは擦り切れてゴワゴワと毛羽立っていて、この聖書がただ置いておかれたのではなく、いつも身につけて用いられていたことを伝えています。中を開くと極小の活字が並ぶ中、そこここに折り目や傍線、書き込みが見られます。ご遺族によれば、しばしば胸のポケットからその聖書を取り出して読んでおられたとのことです。

★ご遺族にしたためていただいたKさんの思い出には、こんなことが語られていました。「子供達が小さい頃や孫達が小さい頃、クリスマスには自宅に子供たちをよび、聖書の朗読や讃美歌を歌ったりしていた」。これを読んで、Kさんの中に聖書の言葉がずっと息づいておられたことを知らされました。受洗後、三度教会を変わるという変転を経られたKさんでしたが、その間、実直に変わることなく神様の言葉に導かれつづけられた方であったことが偲ばれます。


by oji-church | 2019-03-28 13:08 | 牧師からのメッセ-ジ

ほんとうの自由

★東日本大震災、東京電力福島第一原発事故から八年の月日が経ちました。いま、福島の帰還困難地域を車で通れば、家や道路があっても人影はなく、伸びた草が家々を飲み込もうとしている光景に息をのみます。福島第一原発の脇を通って福島の浜通りを縦断する国道六号線を通れば、町への入り口となる角には厳重にフェンスが張られています。わたしたちが暮らすこの国の一角でいまも続いているありようですが、普段わたしたちがテレビ等でそれを目にすることはほとんど無くなりました。代わりにテレビに映されるのは、オリンピック、天皇の代替わりといった華々しい事業とお祝いムード。原発の再稼働が進められています。避難指示が続々と解除され、避難している被災者への補償や住宅の無償提供などが打ち切られています。オリンピックをゴールとして、あの地震、原発被災を終わったこと、なかったことにすらしようとしているこの国の姿が浮き彫りになります。

★「復興」の名の下に大きく華々しいものが次々建設され、動かされていく一方で、この社会は、小さくて目に見えない、しかしわたしたちが生きていくために欠かすことの出来ないもの、それはあの震災や原発事故で、大きな代償を支払いながらわたしたちに示されたものだったのに、それをいま、次々と壊していっているのではないかという気がします。

★人間は地球上でもっとも知恵ある者として発展してきました。知恵が人間に自由をもたらし、その自由によって人間は欲望を際限なく膨らまし、それを満たしてきました。でも人間のその自由がいま、この世界を壊し、命を壊し、人間自身の命も壊しています。果たしてそれはわたしたちにとってほんとうに「自由」なのでしょうか。人間にとってほんとうの自由とは何なのか、そういうことを改めて考えなければならない時代に、わたしたちは置かれていることを思います。


by oji-church | 2019-03-20 14:22 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(3)

★人がこの世に生きる中で、わたしたちは必ずしも思った通りに生きることができるわけではありません。不意の病いやしょうがいを負い、様々な失敗や挫折を経験しながら、わたしたちは思い通りにならない人生を生きていかなければなりません。そこにわたしたちの生きる苦しみがあります。でも、そんなさまざまな苦しみに彩られたわたしたちの人生にあっても、なお残される希望があることを聖書はわたしたちに告げています。それは「出会う」ということではないかと。

★互いに生きる苦しみを背負ったわたしとあなたが出会う。それでは何の救いもないと思われるかもしれません。だけれども、その苦しみを、今日のこの場面で人々が叫ぶバルティマイを叱りつけたようにそれを追い払うのではなくて、わたしたち一人ひとりが生きる中で抱える苦しみに目をこらすとき、そこに命の深い深いところから響く声をわたしたちは聞くのではないでしょうか。「わたしを憐れんでください」「わたしの心の隣に寄り添ってください」「わたしのこの気持ちを感じ受けてください」、そして「見えるようになりたいのです」と呼びかける声をです。その声によってわたしたちは導かれて、出会い、共に感じ、共に生きる者として結び合わせられていくのでしょう。実は、そんな苦しみから響く声に導かれてわたしたちが互いに出会っていくことこそが、イエス様に従うということ、イエス様を信じるということ、信仰を持つということなのではないでしょうか。


by oji-church | 2019-03-13 10:16 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(2)

〈イエスは立ち止まって、「あの男を呼んできなさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。〉(マルコによる福音書10章49〜52節)

★イエス様は「立ち止まった」と言われます。「彼を呼んできなさい」と言われました。呼ばれた彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエス様のところにやってきました。もしかして彼は、生まれて初めて自分の願いや希望を受けとめられるという経験をしたのではないでしょうか。それがこの喜びように現れている気がします。

★イエス様は彼に問います。「何をしてほしいのか」。これももしかしたら彼が生まれて初めて経験したことだったかもしれません。自分の願いや希望を尋ねてもらうという経験です。彼は自分の声を上げます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。これもまた彼にとって初めての経験だったのではないでしょうか。自分の願いと希望を声に出して人に告げるということです。この時点ですでに、彼は救われているといってもいいのかもしれないと思うのです。

★それまで道ばたに「モノ」のように放り置かれた彼が、自分の願いと希望を受けとめられ、その願いと希望を問い尋ねられ、そしてその願いと希望を自分の口で声に出して人に告げる。そのことによって彼は、奪われていた人間性を取り戻したのです。それは、イエス様とバルティマイとの出会いの中で起こったことで、イエス様が彼を一方的に「救ってあげた」のではありません。だからイエス様は言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。(つづく)


by oji-church | 2019-03-06 11:21 | 牧師からのメッセ-ジ