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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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生きる苦しみの底から(1)

〈バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。〉(マルコによる福音書10章46〜48節)

★「憐れむ」という漢字は「心」に「隣り」と書きます。聖書のギリシア語でもこの「憐れむ」という言葉は「同情を懐く」というような意味の言葉です。「憐れむ」も「同情」も最近の日本語の語感としてはあまり良い感じがしませんが、もともとは「同じ気持ちになる」という意味です。最初バルティマイは、いつものようにお金を乞うときの決まり文句として「わたしを憐れんでください」と言っていたのかもしれません。けれども人から叱られてもそれでも止めずに繰り返し叫んでいるうちに、それはいつもの文句であることを越えて、もっともっと深い思いがこもるようになっていったのではないかと想像するのです。「わたしを憐れんでください」「わたしの心の隣に寄り添ってください」、そして「わたしと同じ気持ちになってみてください」と。

★しょうがいを負うがゆえに一人前の人間と見なされず、生きていく上で当たり前の願いや希望を持った一人の人間として生きることを許されず、自分の命の主役として生きることを許されず、人々が普通に歩く道の上を歩くことを許されず、道ばた、道の脇に座り、あたかもそこに放り置かれた命のない、心を持たないモノのように、かすかに生きることだけを許された自分、このわたしのこの気持ちを、どうか感じ受けてほしいと、あなたがダビデの子、ナザレのイエスだと言うのなら。そんな願いになっていったのではないだろうか。この「わたしを憐れんでください」という叫びは。

★イエス様は、そんなバルティマイの深い深いところから湧き上がってくる叫びを聞いたのではないでしょうか。


by oji-church | 2019-02-26 16:39 | 牧師からのメッセ-ジ

「主役」はだれ?(2)

★(承前)「あなたがたの中で大きな者になりたいと思う者は、あなたがたに仕える者になり、あなたがたの中で第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい」。支配者が主役ではなく、主役は人々なのです。

★イエス様は、長年出血の止まらなかった女性と出会い、彼女に「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて彼女を生きる主役としました。中風で動けなかった人に「あなたの罪は赦される」と語りかけて、彼が自分の人生を生きる主役とされました。シリア・フェニキアで、自分の娘を手当てしてもらおうと「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」と主張した女性に「あなたの言葉通りだ」と語りかけ、彼女を主役とした。イエス様の周りから追い払われようとした子どもたちを真ん中に立たせ、あるいは抱き上げて「神の国はこのような者たちのものである」と語って、子どもたちを主役にしました。イエス様の働きは、一人一人の人間が自分らしく生きて、自分の人生の主役となることができるように、人々を導き解放する働きでした。そこにはイエス様が一人ひとりの人の、その人固有のいのちのありよう、姿に注ぐ愛がありました。

★そうした人をその人のいのちの主役に据えようとするイエス様の働きが、支配者が支配し、権力者が自分のために権力をほしいままにする当時のローマ帝国が支配する社会とぶつかって、イエス様は「祭司長や律法学者たちに引き渡され、死刑を宣告され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて、殺される」ことになりました。けれども、そのイエス様の姿は決して自分一人が犠牲になればいいということではなく、あくまで一人ひとりの、その人固有のいのちのありようを愛して、その人をいのちの主役に据えようとするイエス様の働きの末のことだと思わなければならないでしょう。誰かが犠牲になればいいということではないのです。


by oji-church | 2019-02-20 10:03 | 牧師からのメッセ-ジ

「主役」はだれ?

〈諸民族の第一人者と見なされている者が彼らを支配し、その中の大きな者たちが彼らに対して権力をほしいままにしている。しかし、あなたがたにおいてはそうではない。あなたがたの中で大きな者になりたいと思う者は、皆に仕える者になり、あなたがたの中で第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい〉(マルコによる福音書10章42〜44節・私訳)

★この言葉の前半が表しているのは、当時のローマ帝国の支配をです。ローマ帝国には第一人者つまり皇帝がいて、諸民族を支配し、また皇帝のもとには元老院という組織があって、大きな者たち、つまり元老たちが権力をほしいままにしていました。イエス様の故郷であるガリラヤもエルサレムのあるユダヤも、いずれもこのローマ帝国の支配の中に組み込まれていました。しかし、イエス様は「あなたがたにおいてはそうではない」と言われます。新共同訳聖書では「あなたがたの間ではそうではない」と訳されていますが、「間」という言葉は余計です。こうして教会で聖書を読み「あなたがたの間では」と言われると、教会のいわゆる「兄弟姉妹」、「クリスチャンの間では」という意味に取られてしまいがちですが、クリスチャンであるか否かにかかわらず、人間誰しも本来の姿ではそうではないはずだ、という意味で語られています。人間本来の姿にあっては、支配者が人々を支配し、偉い人たちが権力をほしいままにするなんてことにはならないはずだ。そういう人間本来の自由と平等をここでイエス様は宣言しているのです。

★後半の言葉でイエス様は、そうしたローマ帝国の支配のありようをあからさまにひっくり返して語ります。「……大きな者になりたいと思う者は、皆に仕える者になり、……第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい」。この言葉は、国家転覆罪に問われてもおかしくない言葉なのです。(つづく)


by oji-church | 2019-02-12 17:16 | 牧師からのメッセ-ジ

途方に暮れれば(2)

★(承前)「誰もが神の国に入るのは難しい」。そう言ってみて、イエス様は途方に暮れたのではないでしょうか。弟子たちもまた、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに顔を見合わせながら、途方に暮れたことでしょう。ここでもう一度、イエス様は「彼らを見つめて」と言われています。伝道師に失敗して、自分を慕って福音を求めてやってきた人を、悲しみながら立ち去らせることしかできなかった自分の情けなさ、ふがいなさ、悲しさを、弟子たちにも分かち持ってもらって慰めてもらいたかった。でも弟子たちは全然イエス様の悲しみなんて気づかずにお構いなしでした。でもいまここで、途方に暮れているというただその一点では、イエス様と弟子たちは同じ姿をしています。このとき、イエス様のまなざしも、弟子たちのまなざしも、同じように宙をさまよっていたのじゃないだろうか。いや、宙をさまよっていたのではなくて、空を見上げていたのかもしれません。イエス様は弟子たちを見つめ(この弟子たちに注がれたイエス様のまなざしは、あの金持ちといわれた人を慈しんで見つめたのと同じまなざしだったでしょう)、言われます。「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもできるからだ」。

★やはり最後には神様に委ねていくしかないのです。この点でイエス様も弟子たちも同じところに立っています。結局、この「同じところに立って、共に天を仰ぎ、『人間にできることではないが、神にはできる、神には何でも出来るからだ』と、神様に委ねていく」ことこそが、実は「永遠の命を受け継ぐ」ことなのではないでしょうか。


by oji-church | 2019-02-06 15:48 | 牧師からのメッセ-ジ