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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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サンタは遅れてやってくる

★アメリカの牧師で著述家のヘンリー・ヴァン・ダイクという人の『四人目の賢者』というお話があります。「アルタバン物語」という名前で知られています。

★聖書には三人の博士が登場しますが、実は四人目の博士がいたというお話。名前はアルタバン。他の三人の博士たちは「黄金、乳香、没薬」を救い主へのプレゼントとして用意しましたが、彼はルビー、サファイヤ、真珠という宝石を用意しました。他の博士との待ち合わせの場所に向かう途中、彼は砂漠で瀕死の病人を介抱したために約束の時間に間に合いませんでした。遅れを取り戻そうと宝石の一つを売ってラクダを手に入れました。でも救い主の誕生の場所に間に合いませんでした。そこで彼は、「2歳以下の子どもを皆殺しにせよ」とのヘロデ王の命令により、殺されかけた子どもを救うために、宝石の一つを兵士に渡してしまいます。

★救い主を探す長い旅の果てに、彼は探していた救い主が十字架に掛けられるという知らせを聞いてその場所に向かいます。しかし彼はそこで、奴隷として売られてゆく女性を解放するために最後の宝石を手放してしまいます。その時地震が起こり、落ちてきた瓦礫に当たって命を落としてしまいます。最後の時、彼の口元がこんな言葉をつぶやいていました。「主よ、いつ、わたしはあなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、渇いているのを見て飲ませましたか。……33年間、主をさがし求めておりました。しかし、お顔を見たことも、お役に立ったことも、ただの一度だってないのです」。この彼の問いかけへ答えは聖書に書かれています。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。

★先週の子ども食堂のクリスマスに、サンタさんはだいぶ遅れてやってきました。もしかしたら、わたしたちの知らないところで、誰かを助けていたのかもしれません。クリスマスはわたしたちに救い主の誕生を知らせますが、もう一つクリスマスがわたしたちに教えてくれることがあります。それは「待つ」ことの意味です。救い主と出会うため、待つ間にわたしたちに託されていることがあるのでしょう。


by oji-church | 2018-12-26 16:39 | 牧師からのメッセ-ジ

神を畏れる

〈エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。〉(出エジプト記1章15〜17節)

★当時エジプト王の命令は神の命令とされました。エジプト王はエジプトで数を増やす寄留の民ヘブライ人の数を減らすため、彼ら/彼女らに重労働を課し、生まれてくる男の子を殺すように命じました。ところが命じられた二人の助産婦は、王の命じたとおりにはせずに、男の子も生かしておきました。なぜなら彼女たちは「神を畏れていたので」と説明されています。

★エジプト王のことをファラオと言います。ファラオというのはもともと「立派な家」という意味の言葉だそうです。エジプト王の神に由来する権威は「立派な家」というような目に見えて強大な事物によって示されました。人々は王宮、神殿、軍隊、要塞といった強大な事物を通して、王には神の権威が宿っていると認識したのです。ところが二人の助産婦は、目に見える強大な事物には神の権威を見ようとはしませんでした。次々生まれてくる子どもたちの誕生という「ありふれた出来事」の中にこそ、神様の声が響いていることを感じ受けたのです。そして、王の命じたとおりにはせずに、その神様の目には見えない小さな声に従ったのです。

★クリスマスには町は華やかに彩られます。クリスマスはイエス様の誕生の日ですが、いまはもう「ありふれた出来事」として忘れ去られています。イエス様は確かに、ありふれた一人の子どもとして誕生しました。でも、その、世間では忘れ去られてしまう、ありふれた出来事の中にこそ、神様の小さな声は響きます。それを聴き受けることこそが「神を畏れる」ということのなのでしょう。イエス様もまた、そんな「神を畏れる」人々があってこそ、生まれてくることができたと言えます。人が生まれて生きるということの裏には、華やかさや強大さではなく、ありふれた出来事の中に神様の声を聞く、神を畏れる小さな人々の働きが働いていることを覚えたいと思います。


by oji-church | 2018-12-19 09:50 | 牧師からのメッセ-ジ

神を畏れる

〈エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。〉(出エジプト記1章15〜17節)

★当時エジプト王の命令は神の命令とされました。エジプト王はエジプトで数を増やす寄留の民ヘブライ人の数を減らすため、彼ら/彼女らに重労働を課し、生まれてくる男の子を殺すように命じました。ところが命じられた二人の助産婦は、王の命じたとおりにはせずに、男の子も生かしておきました。なぜなら彼女たちは「神を畏れていたので」と説明されています。

★エジプト王のことをファラオと言います。ファラオというのはもともと「立派な家」という意味の言葉だそうです。エジプト王の神に由来する権威は「立派な家」というような目に見えて強大な事物によって示されました。人々は王宮、神殿、軍隊、要塞といった強大な事物を通して、王には神の権威が宿っていると認識したのです。ところが二人の助産婦は、目に見える強大な事物には神の権威を見ようとはしませんでした。次々生まれてくる子どもたちの誕生という「ありふれた出来事」の中にこそ、神様の声が響いていることを感じ受けたのです。そして、王の命じたとおりにはせずに、その神様の目には見えない小さな声に従ったのです。

★クリスマスには町は華やかに彩られます。クリスマスはイエス様の誕生の日ですが、いまはもう「ありふれた出来事」として忘れ去られています。イエス様は確かに、ありふれた一人の子どもとして誕生しました。でも、その、世間では忘れ去られてしまう、ありふれた出来事の中にこそ、神様の小さな声は響きます。それを聴き受けることこそが「神を畏れる」ということのなのでしょう。イエス様もまた、そんな「神を畏れる」人々があってこそ、生まれてくることができたと言えます。人が生まれて生きるということの裏には、華やかさや強大さではなく、ありふれた出来事の中に神様の声を聞く、神を畏れる小さな人々の働きが働いていることを覚えたいと思います。


by oji-church | 2018-12-19 09:50 | 牧師からのメッセ-ジ
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by oji-church | 2018-12-12 08:55 | 全体のお知らせ

積み上げる生き方ではなく(2)

★この人は最初、イエス様に向かって「善い先生」と呼びかけてきました。しかしイエス様はそれに対して「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言って彼の「善い先生」という呼びかけを退けました。

★彼は「善い者」になるために、「永遠の命を受け継ぐ」ために、「何かをする」、そういう行いを自分のもとに積み上げていく必要があると思って生きてきました。しかしイエス様は自分が「善い者」になることを目指さず、「善い行い」を自分のもとに積み上げていくような生き方もしていません。イエス様の生き方は、何よりも「人と関わっていく」生き方でした。自分のところに何かを積み上げるのではなく、自分と人との間に、新しい出会いやつながりを生み出していくことを大切にしていく生き方です。そういう意味で「わたしに従ってきなさい」すなわち「わたしと出会い、つながるように」ということこそが何よりも、イエス様の彼に対する呼びかけの主旨だったのです。

★しかしそのことは彼には伝わらず、彼はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去っていきました。これはやはり、イエス様が伝道に失敗した場面と言わなければならないと思います。イエス様が彼に呼びかけたがった主旨が伝わらなかったと。でも、イエス様は立ち去っていく彼の後ろ姿をじっと見つめているのです。

★途中にこんな言葉がありました。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」。この「慈しむ」という言葉は「愛する」というのと同じ言葉です。イエス様の思いは彼に伝わらず、彼は悲しみながら立ち去っていきました。しかし、「彼を見つめ、慈しんで(愛して)言われた」というイエス様のまなざしは、去って行く彼の背中になお注がれ続けていたのではないかと想像するのです。なぜなら、イエス様の生き方は「積み上げる」生き方ではなく、何よりも出会いをつながりを求める生き方なのですから。


by oji-church | 2018-12-12 08:46 | 牧師からのメッセ-ジ

積み上げる生き方ではなく(1)

〈イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」・・・・・・イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つあ。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。〉(マルコによる福音書10章17〜21節)

★「行って、持っている物を『売り払い』」と言われています。これを読むたびに、イエス様に従っていくためには、持っているものを全部売り払って無一文にならなければいけないのかと思い、わたしも牧師失格だと、到底イエス様に従っているなど言えないのだ、この人と同じように、肩を落としてイエス様の前から立ち去らねばならないのだと思ってきました。しかし元のギリシア語の文を読みますと、必ずしも「全部を売り払う」という意味ではないようにも読めるのです。そういうことよりもむしろ、持っている「余分なもの」を、貧しい人々に与えて、いわば「身軽」になって、そうして「わたしについてきなさい」と言う意味なのだと思います。

★イエス様のこの人に対する呼びかけの一番の主旨は「持っているものを全部売り払う」ことよりも、何よりもまず「わたしについてきなさい」ということなのです。そのことのために重荷になるようなものは、貧しい人に分けてしまって、ということ。(つづく)


by oji-church | 2018-12-05 13:23 | 牧師からのメッセ-ジ