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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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いのちの価値のありか(3)

★「神の国」。それは、「ここにある」「あそこにある」と指さすことのできる、目に見えるものじゃない。うまく言葉にできるものでもない。けれども、それはわたしたちが本当に人間らしく生きていく上で、食べること、着ることにまさって必要なものであり、その中に生きるのであれば、今日の苦労があったとしても、明日また生きていくことができるようにさせるもの。そして、子どものようにそれを受け入れるのでなければ、決してそこに入っていくことができないもの、です。

★わたしたちは普段、いのちの消息について、「この世」と「あの世」に分けて考えることに慣れています。わたしたちは今「この世」に生きていて、死んだ人は「あの世」に行って、もう帰っては来ないと。「この世」ではあの「生産性」という言葉が示すように、何かしら利益を生み出すことが「生きる意味」、「いのちの価値」であると思われています。病気やしょうがいによってそれを生み出すことができなければ、「力が無い、弱い」、意味の無い、価値のない、死んだも同然と思われてしまう。ラザロがそう見られていたように、です。そして「あの世」に行った人々はもうまったく意味の無い存在とされてしまいます。けれどもイエス様は、それとは違ういのちの消息の中を生きておられたのではないかと思うのです。

★イエス様がマルタに呼びかけた「生きていてわたしを信じる者」というのは、「この世」と「あの世」に切り分けて生きるのではなく、イエス様と共にわたしたちも、この「神の国」をみつめつつ生きるようにという呼びかけなのではないかと思うのです。「神の国」では今生きているわたしたちも、すでに亡くなった人たちも、「生産性」などという測りではなく、等しく本当のいのちの価値を与えられて、神の子としての栄光を与えられて光り輝くんだ、ということです。


by oji-church | 2018-11-27 15:10 | 牧師からのメッセ-ジ

いのちの価値のありか(2)

〈わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。〉(ヨハネによる福音書11章25〜26節)。

★その後、イエス様はラザロが病ですでに死んでしまった後、ようやくラザロのいるベタニアの村にたどり着きます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、悔しさをぶつけるラザロの姉妹マルタに向かって、イエス様は上記の言葉を語りかけます。

★イエス様自身決して死ななかったわけではありません。ゲッセマネの園では「死ぬばかりに悲しい」と語り、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました。十字架の上では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、最後には、「大声を出して息を引き取られた」とあります。

★その一方でイエス様はしばしば「神の国」について語りました。「空の鳥、野の花を見てごらん」と言って「何よりも、まず神の国と神の義を求めなさい。……明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」語られた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と。また子どもを呼び寄せて「神の国はこのような者たちものものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。イエス様が、その中で生きておられたのは、この「神の国」でした。(つづく)


by oji-church | 2018-11-21 16:26 | 牧師からのメッセ-ジ

いのちの価値のありか(1)

〈ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身で、ラザロといった。〉(ヨハネによる福音書11章1節)。

★ここではラザロという人が、名前よりも先に「ある病人」と紹介されています。もしかしたらそれは、このラザロという人が相当に長い月日にわたって病を患っていたことを表しているのかもしれません。「病人」と訳されている言葉は、「力のない、弱い」という意味の言葉です。当時、一般の民衆の人間としての価値は何によって測られたかと言えば、それは労働力としてでした。ほとんどは農民でしたから、十分に農作業に携わり、十分に実りを生み出す力を持った成人男性こそが、もっとも価値のある人間と見なされました。女性や子どもはその傍らにあって男性の所有物と見なされていました。そのような社会の中で、病気であること、そして、その病気が治らず、長い月日、労働に携わることができない者は、まさに「力のない、弱い」存在、価値の低い存在と見なされたのです。現在でもそのような価値観で人間を測ろうとする人がいます。国政に携わる人が、「LGBTには生産性が無い」という発言をして問題になったことは記憶に新しいことです。

★ラザロという人は、病のゆえに「無力で、弱く」価値がない人間であると思われていたのかもしれません。しかしイエス様は、ラザロの病気の知らせを受けて、こう言われます。「この病気は死で終わるものではない」。わたしはこのイエス様の一言のうちに、単にこの病気で死ぬことはない、という楽観論以上のものを感じるのです。病気のゆえに、ラザロは価値の無い人間であるというレッテルを貼られてしまうことに対する憤り、とでも言いましょうか、イエス様はむしろラザロはこの病気によって、「神の子としての栄光を受けるのだ」と言われます。(つづく)



by oji-church | 2018-11-17 11:09 | 牧師からのメッセ-ジ

振り返れば、そこに福音

〈もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい〉(マルコによる福音書9章43節)。

★マルコによる福音書は、「十字架のイエスに従う」をテーマに書かれています。でもこの福音書を読み進めるうちに明らかになるのは、最後までイエス様に従いきることのできた弟子は誰一人いなかったということです。実は弟子にとって、そういう自分たちのふがいない有様を振り返ること以上に、わが身を切るように辛く痛みを伴うことは無かったのではないでしょうか。でもこのマルコによる福音書が訴えているのは、まさにその最も辛いこと、「弟子」を自称しながら、「イエスに従う」ことができず、イエス様を裏切り、見捨てて逃げ去ってしまった自分の情けない姿を振り返り、省みるということ、それをこそするように、ということだったのではないかと思うのです。

★歳を重ねるにつれ、振り返った我が身は情けない姿でしかないことを思い知らされます。でもそれを振り返り、省みる時、ふと気づくことがある。情けない自分の傍らに、一人の誰かがいることに気がつくのです。イエス様がわたしの傍らに、わたしと共におられることに気がつくのです。

★本当のキリストとの出会いとは、痛みを伴いながら自分を振り返り、省みることの中にあるのではないでしょうか。ふがいなく、だらしなく、なさけなく、みっともない自分の傍らにイエス様が共におられることを見いだすこと、そこからもう一度、その、わたしと共におられたその「イエスに従う」という歩みが始まるのです。そしてそれこそが、「命にあずかる」こと、わたしたちにとって本当の意味での「喜ばしい知らせ」、福音なのでしょう。



by oji-church | 2018-11-07 09:31 | 牧師からのメッセ-ジ