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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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一杯の水の中にある「世界」

〈わたしの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける〉(マルコによる福音書9章41節)。

★わたしたちはいくつかの組織に属しながらこの世に生きています。例えば教会に属している。自分の家族に属している。日本という国に属している。わたしたちは、そんな自分の属する組織の中で人生の大半の時間を過ごしています。そこなら気心が知れて、安心して信頼できると思っています。でもここでイエス様が言わるのは、そういう人のことではありません。通りすがりの見ず知らずの人が、自分に一杯の水を与えてくれる。そんな出会いがこの世にはある。そのとき、わたしたちは教えられるのです。自分の属している組織の外にも、人間が、生きているということ、お互いに助け合い、支え合う人間同士の関係がそこにもあるんだということを、です。

★自分の属している組織の外、そこはこの世界全体と言ってもいいでしょう。たった一杯の水が、この世界全体を見直す、広いまなざしをわたしたちに与えてくれることがあるのです。その広いまなざしはおそらく、神様のまなざし、神様がこの世界を見るまなざしなのでしょう。この世界はすべて神様が創られた世界です。だから、神様はこの世界を「敵」と「味方」との色分けして見ることをしません。神様は遠くにおられて、この世界全体を見渡しながら、しかしそれと同時に、旅人に一杯の水を恵む一人の小さな人を見逃すことをしないのです。

★世界全体が「敵」「味方」に色分けされ、分断が進む今の時代、わたしたちに必要なのは、この神様のまなざし、同じ組織に属する仲間内にとどまらない広いまなざし、しかし同時に小さな、見ず知らずの人の人間としての人間らしい温かみを見逃すことのない神様のまなざしを与えられることなのでしょう。



by oji-church | 2018-10-31 12:16 | 牧師からのメッセ-ジ

「願い」の共有としての祈り(2)

★集まってくる子どもたち一人ひとり、とても子どもひとりには抱えきれない問題・課題を背負わされていて、それがゆえに食堂を開くたびに、いろんな問題がここでも沸き起こってきます。ほとんどはすぐには解決のつかない問題です。そういう子どもたちが抱えた問題を、子ども食堂自身も抱え込みながら続けていくので、食堂は毎回、先の見えない中で続けていくことになります。

★それでもみんなで一緒に続けていくうちに、子どもたち一人ひとりの境遇や、行く先について、「こうであったらいいのにな」という「願い」が、皆の間に芽生えてきます。それは自分一人の自分勝手な「ああしたい、こうしたい」という「欲望」ではありません。また大人のボランティアの、「この子はこうなってほしい」という上から目線の「願望」でもなく、子どもたち一人ひとりの小さな声に耳を傾けながら、また子どもたちの仕草や様子をうかがいつつ、子どもたちの言葉にならない気持ちも受けとめて、「こうであったらいいのにな」という願いが、子ども・大人の垣根を越えて、またキリスト教の信仰を持っているかいないかという垣根も越えて、心の奥深いところで、皆が「こうであったらいいのにな」という「願い」を持つようになる。少しずつ、少しずつ、そんなつながりが出来てくるのを感じさせられています。

★「子はかすがい」という言葉がありますが、集まってくる子どもたち一人ひとりが抱えている問題・課題がむしろ、そうして大人たちも巻き込んで、垣根を越えて、同じ願いを分かち合うように結びつけてくれるのを感じるのです。「欲望」でも「願望」でもない、この「願い」こそは、もしかしたら「希望」というものなのかもしれません。そういうことを教えられている、学ばされています。


by oji-church | 2018-10-24 08:42 | 牧師からのメッセ-ジ

「願い」の共有としての祈り(1)

★牧師になって23年になりますが、そのくらい牧師という立場にいると、だんだんと周囲はクリスチャンばかりになってきます。日本の人口の1%に満たないと言われるのがクリスチャンの数ですから、かなりかたよった人付き合いということになるかもしれません。

★子ども食堂を始めるようになって、そこで出会う人は、子どもたちも含めて、いずれもクリスチャンでない人たちばかりです。だったらその人たちに伝道をして、その人たちもクリスチャンになるように努めるのが牧師の務めではないかと言われるかもしれません。でもそういうことは全然していません。わたしの怠慢だと言われればその通りというより他ありません。北区の助成金をいただいていて、そこでは宗教活動や政治活動をしてはならないことになっているので、という言い訳あるのですが。願わくは、このことにいそしんでいるわたしや、教会員の方たちの「後ろ姿」を見て、キリスト教の信仰というものを受けとめてもらえればと思ってはいますが、どうもそうはならないところを見ると、そもそもわたしの「後ろ姿」がちっとも信仰深そうではないから、なのだと悲しく合点するところです。

★でも、そうしてクリスチャンでない方たちと一緒に協力して、地道に活動を積み上げていく中から、わたし自身が教えられることは、本当に豊かにあることを感じさせられています。ボランティアとしてお手伝いくださる方からも、集まってくる子どもたちからもです。何を教えられるのかと問われてもうまく言葉にできない気もしますが、あえて言えば、人間誰しもの奥深いところに秘められている「願い」のようなものを一緒に感じ取り、それを共有していくことです。(つづく)


by oji-church | 2018-10-19 15:18 | 牧師からのメッセ-ジ
「欠けたるところにイエス生き給う」(2)

★わたしの命を、わたし一人で、自分ひとりの持ち物のように思って生きている時には、歳を重ねて自分でできることが減り、できないことが増え、そうして自分というものが小さくなっていく、そんな小さくなっていくばかりの人生をただただ生きていくことに一体どんな意味があるだろうと思えるでしょう。だけれども、できることが一つまた一つと自分の手からこぼれ落ちるように減っていき、自分というものが小さくなっていくことが、しかし同時に、一つまた一つとイエス様がわたしたちの傍らに、人の痛み、悲しみ、寂しさに寄り添って生きるようになって行く、イエス様の命が膨らんでいくことだとすれば、たとえどんなにわたしたちの「自分」が小さくなっていったとしても、それは意味あることなのではないでしょうか。そんな見えないイエス様の命を、わたしたちの命の傍らに見いだすことこそが、パウロが語る「イエスの死を体にまとって生きる」ということなのではないかと思うのです。「イエスの死を体にまとって生きる」ことは、同時にまた「イエスの命がわたしたちのこの体に現れてくる」ということでもあるのです。

★実はわたしたちのこの命はすり減って、やがて無くなってしまうのではない、見えないところで、わたしたちの欠けたる命がイエス様の命として生きるようになっていく。やがてわたしたちはこの命を、イエス様の命として生きる者となっていく。そういう希望をパウロは語っているのだと思います。

★わたしたちはこの命を、自分一人で、自分一人の持ち物のように生きているのではない。見えないところで、わたしたちの「できない」ところで、わたしたちの欠けたるところで、イエス様が共に生きておられる。そのことを心に刻んで、日々新たに生かされる者でありたいと願います。



by oji-church | 2018-10-10 09:54 | 牧師からのメッセ-ジ

「欠けたるところにイエス生き給う」(1)


〈わたしたちはいつも、イエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために史にさらされています、死ぬはずのこの胃にイエスの命が現れるために。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章10〜11節)

★パウロという人は、その体に何らかのしょうがいを負っていたと言われています。そしてこのコリントの信徒への手紙を書いた頃には、当時としてはだいぶ高齢にもなっていたと思います。人並み以上に、自分でできることが減っていくのを実感していただろうと思います。でもパウロがそのことを寂しがっている様子はありません。なぜだろうか。ここのところでパウロが語っていることを繰り返し読みながら、わたしは、パウロはこんなふうに感じていたのではないかと想像するのです。

★パウロもまたわたしたちと同じように、歳を重ねるにつれて、一つまた一つと自分でできることは少なくなっていくのを実感していたことだろう。だけれども、その一つ一つ減っていく「自分でできること」が、どこかへ消え去ってすっかり無くなってしまう、というようには思っていなかったのじゃないか。むしろ、歳を重ね、自分でできることが一つ減り、二つ減り、できないことが一つ増え、二つ増えしていく、その度ごとに、そうやって自分の欠けたところ、「自分」というものが小さくなったところに、その隙間、空白に、実は一つまた一つと新しいものが芽生えているんだ。新しいものが生まれているんだ。それは何かといえば、イエス様の命だ。このわたしと共に生きるイエス様の命が、このわたしのできなくなったところ、ままならなくなったところ、欠けたるところに、一つまた一つと芽生え、生まれているのだと、そんなふうにパウロは感じ受けていたのではないかと。(つづく)



by oji-church | 2018-10-03 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ