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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「目には見えないかんじんなこと」(3)


★「これはわたしの愛する子、これに聞け」。この言葉は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に響いた声を思い起こさせます。マルコによる福音書の初めのその場面にはこんな声が響いています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

★この言葉は、イエス様一人が神様から受けた言葉ではなく、この世に生きているわたしたちみんながイエス様と一緒に受けている言葉だと思います。この場面でもやはり、「これはわたしの愛する子」という声は、イエス様一人が受けている声ではなく、この世に生きるわたしたちみんなが受けている声なのだと思うのです。そしてこのこと、わたしたちみんなが神様から「わたしの愛する子」という声を掛けられているということの方が、目に見える「すばらしい」光景よりもずっと大事なんだということ。

★イエス様がモーセやエリヤといったビッグネームと語り合っている「すばらしい」光景が雲の隠れて見えなくなった後にこそ、この声は響きます。それは暗にこういうことを語っているのではないかと思うのです。「かんじんなことは目に見えない」ということを。

★後には、辺りを見回してみても「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられ」ます。そのイエス様の服は、真っ白に輝くものではなく、風に埃に汚れた服だったでしょう。でも、「ただイエスだけ」と言われる「ただ」のイエス様、そしてイエス様はじめ、生きている「ただ」の人間の奥底には、「どんなさらし職人の腕も及ばないほど真っ白な」すばらしいもの、、神様から「かけがえのないもの」としてもらっているという、「目に見えないかんじんなこと」が秘められているのでしょう。


by oji-church | 2018-09-26 11:47 | 牧師からのメッセ-ジ

「目には見えないかんじんなこと」(2)


★ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちもイエス様の山登りに同行させられます。そして山の上で三人の弟子たちは不思議な光景を目撃します。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』」。

★確かにこれはペトロが言うように「すばらしい」光景です。エリヤもモーセも伝説の預言者です。自分の師匠であるイエス様が、そんなビッグがネームと肩を並べて語り合っているのを見て、ペトロが感激したのもうなずけます。ペトロはこの「すばらしい」光景をいつまでも見ていたかったのでしょう。ここに三つの仮小屋を建てましょうと提案します。でも、聖書はこのペトロの提案にとりあう様子はまったくありません。ペトロは「非常に恐れていたので、どう言えばよいか分からず、こんなことを言ったのだ」と語られています。その後、すぐに雲が現れて、この「すばらしい」光景を覆い隠してしまいます。そしてただ声だけが響くのです。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。実は大事なのは、目に見えるあの「すばらしい」光景の方ではなく、「すばらしい」光景が目には見えなくなった後に響くこの声の方ではないかと思うのです。(つづく)


by oji-church | 2018-09-18 09:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「目には見えないかんじんなこと」(1)

〈六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。〉(マルコによる福音書9章2節)

★イエス様が、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られ、そこでその姿が変わるという場面です。山のてっぺんに登ると、やがて自分よりも上に見えるのは空だけになります。聖書では、空、天というのは神様のいるところとされています。ですから、山に登るというのは、神様に会いに行くということなのです。
★なぜイエス様がここで山に登ったのかは語られていません。この前の場面で、イエス様は弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と繰り返し尋ねています。ペトロはすぐさま「あなたはメシアです」と優等生的な答えをしますが、イエス様はそれを「誰にも言うな」と戒めています。その後でペトロはイエス様から「サタンよ、引き下がれ」とまで厳しく叱られているところを見ると、イエス様はこのペトロの答えに納得していないようです。
★山に登るとは神様に会いに行くということだとすると、こんなことを想いえがくのです。もしかすると、イエス様自身でも、自分が「何者なのか?」分からないところがあったのではないかと。自分が「何者」なのかよく分からないけれども、自分がこれから進んでいく道は、聖書に語られているように、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」てしまうような、辛く厳しい道であることが予感される。それで、イエス様は「わたしはいったい何者なのでしょうか?」、そう神様に尋ねるために、山に登っていった、神様に会いに行ったのではないかと。(つづく)
by oji-church | 2018-09-12 09:37 | 牧師からのメッセ-ジ
「最もちいさいもの」

〈はっきり言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。〉(マタイによる福音書25章40節)

★ここで言われている「最も小さい者」という人がどこかにいると思ってしまったら、この聖書の言葉を間違って読んでしまうことになると思うのです。考えてみれば、わたしもあなたもどの人も、この世界全体から見れば、誠に小さな者の一人です。逆に、そんな小さな一人ひとりの人がいまここに生きていることの重さを考えれば、どの人も「小さな者」などではなく、どの人も限りなく重く大きな存在です。
★「最も小さい者」というのは、この世の誰かに、「あの人は小さな者」、「この人は小さな者ではない」なんて具合に、名札のように付いている呼び名ではなく、この世の中で、小さな取るに足らないとみなされているそんな、一つひとつの「出会い」のことではないかと思うのです。小さなとるに足らないような出会いを、それでもなおわたしたちが大切にするとき、わたしたちはイエス様と出会い、「いや、あなたはわたしによくしてくれた」と労われる、尊い存在とされるのでしょう。
by oji-church | 2018-09-05 13:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「歴史を振り返るとは」

★八月、平和に思いを致す月。わたしたちが平和を思う時、歴史を振り返ること無くして、本当の意味での平和を想うことはできません。今はある意味では歴史流行りの昨今です。でも歴史というと、戦国時代の武将の話か、幕末の志士の話ばかり。そんな話はテレビで幾らでもやっています。でもそれでは、本当の意味で歴史を振り返ったことにはなりません。子どもたちの話したのはこういうこと。戦国時代の武将とか、幕末の志士など有名人は、その時代に生きていた無数の人たちの内のほんの一握りの人間に過ぎません。今生きている多くの人たちも、わたしたち自身も含めて、国中や世界中に名前が知れ渡って生きている訳ではありません。でも実は、歴史の中で、その時代時代の厳しさを真正面から受けて生きながら、本当に歴史を前へ進めてきたのは、そうした名前を知られていない無数の人たちなのです。
★歴史を振り返る時に大事なのは、過去の時代の中に生きていたはずの名前も知られていない小さな一人ひとりの人たちが何を感じて、どんなふうに考え、どのように生きていたかを知ることなのです。そして、とりわけ大事なことは、そうした小さな一人ひとりの人々の痛みや悲しみに思いを向けることです。わたしたちも、生きる中でさまざまな痛みや悲しみを経験するでしょう。そうした人間の痛みや悲しみは共感されることによって、はじめて和らげられ、癒され、そして歴史は前へと進むことになります。歴史を振り返るということは、人間が経験してきた痛みや悲しみを癒す働きなのです。
by oji-church | 2018-09-05 13:15 | 牧師からのメッセ-ジ