日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「過去のことでも、他人事でもない」

★8月9日から12日にかけて北支区と韓国基督教長老会ソウル老会の日韓青少年合同修養会が催されました。韓国のソウル老会から中高生を十数名迎えて、日本の北支区の諸教会の中高生と交流します。今年の主題は「日本と朝鮮半島の歴史を振り返る」というものでした。10日には関東大震災の時の朝鮮人の虐殺の事件を振り返って、墨田区の横網から八広までを日韓の中高生たちと一緒に歩いて、事件の掘り起こしをされているグループの方からお話を伺いました。
★震災後、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいるとか、爆弾を準備して、暴動を計画しているだとか、家々に火を付けて回っているだとか、事実無根の流言飛語が飛びか周り、一節には軍隊や警察がそのような情報を流したと言われていますが、市井の人々がそこここで自警団を組織し、朝鮮人を片っ端からあぶり出して、手足を縛られ、日本刀で、銃で、鉈で、棍棒で殺され、あるいは多くの人たちが生きたまま石油を掛けて焼き殺し、そのように虐殺していったのです。中には軍隊が出動して、朝鮮人を機関銃でなで殺しにしたという例もあります。殺された朝鮮人の数は数千人とも言われていますが、事件後、政府も軍も警察も事件を葬り去ろうとして、確かな記録が残っていないため、真相はまだまだ分からない点が多いのです。
★学者の吉野作造という人が、事件後、調査をした記録には、この王子でも81人の朝鮮人の方が殺されたという記録が残っています。他人事では全くありません。また、今もなお、殺された人の子孫は悲しみを携えて、遺骨を捜しているというお話もありました。そしていままた、韓国・朝鮮の人たちに対するヘイトスピーチが横行して、「朝鮮人を殺せ、韓国人を殺せ」と叫ぶ人たちが巷で堂々とデモを行う時代になっています。これは決して過去のことではありませんし、忘れ去ってよい事でもありません。忘れ去ってしまえば、必ずまた同じことが起こることになるでしょう。これは決して過去の事ではないということを心に刻む必要があります。
by oji-church | 2018-08-23 15:40 | 牧師からのメッセ-ジ
王子教会のメールアドレスを以下に変更いたしました。

ouji-church@kxb.biglobe.ne.jp

よろしくお願いいたします。

by oji-church | 2018-08-23 15:18 | 全体のお知らせ
「『恥』の意味」③

★わたしたちはこの世に生きる中で、しばしば神様ではなく、この世の力ある者の考え方に染められて、神様に従うのではなく、この世の価値観に、世間体に従って、神様との約束を破ってしまいます。人の弱さを受けとめて、自分の弱さと結んで互いに助け合い支え合い守り合うよりも、人間の弱さを「恥ずかしい」と思ってしまう。
★ペトロは後の方になって、相変わらず力ある人の前に屈して、イエス様のことを三度にわたって「知らない」と否定してしまいます。しかしヨハネによる福音書には、復活されたイエス様がやはり三度にわたって「あなたはわたしを愛するか」と問い返すのです。三度イエス様を否んだペトロに、三度イエス様は「あなたはわたしを愛するか」と聞き返すことによって、約束を交わした自分と、約束を破った自分とに、真っ二つに引き裂かれたペトロを、赦し、癒したと言えるのでしょう。このイエス様の赦しと癒しを覚え、たびたびに渡って神様との約束を破ってしまうわたしたちが、そんな自分の苦さを噛みしめながら、再び、何度でも立ち帰って、やはり神様に従っていくことを求め、志すことが何よりも大事なことなのだろうと思うのです。
★戦前、戦時下の日本の教会の歴史を辿る時、それはまさに、神様に従わず、政府や軍部に従って、戦争に協力し、加担し、突き進んでいった歴史でした。戦後、日本の教会はそんな戦前、戦時下の教会の「恥ずかしい」歴史を忘れようとしてきました。でも大切なことはその「恥ずかしさ」を忘れることではなく、またそんな「恥ずかしい」歴史を作ってしまった教会を「これはダメだ」と切り捨てることでもなく、その「苦さ」を噛みしめ、背負いつつ、もう一度、繰り返し、何度でも、神様に従っていくことに立ち帰り、それを求め志し続けていくことでしょう。その「苦さ」を忘れることなく噛みしめ、背負っていくことが、「自分の十字架を背負う」ということなのではないかと思うのです。そうして、もう一度、繰り返し、何度でも、神様に、イエス様に従っていくことに立ち帰り、それを求め、志していくことなのでしょう。
by oji-church | 2018-08-15 11:57 | 牧師からのメッセ-ジ
「『恥』の意味」②

★神様から見られて「恥ずかしい」ことって一体何でしょうか。わたしたちは神様によって創られ、神様によって愛されて、この世に生きる者とされたというのが、聖書に語られていることです。神様によって愛されるわたしたちは、神様との間に約束を交わして生きる。神様と共に、神様に従って生きるという約束。それは、神様がこの世に生きるすべての命を愛していつくしむ限り、わたしたちもまた、この世に生きるすべての命を大切にして生きるということでしょう。しかしわたしたちは、時に、神様に従うよりも、この世の力ある人に従って生き、人間同士の争いに加わったり、誰かを見下し、邪魔にして排除してしまったり、この世に生きるすべての命を大切にして生きるという神様との約束を破ってしまう。それが神様から見られて「恥ずかしい」ことではないか。
★第二次世界大戦中にドイツでナチスに抵抗して逮捕されて収容所に送られ、処刑された牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーが、「恥」についてこんなふうに語っています。「恥は、人間の分裂を知った時に発生する」。つまり、わたしたちが神様と(誰かと)約束を交わす。その約束を守ることができれば、わたしたちは自分のことをまっとうな人間だと思える。だけれども、わたしたちは時にその約束を破ってしまうことがある。その時、わたしたちは、約束を交わした自分と、交わした約束を破ってしまう自分と、二つの自分に引き裂かれてしまう。その時に「恥」が生まれる。これこそが、神様に対して「恥ずかしい」と思う「恥」なのでしょう。(つづく)
by oji-church | 2018-08-08 12:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「『恥』の意味」

〈神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。〉(マルコによる福音書8章38節)。

★日本は「恥の文化」だと言われます。『新明解国語辞典』で「恥」という言葉を調べてみたら、二つの意味がありました。一つ目は、「世間体を意識した時に、ばかにして笑われるのではないかと思われるような欠点・失敗・敗北・言動など(を自省する気持)」。二番目の意味として、「自ら人間として(道徳的に)未熟なところがあるのを反省すること(気持)」。「恥」という気持ちには二つの面がある。一つ目は「世間体を気にして、ばかにして笑われるのではないかと思われる」気持ち。もう一つは、「自ら人間として未熟なところがあるのを反省する」気持ち。日本が「恥の文化」だと言われるのは、一番目の意味で「恥」を気にする気持ちが強い文化だということでしょう。わたしたちが何かを恥かしいと判断するものさしは「世間体」なのです。
★一方、もう一つの意味では、ものさしは、「自分自身」(深いところにある)「人間」(普遍的な意味で)「道徳的」(何が正しいことか、全ての人に当てはまる基準)というものです。でも、日本の社会では、こちらの意味の「恥」は、それほど意識されません。「深いところにある自分自身」「普遍的な人間というもの」「全ての人に当てはまる基準としての道徳」。これらは言い換えれば神様のことと言えるかもしれません。「恥の文化」の日本は、人から見られた時に「恥ずかしい」と思われることは極度に気にするけれども、神様から見られた時に「恥ずかしい」と思われることはあまり気にしない。
★イエス様はもう一度、わたしたちに、人から見られて「恥ずかしい」と思うことではなく、神様から見られて「恥ずかしい」と思うことを「恥ずかしい」と思うように、呼びかけているのです。(つづく)
by oji-church | 2018-08-08 12:41 | 牧師からのメッセ-ジ