日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「『受難』の意味」

〈人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている〉(マルコによる福音書8章31節)。

★以前NHKで放映された石牟礼道子さんの追悼番組の中で語られていた言葉に深く心を打たれました。緒方正人さんという方、この方は水俣病認定申請患者協議会の会長を務められた方でしたが、やがて会長を辞め、協議会も辞め、申請までも取り下げられた方です。認定の申請という形で闘うのではなく、人間として人間であるはず会社の人々に語りかける形で向き合おうとされてこられたました。その緒方さんが、石牟礼道子さんについて、こんなことを語っておられました。石牟礼さんはもともと、この世界の中で、人間が別枠にあるのではなく、沢山の生き物の中に連なって生きているという思いを持っておられた。石牟礼さんは、被害者の置かれている状況に対して「受難」という言い方をしていたと。単に病気で苦しんでいるということだけでなく、そこには生活の苦しさも、家族が崩壊していく苦しさも、村全体が、いろんな差別や偏見を受けながら、人間苦をそれぞれが抱えていかなければならない状況。それを丸ごとすくい取ろうとする慈悲深さが石牟礼さんにはあったと。それが「受難」という言葉を石牟礼道子さんが使った意味ではないかと語っておられました。
 石牟礼さんの語る「受難」という言葉が、今日の場面のイエス様の言葉と重なって響いてきました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」。この苦しみは、イエス様一人の苦しみではなく、イエス様が目の前にし、傍近くに、肌身に触れて身を寄せた人たちの負っていた苦しみだったでしょう。「生活の苦しさも、家族は崩壊していく苦しさも、村全体が、いろんな差別や偏見を受けながら、人間苦をそれぞれが抱えていかなければならない状況。それを」自分の苦しみとして受けとめて、「丸ごとすくい取ろうとする」イエス様の思いがこめられているのではないかと思うのです。
by oji-church | 2018-07-26 12:05 | 牧師からのメッセ-ジ
「生きる資格の証明は」

〈ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。〉(マルコによる福音書8章11節)。

★「天からのしるし」とは、その人が確かに天の神様のもとから遣わされた救い主だと証しする証拠でしょう。二千年も昔の話、いまはそんな「救い主」を探すことも、天からの証拠など求めることもないと思われるかもしれません。けれども現代にあっても、わたしたちがひとたび社会に触れる時には、何かに付け、履歴書、証明書を求められ、自分の存在価値を証明することを求められます。
★評論家の若松英輔さんがこんなことを書いています。入試や入社試験の面接で、面接官が履歴書に目を通し、質問を投げかけてくる時、「私たちの中では静かに、しかし、確かに燃え上がるような勢いで、ある想いが生まれる。『違う、あなたは分かってなどいない。そこに記されている事実は確かに私についてのことだが、それは何も私を語っていない。そこにわたしの本当の姿はない』、と内なる声がする。振り返ってみれば、履歴書を書き進めているうちに私たちは、どの項目にも書き得ない出来事こそが人生を決定してきたことに気が付いていたはずだ」。
★わたしという人間の本当の掛け替えのなさを形作っている、深いところにあるものは、決して証拠立てることができないものなのかもしれません。「天からのしるし」を求められたイエス様は「決してしるしは与えられない」と言って、それを示すことはしませんでした。イエス様の姿勢は、人の生きる価値や資格を証明することなんてできないし、その必要もない、ということを、言葉無く示しています。言ってみれば、わたしたちが今ここに共に生きているそのこと自体が、わたしたちの生きる資格のしるし、証拠なのです。
by oji-church | 2018-07-19 15:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「天に触れる。隣人に触れる。」

〈イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、「エッファタ」(開け)と言われた。すると、たちまち耳が開け、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。〉(マルコによる福音書7章33~35節)。

★イエス様はしばしば「天を仰ぐ」という仕草をしています。わたしたちがいま、空を仰いで見ても、何も無いと思われるかもしれません。手を精一杯空に向かって伸ばしても、空に触れることはできません。でも、わたしが手を伸ばして届くところを越えたところに、神様がおられる。その希望が向こうから、空のかなた、天のかなから、わたしたちのもとを訪れるのだと。イエス様はまさに、そのように思って、天を仰いだのではないでしょうか。その希望を胸一杯に吸い込むように、深く息をついて、「エッファタ」「開け」と囁いた。
★わたしたちの手は、天には届きません。だけれども、わたしたちが隣り合って生きている隣り人には触れることができます。わたしたちが神様から求められていることは、この隣り合って生きる人に「触れる」ということなのではないかと思うのです。イエス様は、「よし、わしは神の子だから、お前、治してやる」なんてことは言いませんでした。ただ手当てをしたのです。隣り合って生きている人の悲しみ、嘆き、痛みに向かって、精一杯手を伸ばして、自分にできる限り、傍近くに寄り添って、手当てをした。そうして、天には届かない自分の手だけれども、その天を仰いで、その天の彼方から訪れる希望を、胸一杯に吸い込んで、「開け」と願った。わたしたちもまた、天には届かない手を、隣人に触れて、寄り添って歩むことが神様から求められていることなのではないでしょうか。
by oji-church | 2018-07-11 15:26 | 牧師からのメッセ-ジ
「下からの声」

〈「子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます。」〉(マルコによる福音書7章27~28節)。

★「子犬」とイエス様によって嘲られたこのシリア・フェニキア出身の女性は、「食卓の下」。その貶められた場所から、それでも食卓の下に置かれた者であっても、「子犬はパン屑はいただく」、人は生きるに値する糧と権利を持っているのではないかとイエス様に問い返しました。先週の説教でこうお話ししました。「すべての人は清い存在」。これが福音のメッセージです。食卓の上で食事をしている者は、このことを当たり前のことのように思って忘れてしまっています。だけれども食卓の下に、蔑まれ、貶められた人にとっては、この当たり前のことを当たり前に生きるということが、やむにやまれず探し求め、せつに願い求める悲願なのです。「すべての人は清い」ということが、どれほど尊いことなのか、どれほど価高いものなのか、蔑まれ、貶められた人こそが深く、深く知り得ているのです。このテーブルの下からの声を聞いて、イエス様はそこで初めて、自分が語った「すべての人は清い」という福音の尊さ、価高さを教えられ、噛みしめたのではないでしょうか。
★「それほど言うなら、よろしい」。もとのギリシア語の原文を読めば、こんなエラそうな、上から目線の言い方はしていないのです。「あなたのその言葉のゆえに」と書かれています。この女性の食卓の下からの、蔑まれ、貶められる中から「すべての人間は清い」という宣言の尊さ、価高さを深く知り得て、それを切望するこの女性の下からの声を受けて、イエス様は「ほんとうにあなたの言う通りだ」と応えたのです。イエス様は、自分の中から出て来た人を汚すものを、この女性によって清められたのです。「家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から、もう出てしまった」。帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。この女性の「すべての人は清い」とされることへの切なる愛が、イエス様を清め、そして子どもをも癒したのでしょう。
by oji-church | 2018-07-04 09:48 | 牧師からのメッセ-ジ