人気ブログランキング |

日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

<   2018年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

「自分の中から出てくるもの」

〈外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである〉(マルコによる福音書7章15節)。

★この言葉をこんなふうに言い換えてみます。「自分以外の人が、自分を汚すことはできない。自分自身の中から出てくるものこそが自分を汚すのだ」と。多くの人は、差別は良くないことだと思っています。その一方で、思いがけないところで、自分でも意識しないところで、わたしたちは、自分とは違うところを持つ誰かを、自分よりも劣った者と思い込んでしまう心の癖のようなものを持っています。これは、社会に染みこんでいる人を優劣づける価値観に影響されてのことなのですが、そこに浸かっていると自分では気付くことが難しいのです。でもやっぱり多くの人は差別は良くないことと頭では分かっている。それで、人を蔑むようなことを言ったり、やったりしながら、「自分は差別などするはずがない」と、自分の振る舞いが差別であることを強く打ち消すのです。
★差別が「いけない」のは、それが世間一般に「いけないこと」と言われているからではありません。差別が「いけない」のは、それが人を傷つけ、人の心を傷つけ、人の尊厳を、その人が「自分は生きていていい」と思える思いを傷つけ、さらにはその人のいのちを傷つけ、人のいのちすら奪ってしまうものだからです。そうして差別は、それをすることによって、わたしを、人のいのちを奪う存在にしてしまいます。差別は、わたしがそれをすることによって、そのようにしてわたし自身を汚すのです。
★わたし自身の中から、人のいのちさえ奪うものが出てくる。そのようにわたし自身を汚すものが出てくる。そう思ってみる時、そんな自分自身を振り返り、省みて、もう一度正していこう、正していきたいという思いが浮かび上がってくる、のです。「自分は差別なんかしない」という表面の取り繕いではなく、自分自身の心の深いところ、自分自身の魂を見返して、もう一度これを、神様が創り授けて下さったそのままのもの、そのままの姿を見つけ出していこうとする気持ちです。
by oji-church | 2018-06-27 14:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「小さな人、弱い人が一番大事にされる場所」

〈子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。〉(ルカによる福音書18章15節)。

★子どもの頃は、周りじゅうコワイものだらけで、早く大きく強くなりたいと思っていました。思っていたら、だんだん大きくなりました。そうしたらコワイものも少なくなりって、強く大きくなる自分が嬉しくなりました。「オレはあの子よりは強い」。強い自分を確かめたくて、あの子にイタズラしたり、嫌がることをしても「オレは平気だ」。だって「オレはあの子より強いから」。これが始まり。「いじめ」の始まりです。
★イエス様のところに、お母さんやお父さんたちが、小さな子どもや赤ちゃんを連れてきました。でもお弟子さんたちはこの人たちを叱るんです。イエス様は強くて立派な人だから、小さな子どもや赤ちゃんなんて弱いものはイエス様に合わないって。だから近づくなって。でもイエス様はこのお弟子さんたちを叱って言います。「神の国はこのような者たちのものだ。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、神の国に入ることはできない」。
★世の中では、みんながもっと強く大きくなりたいと思っているけれども、神様の国はまったく反対に、小さな人、弱い人が一番大事にされるとイエス様は言います。だから、僕らも、小さな人、弱い人を、大きな人、強い人よりも前に、一番大事にするのでなければ、神様のそばにはいられないということです。
★それでもきっと神様は、僕らのそばにいて下さるだろう。みんなだれでも、大人でも、神様と比べたら、弱く小さい人だからです。だから、僕らは、自分が強く、大きくなることよりも、自分よりも弱い人、小さな人を大事にすることを、一番に心にとめていきたいと思います。そのとき、きっと、僕らの心の中には、自分が強くなること、大きくなることよりも、もっともっと、本当の嬉しさ、本当の楽しさが、心の中一杯に湧き上がってくるはずです。(「花の日」こどもとおとなの合同礼拝説教より)
by oji-church | 2018-06-20 14:22 | 牧師からのメッセ-ジ
「神様の言葉を生きる」

〈「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。……あなたたちは受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」〉(マルコによる福音書7章8・13節)。

★ここでは、「人間の言い伝え」と「神の言葉」とが対比されています。人は自分が大事にしているものが他の人からも大事にされることを望むものです。それ自体は悪いことではないと思います。けれどもそれが、いつの間にか、「自分が大事にしているもの」ではなく「自分自身」になり、「大事にされる」が、「強く大きく、人を圧倒する立派さを備える」に変わってしまうことがある。宗教というのは、そのように変質してしまう危険をいつも孕んだものなのでしょう。
★神様の言葉って、もともとは、大事なことが、人を問わず、立場を問わず、肩書きを問わず、資格を問わず、地位を問わず、みんなで一緒に大事にされることをこそ、望み求めるものだったのじゃないか。それがいつの間にか、現代の教会でも、地位や肩書きや、立場や資格が問われ、神様の言葉そのものよりも、地位や肩書きや、立場や資格の方が有り難がられる、そんな面もあるのじゃないかと思うのです。
★神様の言葉が呼びかけること、それは大事なことをみんなで一緒に大切にすること。そこには人の大きさや強さや立派さは全く関係ありません。むしろだれもが、それぞれに大きさではなく小ささを、強さではなく弱さを、立派さではなく情けなさを抱えながら生きています。その小ささ、弱さ、情けなさに寄り添うのが神の言葉なのでしょう。神様の言葉は、強く大きく、立派に祭り上げるためのものではありません。神様の言葉は、人を問わず、地位も立場も、資格も肩書きも問わず、みんなで一緒に大切にし、わたしたち自身がそれを「生きる」ためのものなのでしょう。
by oji-church | 2018-06-13 15:08 | 牧師からのメッセ-ジ
「〈聖霊を信じる〉って?」(2)

★人間同士、すぐには理解しあうことは難しい。解りあえず、気持ちがささくれ立ってしまうこともあるでしょう。むしろ現実の人間同士の触れあいでは、そういうことのほうが多いかもしれません。それがあの人ともこの人とも、続き重なれば、人間に対する失望、アキラメ、絶望だけが残ってしまうでしょう。けれども、「いや、人間同士の関係というのは、今目の前にあるものだけで成り立っているのじゃない。わたしたちの目には見えないところで、お互いの心を開き、心と心を結び合わせてくれる力が働いているのだ」と思い直す時、わたしたちには、お互いの心の「ひらけ」を待ち望む希望と忍耐力が与えられます。歯を食いしばって我慢する忍耐力ではなく、「その時」が訪れるのを希望をもって待ち望みながら、いまなすべきことを一つ一つ丁寧に重ねていく、自由な「忍耐力」と言ってもいいかもしれません。時には、その人と一旦距離を置くことが、その時なすべきことであるかもしれません。
★そんな、目に見えないところで、人の心と心とを結び合わせようと働いている神様の力こそが、聖霊ではないのかと思う。それは、教会の中だけで、型どおりの信仰に人を導くためだけに働くのではありません。普段の生活の中で、理解し合うことのできなかった人と、ふと心が重なって想いを分かちあえたと思える瞬間、「ああ、いま聖霊が働いて、僕らを結び合わせてくれた」と感じることがある。大事なのは、いま目の前に見えていることだけ、それに基づく自分の判断や評価だけで、心を満たしてしまうことを止めて、聖霊の働く隙間を残しておくこと、そして聖霊が働くのを待つこと、ではないだろうか。それが「聖霊を信じる」ということではないかと思うのです。
by oji-church | 2018-06-06 09:41 | 牧師からのメッセ-ジ