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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「〈聖霊を信じる〉って?」(1)

★キリスト教の神学では、三位一体と言って、〈父なる〉神様と、その神様の〈子なる〉イエス・キリストと、そして聖霊とが、別々でありつつ、別々でない一人の神、ということになっています。でも、聖霊なるものを、イエス様や神様と同じように、聖霊に向かってお祈りしたり、語りかけたりすることは難しいと思わざるを得ません。なぜそうなのかと考えてみると、聖書を開いても、聖霊が言葉を語っている場面が無いから、かもしません。しかし、キリスト教が聖霊を、〈父なる〉神と〈子〉なるキリストと同じようにわたしたちが仰ぐべき大切なものとして守り信じてきたことを、やっぱり大事なことだと思うのです。
★聖霊というものを神様と同じくらい大切にすることで、わたしたちは目に見えないものを大切にする気持ちを与えられます。そして、目に見えないものを大事に想うことによって、わたしたちの心には、自由と希望とを与えられます。目に見えるものだけを頼りに生きるならば、わたしたちはいま目の前に見えるものに左右され、それに一喜一憂して生きることになります。目に見えるものだけを頼りに生きるならば、いま目の前に生きている人もまた、わたしたちがそれに一喜一憂するばかりの「モノ」になってしまいます。でも、人と共に生きていくということは、いま目の前に見えるだけではない、その人の過去や未来、またその中でその人が思い、感じてきたこと、思い感じていることに、わたしの心を重ねていくことが是非とも必要です。(つづく)
by oji-church | 2018-05-30 17:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「草にすわれば」

〈イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせる様にお命じになった。……イエスは五つのパンを取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配した。すべての人が食べて満腹した〉(マルコによる福音書5章39~42節)。

★王子教会での子ども食堂の目的は、ただ食事を提供することではなく、子ども同士、子どもとおとなの「つながり」を作ることに移り変わってきました。ただお店を開いて食事を提供するだけでは、つながってくることのできない、孤立している子ども達が多く集まってくるようになったためです。「食事をどうするか?」というモンダイは「自分のお腹をどうするか?」というモンダイであり、それは結局「自分をどうするか?」というモンダイに行き着きます。でも本当のモンダイは「自分をどうするか?」ではなく、「つながりをどうするか?」ということではないかと思えてきました。
★イエス様は「飼い主のいない羊のような有様」の人々を、お互いに顔の見える組に分けて、まあるいグループで青草の上に座らせました。そんな顔の見えるつながりそのものが、人を満たす糧(かて)となるのです。八木重吉という人の「草にすわる」という詩があります。「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる」。草の上に一緒に座ると、「自分をどうするか?」に頭が一杯になっていた「わたしの まちがい」に気付かされる。そんな不思議な消息を、聖書はわたしたちに語りかけているように思うのです。
★わたしたちが目に見えない人間同士のつながりを形作っていこうと志す時、わたしたち自身は、十分な「モノ」を持っていないように見えたとしても、実は、このわたしの存在そのものが、人を満たすに十分な糧であり、わたしたちの生きているこの世界そのものが、人を満たすに十分な青草の原なのだということが分かってきます。
by oji-church | 2018-05-23 10:10 | 牧師からのメッセ-ジ
「あなたはわたしの愛する子」

〈イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え〉(マルコによる福音書5章11~12節)〈「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」〉(マルコによる福音書1章11節)。

★わたしたちの日々の生活は、いつもいろんな不安にさらされています。安心して生きていきたいというのは誰しもの願いですが、いろんな不安にさらされる生活の中で、是が非でも自分の安心感を得ようとすれば、自分以外の人と「安心」の奪い合いとなり、やがて人間同士傷つけあい、殺し合いにまで発展してしまうこともあります。
★五千人の人が集まった場で、食べ物がパンが五つと魚が二匹しかなかったとしたら、それは不安極まりない状況でしょう。けれどもイエス様はそこで、パンと魚を手にとって、天を仰いで賛美の祈りを唱えます。この不安極まりない状況の中で、イエス様はいったい何を賛美(=感謝)したのだろうか、不思議に思います。
★福音書の初めに、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、天からこんな声が聞こえてきたとあります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この声は一人イエス様だけが受けた声ではないと思うのです。いまここに生きているわたしたち誰しもが、もうすでに、生まれながらにして神様からこのように、呼びかけられてしまっているということ。それをイエス様はご自身の身を以て、わたしたちに知らせてくれたのです。この神様の呼び声、天から響くその声にむかって、イエス様は天を仰いで賛美の祈りを、感謝の祈りを献げたのではないでしょうか。
★生まれながらのいのちそのものを愛して呼びかけられている神様のこの呼び声を聴き、知っている限り、わたしたちは自分の力でもって自分の安心感を確保しようと、欲望を募らせる必要はなく、むしろ、その代わりに、この神様の呼び声を、分かち合い、互いを愛して呼び掛けあう生き方へと導かれ、遣わされて行くのでしょう。
by oji-church | 2018-05-16 14:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「足のほこりを払って」

〈あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教をした。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。〉(マルコによる福音書5章11~12節)

★ここを読むと、自分を迎え入れてくれない人に向かって、「お前らなど、神様から救ってもらえないぞ」と負け惜しみを言い、後ろ足で砂を蹴って出て行くような姿を想い起こして、あんまり快く読めないできました。確かに、どこかへ出かけていって、そこで自分が受け入れてもらえないという経験は、気分のいい経験ではありません。恨みも残るかも。だけれども、そんな恨みなど、足の裏についた埃のようなものではないか。自分を受け入れてもらえないかった恨みなど、足の裏の埃と一緒に払い落として、顔を上げて、また新しい場所へと遣わされてゆくのだ。そこに神様が必ず新しい道を備えていてくださるのだと、そういう思いを言い表したものではないかと思ってみるのです。
★「宣教」というと、キリスト教に改心する人を生み出して、信徒を増やしていくことと考えられがちです。でも、ここでは信徒を増やすことにはまったく関心が向けられていません。悔い改めるというのは、心の向きを変えるということ。シンプルに、単純率直に生き、自分を迎え入れてくれる人の真心を感謝して受けとめ、一人の裸の人間である自分として、もう一人の裸の誰かと出会い、その人の手を取って語りかけ、その人と触れあい知り合って、そのことが、人が調子を崩している状況から、悪霊を追い出し、病人を癒す働きとなったらいい。そして、自分が受け入れられなかったとしても、足の埃を払って、また前へと進んでいくこと。それが宣教の働きなのでしょう。
by oji-church | 2018-05-08 17:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「平凡な日常の背後には」(2)

★教会では、毎週だいたい見慣れた馴染みの顔に触れます。そのことで安心して気持ちが落ち着くということもあるかもしれません。でもその反面、見慣れ馴染んだ日常の平凡さの中に埋もれて、身体は生きてはいても、心は死んだように固まって動かなくなってしまっているということもあり得るでしょう。そんなわたしたちに向かってイエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と繰り返し繰り返し、呼び返しておられるのだと思います。
★ご高齢で、いま入院をされているある信徒の方が、たびたびにわたって仰っておられた言葉が胸に刻まれています。一日の終わりに、お祈りをして、その日一日のことを思い返すのだそうです。そうして、そこに注がれた神様の守りと導きを思い巡らせるのだと。平凡な日常の中に、神様の働きを、新しく自由なイエス様の教えを、驚きと感謝とをもって見つめ返すことを続けておられたのでしょう。
★わたしたちは皆、ありふれて、見慣れた平凡な日常の中で年を重ねてゆきます。しかし、その見慣れありふれた平凡な日常の中に、その奥底に、見慣れありふれた平凡な日常を越えて、尊くかけがえのない、わたしたちを解放する自由な新しい教え、福音が響いているのだということ。その響きの耳をそばだてて、受けとめて、日々新たにされていく者でありたいと願うものです。
by oji-church | 2018-05-02 09:54 | 牧師からのメッセ-ジ