日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「平凡な日常の背後には」

〈「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。〉(マルコによる福音書6章3節)

★イエス様の故郷ナザレの人々が言ったのは、「イエスというのは、自分たちと何も変わらん、ただの人ではないか」ということです。イエス様の故郷ですから、町の人々は、小さい頃からのイエス様のことをよく知っていたのかもしれません。オギャアと泣いて、お母さんのお腹の中から、裸で生まれてきた、他と何も変わらんただのガキだったではないか。そんなことを言った人いたかもしれません。だけれども、オギャアと泣いて、お母さんのお腹の中から、裸で生まれてきた、ということ、それを平凡でツマラナイことと見るか、いや、そうじゃなくて、それはエライことなんだと見るか、そこに分かれ目があるのではないかという気がします。
★イエス様の語った福音は、普段のありふれた日常の、ツマラナさ、平凡さに埋もれていって、身体は生きてはいても、心は死んだようになってしまいそうになっているわたしたちに向かって、「いやいや、平々凡々に見える普段の日常というのも、実は決して捨てたモンじゃないぞ」ということを伝えるものだったのではないでしょうか。イエス様の宣教の第一声は、こんな言葉で語られていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。わたしたちの普段の日常がどんなに平凡なものであったとしても、わたしたちがいま生きているこの「時」というのは、神様の働きで満たされており、神様の働きは、わたしたちの普段の日常のすぐ傍にあるんだ。悔い改めて(心の向きを変えて)、振り返って見ろ、ということ。心の向きを変えて、振り返って、この福音、嬉しい知らせに心を開こうではないか。これがイエス様が告げ知らせた福音というものでした。(つづく)
by oji-church | 2018-04-25 11:47 | 牧師からのメッセ-ジ
「かすかな声に耳を傾けるイエス様」

〈見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。〉(イザヤ書42章1~4節)

★福音書の中でイエス様が逮捕され、十字架に掛けられ、殺されていく場面を「受難物語」と呼びます。注意して受難物語を読んでいくと、その中でイエス様がほとんど、自分の言葉らしい言葉を口にしていないことに気付かされます。黙ったまま、十字架に掛けられていくイエス様の姿が表しているのは、もしかしたら、人の心の奥底のかすかな声に耳を傾けている姿なのかもしれないと思うのです。
★人誰しもの胸の奥に響いているかすかな声。人に言い表わすことのできない言葉。声にならない声。それは恐らく、傷ついた心の言葉でしょう。傷つき痛んで消えそうになっている心の声でしょう。その傷ついた心を折ることなく、消えかけた心の声を消すことなく、叫ばず、呼ばわらず、巷に声を響かせずに、その胸の奥の声に耳を傾ける者。それこそが、神様の僕、神様によって支えられ、選ばれ、喜び迎えられている神の子の姿なのです。
★子ども食堂で出会う子どもたちが、時折ポロリと心の中にある悲しい言葉、痛む言葉を口にすることがあります。ともすると聞き逃してしまうような小さな言葉です。わたしもしばしばそれを聞き逃してしまうのですが、そんなかすかな声が響く場所に、イエス様は黙ったまま、耳をそばだてて共におられるのではないかと思うのです。
★黙ったまま十字架への道を進んでいくイエス様は、わたしたちの心の奥底に響いているかすかな声に耳を傾け、わたしたちの傷ついた心を傷つき果てることなく、消えかけたいのちの灯火を消すことなく回復させてくれるでしょう。
by oji-church | 2018-04-04 12:40 | 牧師からのメッセ-ジ