日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「〈小さな信〉をつなげられて」

〈ここに12年間も出血の止まらない女がいた。……イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。……「わたしの服に触れたのはだれか」。……女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」。〉(マルコによる福音書5章25~34節)

★神様は、弱く、小さく、惨めに思える者をこそ、敢えて選び分かち、愛して、救いの約束を果たす神様だと、そう信じて生き通されたのがイエス様でした。だから、イエス様は自分の服の裾に誰かが触れた、そのわずかな感触も捨て置くことなく探し回り、見つけ出される。それがイエス様の「信」です。この場面は、そんなイエス様の「信」と、この女性の「あの方の服にでも触れればいやしていただける」と独りつぶやいた小さな「信」とがつながった場面だと思うのです。
★クリスチャン、教会、信仰と言えば、ともすると、強くて大きな「信仰」を持たなければならないと思ってしまいがちです。でもそれは大いなる誤解です。わたしたちは、生まれる前に、この命一つに一つずつ、神様から「信」を与えられています。それは、「わたしのいのちは尊いもの」「わたしのいのちは価値あるもの」という小さな言葉。小さなそれが一つあれば十分です。それがどんなに小さかったとしても、イエス様は必ず、それを感じ受け、わたしたちが、貧しく、情けなく、惨めだと思っているそれを、宝物を探し求めるように探し求め、見つけ出し、わたしたちに近づいて、イエス様の「信」とわたしたちの「信」を繋げて下さる。わたしたちがなすべきことは、その小さなそれを、この女性のように、転げ出るような姿であってもイエス様のまえに、「自分の身に起こったことを、ありのままに」打ち明けることなのでしょう。
by oji-church | 2018-03-29 15:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「苦海浄土」(2)

★(承前)2月10日に石牟礼道子さんが亡くなって、翌日の新聞記事には、こんな言葉が書かれていました。「誰かが苦しんでいる時、相手の気持ちになってもだえ、悲しみながら、ただ見守るだけの存在」のこと、と書かれています。水俣の人たちはこの石牟礼さんのことを、そういう意味を込めて「悶え神さん」と呼んでいるそうです。石牟礼さんは、水俣病を治すことはできません。水俣病になった人たちのことをただ、その気持ちになって、一緒になって悶えて、悲しみながら、ただ見守るだけのことしか出来ませんでした。でも石牟礼さんがそうやって、水俣の人たちと同じ気持ちになって、一緒になって悲しみを共にしてくれたことを、水俣の人たちは本当に有り難いこと、尊いこととして受けとめて、自分たちの心の傷を癒してくれたと言っています。
★「苦海」というのは「苦い海」「苦しい海」、汚されてしまった海、だけれども「浄土」というのは、天国のような清い場所、尊い場所という意味です。汚されてしまった海、その魚を食べて苦しみに襲われてしまった水俣の人たちだけれども、その人たちと同じ気持ちになって、苦しみ、悲しみを分かち合うことを通じて、わたしたちは清いもの、尊いものを与えられるんだ、と、そういう意味が込められているのだと思います。
★聖書の神様は、人の苦しみ、悲しみを、一緒になって苦しみ、悲しむ神様です。わたしたちが苦しむ人と一緒に、同じ気持ちになって、一緒になって悲しみを共にする時、たとえただ傍で見守ることしかできなかったとしても、神様はわたしたちと共にいてくださるのだと思います。そうして、不思議にも、そういうわたしたちの同じ気持ちが、神様を通じて、きっと人の苦しみ、悲しみを癒す力を持つのだと思います。(2月25日教会学校礼拝説教より)。
by oji-church | 2018-03-21 10:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「苦海浄土」(1)

〈乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を描くし、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。……彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた〉(イザヤ書53章2~5節)。

★ここには、とても苦しんでいる人が出てきます。みんなから馬鹿にされ、苦しんでいるのに無視されて、見捨てられてしまう人。しかもこの人は何も悪いことをしたわけでもないのに、です。そんなふうに苦しみたい人っているでしょうか。でも聖書には、この人が苦しんだオカゲで、わたしたちに平和が与えられ、わたしたちは癒された(病気が治った)と書かれています。誰かが苦しんだオカゲで、平和が与えられ、病気が治るんだったら、じゃあ「誰かわたしのために苦しんで! 傷ついて!」って頼むことはできるでしょうか。僕はなかなか、そうは思えません。
★そんなことを考えていた時、ある一人の人のことが思い浮かんできました。石牟礼道子さんという人。2月10日に90歳で亡くなられました。この人は『苦海浄土』という本を書きました。石牟礼さんは、チッソという会社が海に流した毒によって体を冒されて、多くの人が苦しんで苦しんで亡くなっていった、その水俣の人たちの苦しみを見て、心が痛んで、水俣の人たちに代わって、水俣の人たちの言葉で、この水俣の人たちの苦しみや悲しみを、そして、それでも一生懸命に生きる水俣の人たちの姿を文章に書くのです。(2月25日教会学校礼拝説教より・つづく)
by oji-church | 2018-03-14 15:57 | 牧師からのメッセ-ジ
「夜昼、寝起きすることは」(3)

★イエス様は目の前にいる、「生かさず、殺さず、搾り取れるだけ搾り取られる」生活の中で喘いでいる人たちに向かって、それでもあなたたちは意味のない人生を生きているのではないよ、神様の働きと繋がって生きているよ、ツマラナイ人生なんかじゃないよ、神様の喜び、生きていることの本当の意味と喜びを知らされる生き方、「神の国の秘密」を打ち明けられる生き方をしているよと、エールを送ったのではないかと思います。
★今日と明日とを繋いで、夜昼、寝起きして生きる生活。それは、生まれたばかりの赤ちゃんも、お年寄りも、女であっても男であっても、しょうがいがあろうがなかろうが、日本人でも外国人でも、すべて今を生きる人たちが営んでいるいのちの働きです。これを何よりも大切なものとして守り、国同士の「我勝ち」の競争に優って、神様は大きく大きく、その葉陰に空の鳥が巣を作れるほどにも大きくそだてようと、わたしたちのこの小さなからし種のようないのちの一つ一つに寄り添い伴って守り支え、導き、ねぎらい、応援して、働いておられることを心に刻みたいと思います。
by oji-church | 2018-03-07 10:23 | 牧師からのメッセ-ジ