日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「悲しみの力」

〈わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章11節)

★評論家の若松英輔さんがこんなことを語っています。「涙は必ずしも頬を伝うとは限らない。悲しみが極まったとき、涙は涸れることがある。深い悲しみのなか、勇気をふりしぼって生きている人は皆、見えない涙が胸を流れることを知っている」(『悲しみの秘儀』)。
★若松さんはまた、「同じ悲しみなど存在しない」とも言われます。「同じ悲しみなど存在しない。そういうところに立ってみなければ、悲しみの実相にはふれ得まい。同じものがないから二つの悲しいは響き合い、共振するのではないか。独り悲しむとき人は、時空を超えて広く、深く、他者とつながる」。同じ悲しみなど存在しないからこそ、わたしたちは、一人ひとり掛け替えのない存在なのであり、それゆえにこそ、一人ひとり大切に、耳を寄せて一人ひとりの悲しみに聴き、心を寄せ、悲しみを寄せて寄り添い合うことが必要なのです。
★「わたしたちは絶えず、イエスのために死にさらされている」。わたしたちは、それぞれに何かしらその人固有の悲しみを背負って生きざるを得ません。でも、そんなわたしたちだからこそ、イエス様はわたしたち一人ひとりの悲しみに耳を寄せ、心を寄せ、悲しみを寄せて、寄り添い伴って歩んでくれるのでしょう。そのことを覚えるとき、わたしたちの胸の内には悲しみの涙のひとしずくから、生きる力のひとしずくがあふれ出してくる。いや、わたしたちの胸の底の悲しみの涙のひとしずくこそが、生きる力のひとしずくそのものなのです。
by oji-church | 2017-11-29 10:09 | 牧師からのメッセ-ジ
「人々のそばに」(2)

★どこまでも人々のただ中に、人々と共に、人々のそばに居ようとすること。それは確かに麗しいことです。でも、不思議とわたしたちは自分が人間であるにもかかわらず、人々のただ中に、人々と共に、人々のそばにずっと居ることに疲れてしまうことがあります。それはなんでなのだろうかと思うのです。お互いに人間同士であるのに、そのただ中に、人と共に、人のそばに居ると疲れてしまうというのは。
★思うに、人間が一緒にいる時、どういうわけかそこに、ある種の「競争」めいたものがどうしても生まれてきてしまうからではないかという気がします。「自分のほうが上だ」「自分の方が正しい」「自分の方が分かっている」。そんな競争。それは教会の中でも変わりがありません。「わたしの方が信仰深い」という競争。教会ではそれが変な風にねじ曲がって、「わたしの方が信仰が薄い」「いやいや、わたしの方が罪人だ」。そんな奇妙な競争になってみたりもするのですが。そこには人間というものをどうしても上下で考えてしまう心の癖のようなものがあるのではないかと思うのです。自分より上だと思えば持ち上げて、自分より下だと思えば貶める。そんな心の癖です。
★「あなたは神の子です」と言えば、それは確かにイエス様をほめる言葉かもしれません。けれども、それは他方で、人間を上と下とに分けて考えてしまうあのわたしたちの心の癖と、どこかで繋がってもいるのではないでしょうか。
★「あなたは神の子だ」という誉め言葉に対して、イエス様が「いや、自分は神の子なんかじゃない」と言ってそれを退けたのは、そんなふうに人間が人間を上と下とに分けて、やがて競争を演じ始める、そんなわたしたちの心の癖、また生き方の癖を退けたということでもあるのではないかと思うのです。
by oji-church | 2017-11-22 13:04 | 牧師からのメッセ-ジ
「人々のそばに」

〈イエスが多くの病気をいやされたので、、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。〉(マルコによる福音書3章10~12節)

★どうしてイエス様は「あなたは神の子だ」という悪霊の叫びを「言いふらさないように」と厳しく戒められたのでしょうか。イエス様が「神の子」というのは聖書的には決して間違いではないのに。神学では「メシアの秘密」と言って、イエス様が「神の子」であることは、十字架に掛けられて人々の罪を贖(あがな)うまで秘密にされておかれなければならないこと、イエス様の贖いの業を知らないでイエス様を「神の子」と呼ぶのは「間違い」だから、というようなモットモラシイ説明がされるのですが、ナンだかアンマリ、シックリきません。
★こんなふうに想像してみました。病気でずっと悩んできたのが、イエス様に出会って、病気が癒されたのだとしたら嬉しさのあまり、悪霊でなくても思わず知れず、「あなたは神の子です」なんて叫びたくもなってしまうのじゃないかと思うのです。それに対してイエス様は「いやいや、自分は神の子なんかじゃない」と応える、そんな場面が幾つもあったのじゃないか、そんなふうに想像するのです。これは「神の子」イエス様に対する冒涜なのでしょうか。
★イエス様に出会って、病気が癒されて、嬉しさのあまり、飛び上がるように「あなたは神の子です」と叫ぶ人に対して、「いやいや、自分は神の子なんかじゃない」と応えるイエス様。そこには、「神の子」という特別な立場に立って、人々を「救ってあげる」救い主ではなくて、どこまでも人々のただ中に、人々と共に、人々のそばに居ようとするイエス様の姿があったのじゃないかと思うのです。(つづく)
by oji-church | 2017-11-16 12:23 | 牧師からのメッセ-ジ
「民主主義とキリスト教」

★今週末から、北支区の日韓宣教協議会が始まります。主題は「キリスト教と民主主義~敗戦・解放後の歩みのなかで」というものです。韓国では先年、腐敗した政権を市民がデモを繰り広げることによって退陣に追い込んだ「キャンドル革命」が起こりました。一方日本では、数にものを言わせた与党・政府の恣意的な政治が続き、庶民の生活がないがしろにされる一方で、「戦争をする国」への準備が着々と進められています。この違いは一体何なのだろうかと考えるのです。
★韓国では、戦前・戦時下の日本の植民地支配、また戦後の軍事独裁政権の支配に対して市民自らが声を挙げて抵抗し、時の権力を覆して新しい時代をひらくということをしてきた歴史があります。日本ではそのように、一般の市民が自らの手で歴史をひらくということがなかなかできずに来ました。歴史は、力のある者が作った「出来合い」のものを受け取るだけ、という感覚が根強く色濃いのかもしれません。
★昨年、「安全保障関連法案」に反対するデモが路上を埋めていた国会前には、SEALsの若者たちの「民主主義ってナンだ?」「コレだ!」というコール&レスポンスが響いていました。民主主義とは、権力の集中や絶対化を退け、それぞれの小さな個人が能動的な「主体」(コール)となって、「対話と合意」(レスポンス)の下に社会を形作ることでしょう。その根底には、神のみを神とし、神の前での一人ひとりの人間(個人)の自由と平等を受けとめるキリスト教信仰があったことは確かです。
★いま日本の教会は信徒の数が減少する中で、衰退を余儀なくされています。でも、一人ひとりの個人が、生き生きと自由に呼びかけ、応えするなかで社会を形作る民主主義の奥底に、キリスト教の信仰があることを、もう一度教会は受けとめ直す必要があるように思います。このことを教会・キリスト者がしっかりと噛みしめるとき、今の時代の中で、教会は小さくあっても、市民、一般庶民と共に歴史をきりひらいていく大切な一員になることができるはずだと思うのです。
by oji-church | 2017-11-08 11:11 | 牧師からのメッセ-ジ