日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 524 )

「互いに迎え合う教会」(1)

★先週開かれた教会定期総会において、今年度の王子教会の活動方針として「互いに迎え合う教会を形づくろう」という主題を決めました。
★もともと僕自身は、あんまりこうしたスローガンを前面に立てることは、あまりしてきませんでした。と言うのも、こういうスローガンを立てると、立てただけでもう「出来上がった」ような気分になってしまって、結局は「看板倒れ」に終わってしまうことがよくあるからです。
★でも、今回こうして主題を立ててみたのは、このことが教会という場にとって、とても大事なことだからです。
★「迎える」という言葉の中には、いろんな意味が込められています。まず第一に「あいさつを交わす」ということです。教会では「祝福」という言葉がよく使われますが、この「祝福」とは、平たい言葉で言えば、「あいさつ」に他なりません。
★あいさつは、人と人とが争わずに出会ってゆくために、きっと試行錯誤の中から生み出してきたものでしょう。何の気ない普段のあいさつの中にも、「わたしはあなたとは争いたくありません。なぜなら、わたしはあなたが好きだからです。どうか、共に生きる平和な関係があなたとわたしのまわりに形づくられますように」という祈りが込められているのだと思います。
★ですから、「互いに迎え合う教会」はまず、教会で出会う誰とでも、まずは「あいさつを交わす」ことから始めてゆきたいと思います。(大久保)
by oji-church | 2007-05-03 10:32 | 牧師からのメッセ-ジ
「十字架の時」

★受難週となりました。イエス様が十字架に掛けられた殺されたことを思い起こす時です。教会に集うわたしたちも含めて、キリスト教の暦の中でクローズアップされるのは、まず第一にイエス様の誕生を記念するクリスマス、次に、復活を記念するイースターです。イエス様の十字架を覚える時は、あまり世間に目立たない時です。
★けれども、何が一番キリスト教の信仰を特徴づけているかといえば、やはり主イエスが十字架に掛けられた殺された人であるという点でしょう。だからこそわたしたちは、教会の印として十字架を掲げています。
★復活もまた、十字架なしではありえないことでした。またイエス様が泊まるところを持たない夫婦の間に、飼い葉桶の中に生まれたというクリスマスの情景もまた、十字架の受難から見返された誕生の情景と言えるでしょう。
★やはり、他のこの世の価値観とは違うキリスト教の一番大事なところは、主イエスが弱く小さくされた者と共に、弱く小さくされた者として、十字架というこの世の「低み」に立たれたという点にあるのではないでしょうか。
★このことを教会に集うわたしたちがどれだけ心に刻んでいるか、問われる時です。(大久保)
by oji-church | 2007-04-05 14:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「人間のいのちを愛する人間らしさ」

★先週水曜日、日本に来られた難民Fさんの「強制退去」の取り消しを求める裁判の高等裁判所判決がありました。1時15分の開廷の後、裁判官が判決を読み上げました。「主文、原告の請求を棄却する」。以上、終わり。時間にして5秒で終わる裁判でした。
★本人にとっては命からがら迫害から逃がれてきた日本で、必死になって願い求めてきた難民認定です。裁判官といえども、法律の解釈はどうあれ、本人が耐え難い苦悩のうちに置かれていることは、人間として感じ取れるはずです。それを5秒で握りつぶす裁判とは何なのだろう。どこか「人間的な部分」を殺してしまわない限り執り行うことのできない裁判です。
★Fさんは以前こうした日本の難民認定制度や裁判制度を「腐ったショーを見ているみたい」と評していました。今度は「あの人達(裁判官たち)人形みたい…」と裁判後つぶやいていたのが印象に残ります。
★母国政府の残虐を前にして、誰よりも人間の命を愛して、誰よりも人間らしく生きようとしてきたFさんが、ありとあらゆる人間的な希望をはぎ取られていくのを前にして言葉がありませんでした。
★わたしたちは今日本の社会の中で「仲間内」の気安さを守ろうと必死になる中で、何か本当に大切なもの、「人間のいのちを愛する人間らしさ」のようなものを、知らず知らずのうちにどんどんと失っていってしまっているように思えてなりません。
★「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価が支払えようか」(マルコ8:36~)
by oji-church | 2007-03-20 10:29 | 牧師からのメッセ-ジ
「部落解放の集会に参加して」

(今回は、教会員のF・Kさんが、書いてくださいました)

★北支区と東京教区の上記の集会が2週連続で開かれた。
★今まで、社会部主催の集会に参加したことはあったが(北支区常任委員で社会部担当をしていた)、部落解放関係のものには、縁がなかった。
★牧師から「ひだりて」に感想を書いてほしいと依頼されたので寄稿します。
★北支区の集会には教団部落解放センターのメンバーの東谷誠さんという方が、自分の娘の結婚の際のいわれもなき差別にあった話をされた。自分たちは、そのような時、耐えられるかな? と思った。娘さんの歳もわが娘とほぼ同じくらい。身につまされた。ぼくが若かりし頃、フォークシンガー・岡林信康の「チューリップのアップリケ」という歌が、まさに、被差別部落出身者の歌だった。あれから半世紀とまでいかなくても、まったく何も変わらない。あの歌を聞いたとき、いつかそんな差別がなくなる時代がくればいいなぐらいの感想だった。自分ではどうしようもできない差別。自分で、何らかの方法で乗りこえることのできるもので、自分の力不足でできないのなら、あきらめもつく。力をつければいいことなのだから。部落の歴史については、学べば学ぶほど、その形成の奥底には、人間の罪のようなものが横たわっている。そして、大久保牧師の説教を通して、その罪をイエスが生き方を通して負ってくださった。だからイエスを主として告白するということと部落差別をしないということと同じだと思う。社会の不条理なものと闘うことと教会形成とは切り離されるものではないと思う。イエス自身が、命を懸けてそういう社会の不条理と闘った。差別されたものと食事をし、ともに生きたことは聖書の全体の流れ(とくに福音書はそうだ)である。ひとりひとりの心を解放するのが先決で、それから社会の問題を考えるのが教会の本来の姿だという考え方には与したくない。いや、与してはならない。(あまり、ねばならないということばは使いたくないのですが……)。少なくとも、そういうものと闘っている人たちの邪魔はしない。ひとりひとりができる形で、応援したい。
★東京には被差別部落は存在しないという見方がある。でも、東京に被差別部落出身者がいないなんてことは、決してあるわけない。被差別部落という形で見えないだけだ。もし、彼らが、この教会に来られたとき、知らず知らずのうちに、彼らを傷つけてしまうということだって、あるはずだ。見えないだけに、その可能性の方が大きいと思う。まず、教団の部落解放方針を読むことから始めたい。
★大久保牧師が来られて、マルコによる福音書の連続説教を通して、頭の中に「もやもや」と生まれたものが、この二つの集会を通して、いくぶん「スッキリ」したことは確かなことです。
by oji-church | 2007-03-13 17:08 | 牧師からのメッセ-ジ
「時のしるし」

★わたしの母は今年67歳になる、特に政治的なところもないごく普通の主婦でしたが、幼時戦時下にあって空襲の火の海の下を逃げまどった経験から戦争についてはずっと反対の立場です。わたしや姉の小学校卒業式での日の丸掲揚、君が代斉唱についても、反対の意見を学校の先生に申し入れていた記憶があります。やはり戦争を生身で経験した人の思いの中には、戦争に結びつくものへの直感的な嫌悪感が息づいているかもしれません。
★先週、小学校の卒業式で君が代の伴奏を拒否した教諭に対する処分の撤回を求める訴訟が、最高裁で原告側の敗訴によって結審しました。教諭は、君が代が過去の日本のアジア侵略と結びつくものとして、卒業式においてこれを伴奏することを拒否しました。
★さかのぼれば、すぐそこに戦争によっていのちを傷つけられた人がおり、そのいのちの痛みへの反省から歴史を省みて、正しいことと間違ったこととをわきまえていきたいという思いが、そこには息づいています。
★それにもかかわらず、このいのちの声に耳を閉ざして、国の儀礼の秩序を優先してしまうことは、やはりいのちを損なう人間の振る舞いだとは言えないでしょうか。
★「時のしるしを見分けなさい」(マタイ16:1~4)というイエス様の呼びかけは、こうしたいのちの声に耳を傾けなさいということなのではないでしょうか。(大久保)
by oji-church | 2007-03-07 17:40 | 牧師からのメッセ-ジ
M先生のこと

★去る2月15日、わたしが神学校で歴史神学を学んだM先生が天に召されました。昨年秋から入院しておられたことを知らず、その週の週明けに知人から知らされ、折しも15日に病院にお見舞いに行こうとしていた矢先でした。卒業後も先生のゼミに通い、細々ながらキリスト教史の勉強をしていましたが、今年度は教会の都合と重なり出席できなかった、その間の訃報でした。
★わたしに期待を掛けてくださり、卒業時には「これを翻訳しなさい」とドイツ語の教理史の本を手渡されました。最初の内は勇んで翻訳を始めたものの、だんだんと苦痛になり、やがて放り出してしまった。でも卒業から4年ほど経ってから、思い直して少しずつ翻訳を進め、ようやく完成させて先生に原稿を手渡した時には、卒業からすでに7年が経過していました。
★地味な先生でしたが、学生と一緒に学ぶことがお好きで、わたしはこの先生から、キリスト教の歴史を学ぶ意味を教えられました。
★生意気な神学生で「キリスト教の歴史になんて学ぶものはない」と思っていたのが、ひょんなことから歴史神学のゼミに入ることになり、右も左も分からないダメ学生であったにも関わらず、君は歴史を勉強しなさいと教え諭して下さいました。
★キリスト教史を学ぶ中で、そこには「人間の過ち」がうずたかく積み重なっていることを学びました。そして何よりも、同じ過ちを自分自身も犯しいることを学びました。しかし、それにもかかわらず、その歴史を越えて、イエス様の宝のような息づかいが現代に至るまで響いていることを学びました。(大久保)
by oji-church | 2007-02-28 15:59 | 牧師からのメッセ-ジ
「『健全さ』について」

★過日、厚生労働大臣が「女性は子どもを産む機械」と発言したことが話題になっています。大臣は平謝りの姿勢ですが、辞任要求に屈する気配はありません。厚労相はその後、「二人以上子どもを持ちたい」という若者を「健全」と評し、こちらも批判を浴びました。しかしこの批判に対しては「言葉狩り」との反批判もちらほら聞こえます。
★しかし「健全」発言の方が、より注意しなければならないとわたしは考えます。「機械」発言はあからさまに差別を含む発言ですが、「健全」発言は、同じ感覚を温存したまま、オブラートに包んだものと言えます。
★わたしたちは、しばしば自分の感覚・志向に沿って、自分の気に入るものを「健全」と評し、それ以外のものを「不健全」と決めつけるものです。しかし、「健全」とは、英語で言えば「ホール(whole)」という言葉で表されるものでしょう。つまり「全部を含んだ、欠けのない」という意味の言葉です。
★一人一人の人間は完全無欠ではありません。したがって「健全さ」とは、「あらゆる事情を持った人間全体を考慮した……」という意味で用いるべき言葉だろうと思います。
★「健全さ」という言葉を、自分の志向に合った一部の人や状態に用いるならば、それ以外の人や状況をこの世の外に突き落とすことになります。国の意向に沿わない人間をこの世の外に突き落としてしまおうというのは、今の政府が意図していることでもあります。だから厚労相を辞めさせるわけにはいかないのでしょう。
★やれるモンならおやりなさい。でも生命というのは、そんなことで済まされるものではありませんよ。(大久保)
by oji-church | 2007-02-20 14:42 | 牧師からのメッセ-ジ
「『共同体』というもの」

★1月26日(金)夕刻に北支区東京教区問題協議会があり、そこでわたしが発題をすることになりました。わたしたちの教会は日本基督教団という教団に所属しています。それぞれの教会別個に運営したっていいのに、その方が面倒もなく、自由じゃないか、と思われるかもしれませんが、わたしたちは個別の教会だけでなく、多くの教会が集まって「教団」というものを形づくっています(その中に「教区」があり、東京教区の場合、されに「支区」があります)。
★何のためにそうするのでしょうか。教団の規則の中では、「教区」とは「地域共同体」であると言われます。同じ教団や教区の中で、教会同士支え合っていくということ、それが「共同体」ということでしょう。聖書の中には、「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません」(Ⅰコリント12:21)という言葉がありますが、そのように違う者同士が集まって一つの生きた体を形づくるのが「共同体」というものです。
★けれども殊に東京の場合、共に支え合うべき教会同士が、しばしば互いに無関心であることが多いのです。人口が多いせいか、自分の教会だけで成り立ってしまうからです。さもなくば、勢力を持った者が弱い者を支配するという関係に陥ってしまいがちです。
★教会ばかりでなく、いまのわたしたちを取り囲む社会全体が、隣人に対して無関心、という状況でしょう。しかし、教会はイエス様を頭(かしら)として、教会同士互いに違いが有りながらも対等な関係で、しかも無関心ではなく、支え合う関係を形づくるべく呼びかけれている場所です。その中から、本当にわたしたちが「生きる」ということの意味が見いだされるのではないでしょうか。(大久保)
by oji-church | 2007-02-01 10:10 | 牧師からのメッセ-ジ
「ほっとけない!」

★先週、知的なしょうがいを持つ人が、幼児を歩道橋から投げ落とすという痛ましい事件がありました。朝の民放のニュース番組(というかニュースの顔をした「ワイドショー」)で、有名なキャスターが、加害者を罵倒しているのを見て、いたたまれずすぐにチャンネルを変えました。
★加害者は、仕事のプレッシャーから逃れようとして、「悪いこと」をすれば、刑務所に「入れてもらえる」と思って、事件を引き起こしたようです。
★彼が刑務所に「入れてもらえる」ことを願ったことから分かるように、知的なしょうがいを持つ人を取り巻く社会の環境は決して良好なものではありません。差別の壁が依然として厚く立ちはだかっています。
★彼ら・彼女らをケアする人の数も、決して十分ではありません。いきおい、少数のワーカーが多数のしょうがいを持つ人のケアに当たることになり、とても目を行き届かせることのできない人の数を一人のワーカーが看ることになってしまいます。
★ですからこの事件は、この加害者一人の問題ではなく、この社会に生きる一人一人の負っている苦難を「他人事」として通り過ぎ、かえりみない、わたしたち自身の問題、わたしたちの作ってきた社会の責任なのです。
★人の目の中の「小さな塵」を罵倒する前に、自分の目の中にある「大きな梁(はり)」に気付くべきことは、聖書がわたしたちに訴えていることです。
★この事件によって知的なしょうがいを持つ人への締め付けが厳しくなることが無いようにしましょう。折しも先日「教育再生会議」によって学校の先生・子どもたちのへの「締め付け政策」が提言されたところです。このままではやがて、弱い立場に置かれた人から順番に窒息死させられる社会になってしまうことでしょう。(大久保)
by oji-church | 2007-01-23 14:36 | 牧師からのメッセ-ジ
「本当の自分」

★先週8日に王子教会の所属する教団東京教区北支区主催の信徒大会があって行ってきました。主題は「青年と生きる、青年が生きる」という題で、このところ低迷が叫ばれている教会の青年層に関することでした。
★その中で新宿で開拓伝道をしておられる若い牧師さんが語っていたことが印象に残りました。その牧師さんは現代の青年の特徴として、彼ら彼女らの一番の関心が「自分」であることを挙げていました。占いやスピリチュアリティがブームになっているように、若い人たちの関心は、「自分」の過去や将来に深く注がれていると言うのです。
★思えばわたし自身も、思春期に「自分」というものに随分と悩んだものでした。「自分」って何なんだ? と思い悩み、その「自分」を掘り下げて、人と違う「自分」を探し求めては一喜一憂するのです。
★けれど、その果てに知らされたのは、結局「自分」なんて「大したモンじゃない」ということです。そうやって「自分」に思い悩み「自分」に疲れ果てた後に、恐る恐るながらに人と触れ合いながら知らされたことがありました。それは「大したモンじゃない」その自分の存在が、時に不思議にも人から愛されたり、喜ばれたりするということでした。
★「自分」にのみ深く関心を寄せるのは、何も現代の「青年」に限ったことではなく、今の大人たちを見ていても全般的にそういう雰囲気です。それは今の日本全体を包んでいる「気分」のようなものなのかもしれません。
★「本当の自分」というものは「自分」だけを掘り下げてみても、決して出てこないのでしょう。「本当の自分」は自分自身と自分じゃない誰かとの「あいだ」にあるものなのだと思うのです。(大久保)
by oji-church | 2007-01-17 16:10 | 牧師からのメッセ-ジ