日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 524 )

「余計なこと」(3)

★「お前は俺たちの何だ?」。この叫びに対してイエス様は「自分は関係無い」と引き下がるのではないです。「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになった。このイエス様の台詞は一見すると、この「悪霊に取りつかれた人」に向かって叱りつけているように聞こえますが、ちがうんじゃないか。むしろこの人をよってたかって虐めて、排除するあのいじめっ子たちに向かってこそイエス様は言っているんじゃないか。そんな気がしてきました。
★灰谷健次郎さんという児童文学者の『太陽の子』という作品の中には、こんな言葉が出て来ます。「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのではないやろうか」。主人公のふうちゃんという小学六年生の女の子の思いです。「感じて『しまう』」というのは、そうしようと思わなくても、それを「感じてしまう」ということです。そのようにわたしたちのいのちというのは、実は目に見えるわたしたちのこの身体の外にもはみ出して、広がって、人と出会い触れあい、やがて自分のほかの、自分以外の人の「痛み」や「悲しみ」が住むようになる、ということではないだろうか。
★人の「痛み」や「悲しみ」なんて、自分が幸せに暮らすためにはまさに「余計なもの」に思え、そんなものに「手を出すな」「考えるな」と思われるかもしれません。だけれども、わたしたち人間は、自分をはみ出して自分以外の人と出会い触れ合って、お互いにその「悲しみ」や「痛み」を自分の中に住まわせることを通じて、初めて、お互いを理解し合い、お互いを大切な存在、かけがえなく、愛おしいものとして見つけ出すことができるのではないでしょうか。それは決して「余計なもの」などではないでしょう。
by oji-church | 2017-08-18 13:31 | 牧師からのメッセ-ジ
「余計なこと」(2)

〈「ナザレのイエス、かまわないでくれ(お前は俺たちの何だ?―私訳)。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。〉(マルコによる福音書1章24~25節)

★「余計なことに手を出すな」「余計なことを考えるな」。そう叫ばれる社会の中では、必ず犠牲とされる人たちが生み出されます。お金儲けのことだけを考える社会の中で、過重労働で命を奪われる人たちが生み出されています。子ども食堂にくる子どもたちを見ていると、やはりそんな社会の中で犠牲とされ、切り捨てられ、居場所を失っている彼女ら、彼らの密かな、言葉にならない思いが伝わってきます。高齢者も同じように切り捨てられようとしています。沖縄に基地が押しつけられ、原発が地方に押し付けられているのも、やはりそんな社会の中でこそ起こっていることのように思われます。
★「お前は俺たちの何だ?」。この言葉を聞くと「余計なことに手を出すな」「余計なことを考えるな」、そう叫ばれる社会の中で一人の人をよってたかってイジメている、そのイジメっ子に向かって「そんなことをしてはいけない」と注意すると返ってくる台詞、「お前は俺たちの何だ?」「お前には関係無いだろ」。そんな台詞に聞こえてくるのです。この「悪霊に取りつかれた人」は、そんなイジメを受けて、のけものにされ排除されてきた、そんな経験を幾度となく重ねてきたのじゃないか、そんなふうに想像するのです。その内に「お前は俺たちの何だ?」というイジメっ子たちの台詞を自分の胸深くに突き立てられて、いつからか自分の口からその台詞を、自分自身に向かって叫ぶようになったのではないかと。(つづく)
by oji-church | 2017-08-09 10:26 | 牧師からのメッセ-ジ
「余計なこと」(1)

★いま日本では、クリスチャンや教会に集まる人の数が全国的にどんどんと減っています。またそれは日本ばかりの問題でもなく、世界的にクリスチャンの数は減る傾向にあるようです。そういう厳しい状況の中にあって、教会の中では、余計なことには手を出さずに、ひたすらにクリスチャンの数を増やすことを目指して、「伝道」に集中しようという動きが強まっていきます。伝道によって新しく教会を訪れる人が一人でもあることは、この上なく嬉しいことに違いありません。でも、考えて見なければならないのは「余計なことには手を出さずに」というところです。人にキリスト教のことを伝えて、洗礼を受けるまでに人を導くこと、もうそれ以外のことには「手を出さない」「考えない」ということ。信仰告白の文章や、教会の規則に則って、そこからはみださないように、それ以外のことはやらずに、考えずに、ただひたすら洗礼を受ける人を増やしなさいと、そういう動きが強まっていきます。それに従わずに「余計なこと」をやろうとする人は、ルール違反だ規則違反だ、信仰に背く行いだと言って断罪されることになります。それは今に限ったことではなく、明治以後の日本の教会の歴史を見てみると、教会が厳しい状況に置かれるたびに、繰り返しそういう動きが起こってきたことが分かります。
★教会以外の人の集まりでも厳しい状況の中では同じようなことが起こってきます。戦争中の日本の国のありようを見れば、それはすぐに分かります。「欲しがりません、勝つまでは」「進め、一億火の玉だ」「撃ちてし止まん」、そんなスローガンの下に、戦争以外のことは考えるなと教えられたのです。従わない人は「非国民」として断罪されました。長引く不景気の中で、大企業がお金儲けをすることをだけを考えるように、それ以外のことは考えるな、弱く小さな立場にある人間はその犠牲になれ、と言われていて、それに従わない人は、ヘイトスピーチの標的にされてしまう。そんな空気がこの国全体を覆っているように感じられるのです。
by oji-church | 2017-08-02 12:32 | 牧師からのメッセ-ジ
「まっすぐ」

〈イエスは、「わたしについて来なさい。人間の漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った〉(マルコによる福音書1章17~18節)

★イエス様から呼びかけられ、「すぐに」全てを捨てて従うなんてことは、誰にとっても難しいことです。実はこの「すぐに」という言葉は、この福音書を書いたマルコの口癖のようなもので、福音書のいたるところに出てくる言葉です。マルコによる福音書ではしばしば、何か新しいことが起こる時に「すぐに」という言葉が出てくるのです。
★この「すぐに」という言葉、もとは「まっすぐ」という意味の言葉です。わたしたちは日々クヨクヨしたりオロオロしたりしながら、毎日現れてくる新しいことにビクビクと恐れながら、向かっていかざるをえません。聖書が語る「すぐに」というのは、もしかしたら、わたしたち人間の振るまいであるよりも、「わたしについて来なさい」と言うイエス様の向こうから注がれる神様のまなざしを表しているのかもしれないと思うのです。進んでいくわたしたちの生身の姿に「まっすぐに」注がれる神様のまなざしです。
★谷川俊太郎さんの詩に「まっすぐ」という題の詩があります。「キューピッドの矢のように まっすぐ/レーザーの光のように まっすぐ//まっすぐはとどく/まっすぐは貫く/まっすぐは跳ね返る/まっすぐは終わらない//赤んぼの鳴き声のように まっすぐ/玉突きの玉のように まっすぐ//まっすぐを生み出す力は/まっすぐではない/まがりくねり/せめぎあってる」。神様のまなざしは、オロオロし、クヨクヨし、ビクビクしながら曲がりくねった道を歩いているわたしたちに向かって、わたしたちに寄り添って、まがりくねり、せめぎあいながら、それでもいつもまっすぐに注がれているのではないか。そのまなざしを心に刻みながら、クヨクヨ、オロオロ、ビクビクしながらでも、イエス様にしたがって生きる道を、生きてゆきたいと願うのです。
by oji-church | 2017-07-25 13:25 | 牧師からのメッセ-ジ
「不思議な時」

〈時は満ち、神の国は近づいた〉(マルコによる福音書1章12~13節)

★聖書には時を表す言葉が二つあります。一つは数字で表すことのできる「時間」(クロノス)、もう一つは数字では表せない「時」(カイロス)。ここでは「カイロス」が遣われています。
★わたしたちは生きている中で、不思議な「時」を経験することがあります。普段は数字で測られる時の中で、いついつまでにあれをしなくちゃ、これをしなくちゃと慌ただしく生活しています。しかし例えば、親しくしていた人が亡くなった時。その時、わたしたちはその人がもうこの世にいない現実をまざまざと突きつけられて、悲しみに暮れます。だけれどもそれと同時に、その人が生きていた時、あんなことがあった、こんなことを言っていた。そういうことが生きていたその時よりも一層しみじみと、ありありと、掛け替えのない、愛おしいものとして甦ってくることはないだろうか。そういう経験は、わたしたち人間が本当に人間として人間らしく生きて成長していく上で大切な、そして欠かすことのできない経験でありましょう。普段は時計を見い見い、せわしなく生きている。でもそんな数字で測られる時間を生きる中で、あるときふと、過去のなにげない経験が、自分にとって掛け替えなく愛おしい、尊いものとして甦ってくる。そんな不思議な「時」をわたしたちは経験します。聖書の時代の人は時計なんて持っていませんでした。その分、その時代の人たちはそういう不思議な「時」の経験を、わたしたちよりもより敏感に感じ取り、深く胸に刻みながら生きていたでしょう。
★そんな「時」を感じ受けることが、「神の国は近づいた(近くにある)」というこことなのかもしれません。
by oji-church | 2017-07-19 09:20 | 牧師からのメッセ-ジ
「野獣と一緒にいたが」

〈霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒にいたが、天使たちが仕えていた〉(マルコによる福音書1章12~13節)

★野獣は自分のために、人に襲いかかり、爪を立て、食い破って省みないもの。でも実は、人は誰しもが、自分の内に、そんな野獣のような思いを秘めているものではないか。自分のために人を犠牲にして省みない残酷な思い、です。教会では「隣人を愛しなさい」「すべての人の僕になりなさい」と教えられます。野獣などもってのほか。だから表面上は、お上品に、麗しく振る舞うことを身につける。だけれども、この腹の底の野獣は死に絶えたり、どこかへ行ってしまいなんかはせずに、やっぱりそこに居続けるのです。だから、表面上は麗しく振る舞っていたとしても、人に意地悪したり、陰口を叩いたりして、野獣を時々宥め返し、自分を騙して生きている。そんなわたしたちじゃないでしょうか。
★聖書がわたしたちに語るのは、この野獣と闘って打ち勝ち、根絶やしにしてしまえ、ということではありません。聖書が語るのは「野獣が一緒にいたが、天使たちが仕えていた」ということ。自分をだまし、人をだまして、おもてづらだけお上品に、麗しく振る舞うのではなくて、わたしと同じように腹の底に野獣を抱えた人々と出会い、触れあって、時には、少しでも、その人を思って生きること。野獣を抱えていたとしても、掛け替えのない大切な存在なのだと、そう、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神様から呼びかけられた存在なのだと思い返しながら。霊は、この神様の呼びかけをいっそう深くイエス様のいのちに、働きに刻み込むために、イエス様を荒れ野へと放り出したのではないだろうか。
by oji-church | 2017-07-13 11:00 | 牧師からのメッセ-ジ
「やさしいつながり」

〈「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」〉(マルコによる福音書1章11節)

★教会で子ども食堂を始めて八ヶ月になりました。最初はただ子どもを集めて、食事を提供すればそれで済むことと考えていました。けれども、一人また一人と、家庭にも学校にも居場所を持てない子どもたちが集まって来ました。送り迎えをする中で、その子どもたちが、この食堂の場を、自分たちの居場所としてどれだけ心待ちに、楽しみにしてくれているかが、ひしひし伝わってきます。居場所を持たない子どもたち、と言って、じゃあ「居場所」って何なのだろうかと考えます。
★子どもたちは、確かにご飯を食べにやって来るのだけれども、でも求めているのは実はご飯じゃない。子どもたちの様子を見ていると、飢えているのは、何よりも人との「つながり」です。それも「やさしい」つながり。じゃあ、やさしいつながりって、いったいどんなつながりか? それはもしかして、「あなたは大事な存在だよ」という声を、呼びかけを、語りかけを、受け取るつながりじゃないかと思い至ります。子どもたちは、家庭でも、親が病気だったり、忙しかったり、問題を抱えていたりして、その声を受け取ることができずに、やさしいつながりに、ひときわ飢えている。でも子どもだから、それが何なのか、よく分からないし、うまく言えないでいる。そんなふうに感じられます。
★わたしたち人間は、道具として生まれてくるのではないから、何かを求めて生きる。裸で生まれた赤ちゃんの時からずっと、何かを求めて生きている。その裸の存在に向かって、何の条件もなく、無条件に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、「あなたは大切な存在です」と語りかけられる時、はじめてわたしたちは、誰かのために生きることができるようになる、のではないでしょうか。

by oji-church | 2017-07-05 11:29 | 牧師からのメッセ-ジ
「宣教に境界線はありません」

★今年度の王子教会の主題に「神を愛し、人を愛する教会」という言葉を挙げました。その根っこにあるのは、教会の宣教ということを、皆でもう一度考えてみようということです。「皆で」というところが大切な点です。
★教会の宣教を考えるという時には、どこかに境界線を引っ張ってはいけないのだと思います。この人だけが考える。このことだけを考えるというのではいけない。なぜなら教会というのは、神様と出会って神様に繋がっていく場所だから。その神様は、この世界のすべてを造られた神様なのだから。わたしたち一人ひとり、すべての人間を創られている神様なのだから。
★福音書には、様々な人々の生きる姿が描かれています。この世の生活の中で、様々な苦労を負う人、挫折を経験している人、悲しみや痛みを背負う人、高慢な人、イエス様に「わたしについてきなさい」と言われながら、ついていくことができない人。いずれも教会の外で生きている人々の姿です。でも福音書には、その教会の外で、イエス様と出会うことによって、新しい生き方に気付かされていく人たちの姿が描かれています。
★日曜日は教会に行って礼拝に出席する。でも他の日は神様のことも、イエス様のことも忘れて、この世のものの見方、考え方にすっかり浸って生活している。それではキリスト者である意味も、甲斐も無くなってしまいます。教会で神様と、イエス様と出会い、その神様・イエス様との出会いを携えてこの世に出て行き、そこでの様々な人との出会い・触れあいの中にまた、神様・イエス様との出会いを見出して、また教会に戻ってきて、神様に、イエス様に感謝を献げる。それがキリスト者としてのわたしたちの生き方ではないかと思います。
by oji-church | 2017-06-28 13:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「いのちをわけあえば」

〈自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな〉(マルコによる福音書2章5から6節)。

★『世界がもし100人の村だったら』という本には、こう書かれています。「村に住む人びとの100人のうち、20人は栄養がじゅうぶんではなく、一人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」。いま世界の人口はだいたい70億人です。計算すると14億人は栄養が十分じゃない。7千万人は食べるものが無くて死にそうです。でも10億人くらいの人たちは食べ物が有り余っています。
★わたしたちは結構、食べ物を食べないで捨ててしまったり、残してしまったりしていますよね。食べ物が余っている人がいるいっぽうで、食べるものが無くて、死にそうになっている人がいるのが、いまわたしたちの生きているこの世界です。
★日本でも、6人に1人の子どもが「貧困家庭」といわれます。日本の場合は、「今日食べるものがない」わけではないかもしれません。けれども、他の友だちと同じように、学用品を揃えたり、習い事をしたり、上の学校に進学したり、着るものや食べるものを選んだりすることができません。それでいじめられたり、ひとりぼっちにさせられたりしてしまう子がいます。そんな国の中にわたしたちはいま、生きています。
★そんな世界に生きているわたしたちに向かってイエス様は「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むのをやめなさない」と言われるのです。食べ物や着るものを選べない人がいる時、持っている人が、持っていない人と分け合ったとしたら、もしかして、みんなが生き生きと生きることができるようになるんじゃないか。「自分の命」「自分の体」「自分の食べ物」「自分の飲み物」「自分の服」、自分自分自分。わたしたちは結構いつも、自分のことばかり考えて生きています。だけれども、自分のことばっかり考えるのはやめないかい? そうイエス様は言っているのじゃないかと思うのです。(6月11日「花の日」こどもとおとなの合同礼拝説教より)
by oji-church | 2017-06-20 16:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「聖霊が語らせる言葉」

〈エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった〉(使徒言行録2章5から6節)。

★「信心深い」という言葉は、もともと「よく受けとめる」という意味。相手に対して「しっかり丁寧に心遣いをする」というような意味です。そういう人たちが集まって来て、「自分の言葉」(「自分の故郷の言葉」とありますが、もとのギリシア語の原文には「故郷」という言葉はありません)が話されているのを聞いたということです。
★「相手に対してしっかり丁寧に心遣いをする人たち」が、「自分の言葉」が話されているのを聞いたということ。いま、戦争が平和と言い換えられ、支配と監視が安全と言い換えられ、搾取が自由と言い換えられ、いろいろな言葉が正反対の意味に使われて、嘘がまん延して、現実が歪められている世の中にあってそれは、問いかけ、答えて、理解し合う。語りかけ、聞き受けて、共感する。そのようにして、現実の、いま目の前に現に生きている人と出会って共に生きる、そういう言葉本来の役目をきちんと果たす、丁寧な言葉が交わされた、ということではないかと思うのです。
★目の前に現に生きている人と出会うことが、とても難しい時代にわたしたちは生きています。だれもが人と出会うことよりも小さなスマホの画面に夢中になっています。自分だけの世界に浸ることが多くなれば、その分、現実のほうはどうでもよくなっていきます。実際の現実の方はいま、国々の指導者の得手勝手が大手を振って闊歩するようになっていて、世界は戦争へとまっしぐらに突き進んでいるように思えてなりません。そういう時代の中で、相手に丁寧に心遣いをし、互いに問いかけ答えて理解し合う。語りかけ聞き受けて共感する。そうして現にいま目の前にいる人と出会って共に生きる道筋を形作っていく。それが、聖霊、神様の霊がわたしたちに語らせる言葉なのでしょう。

by oji-church | 2017-06-14 13:48 | 牧師からのメッセ-ジ