人気ブログランキング |

日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 576 )

天使の翼は生えているか(2)

★人間の幸福といってしかし、それは別に富を蓄えて裕福にはぶりよく生きるなんてことではありません。人間というのは、聖書にもありますが、たった一杯の冷たい水にも、あるいはたった一杯の温かい飲み物にも、無上の喜びを感じることができるものです。そのようにささやかな、小さな物事に、こちらが計り知れない大きな喜びを受けとめて、それによって生きる痛み、苦しみ、悲しみの挫折からよみがえり、もう一度立ち上がって人間らしく生きていくようになる、そんな人の姿に幾度も出会い、触れさせていただいてきました。

★「復活はある」というのは、そんな幸福というものに向かっていこうとする、人間のささやかな願い、希望の切なる積み重ね、その一つ一つの先に思い描かれたものではないかと思うのです。聖書が語るのは、神様はその人間の幸福へと向かおうとするささやかな、切なる願いに、きっと応えて、祝福し、守り支え、導き、救い出すのだと、そのことを伝えるためにイエス様をこの世に送られたのだということです。

★生きているということは、現実の制約の中で、ルールに沿って独りで決まった道を進むことではなく、人間同士、出会い、触れ合い、感じ合いながら共に生きることです。

★わたしたちがいまここに生きているということ自体、もうすでに、ルールを越え、現実の制約の壁を越え、死をさえ越えて羽ばたき、出会い、共に生きることのできる、天使のように自由な翼あるいのちを与えられているということなのです。

★ご自分の背中に天使の翼が生えているのが見えるでしょうか。ルールを越え、現実を越えた想像力が必要です。お互いがお互いにとって、天使のような存在であることを見いだしつつ、出会い、触れ合い、感じ合って、ルールを越えて、現実の冷たさを越えて、死をさえ越えて、共に生きゆくものでありたいと願うものです。


by oji-church | 2019-04-10 17:35 | 牧師からのメッセ-ジ

天使の翼は生えているか(1)

〈あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ〉(マルコによる福音書12章24節)

★牧師という役目を負いながら、幾人かの方々を看取ってきました。しかしどんなに寄り添おうとしても、死を越えてその向こう側まで寄り添うことはできません。その方が息を引き取られれば、すぐにご葬儀の手配やら準備やら実際的な作業に切り換わるというのが牧師という仕事の性分です。その傍らで感じていたのは、死というものの「絶対的な冷たさ」でした。人のいのちは死ねば、もうそこで終わりなのだ。それはもうどうすることもできないのだ。そういう死というものの厳然たる事実を冷静に受けとめることが大切なのだ、と、そんな声がわたしの胸の内にこだましていました。

 けれども人間というのは、どれだけ現実が厳しく冷たいものであったとしても、それでもなお、その冷たい現実を越えたところにある「幸福」というものに向かって思いを巡らし、想像の翼を羽ばたかせてきたのではないだろうか。その中から、一人ひとりの人間が幸せに生きる、つまり、ほんとうに人間らしく生きるという営みも、一歩一歩形作られてきたのじゃないだろうか。そうであるならば、それがどんなに非現実的な想像であったとしても、それを嘲ることは、やっぱりよくないことなのじゃないだろうか。そんなふうに思うようになりました。(つづく)


by oji-church | 2019-04-04 17:12 | 牧師からのメッセ-ジ

神の言葉に導かれつづける

★3月11日に王子教会員であられたKさんが天に召されました。16日に浦和の葬祭場にて大久保の司式により告別式を執り行いました。Kさんは、1950年に当時王子神谷にあった王子東教会において藤城安治牧師より洗礼を受けられました。その後、藤城牧師のご都合により王子東教会が解散することとなり、1952年に、Sさん(故人)やHさん(故人)等とともに、王子教会に転会されました。その後、ご結婚、お子様も生まれて浦和に転居され、教会も浦和東教会に転会されました。2001年に、Sさんの導きにより再び王子教会に転会をされました。学生時代には学生YMCAの活動にも熱心に参加されたそうです。

★王子教会に転入されたときの立証の文章には、受洗時に王子東教会から「我らの救主イエス・キリストの新約聖書」と銘打たれた聖書を送られたことが記されています。今回ご葬儀の準備の中で、ご遺族からその聖書現物が残されていることを知らされました。それは縦10×横7〜8センチ程の携帯用の小さな聖書でした。表紙の革張りは擦り切れてゴワゴワと毛羽立っていて、この聖書がただ置いておかれたのではなく、いつも身につけて用いられていたことを伝えています。中を開くと極小の活字が並ぶ中、そこここに折り目や傍線、書き込みが見られます。ご遺族によれば、しばしば胸のポケットからその聖書を取り出して読んでおられたとのことです。

★ご遺族にしたためていただいたKさんの思い出には、こんなことが語られていました。「子供達が小さい頃や孫達が小さい頃、クリスマスには自宅に子供たちをよび、聖書の朗読や讃美歌を歌ったりしていた」。これを読んで、Kさんの中に聖書の言葉がずっと息づいておられたことを知らされました。受洗後、三度教会を変わるという変転を経られたKさんでしたが、その間、実直に変わることなく神様の言葉に導かれつづけられた方であったことが偲ばれます。


by oji-church | 2019-03-28 13:08 | 牧師からのメッセ-ジ

ほんとうの自由

★東日本大震災、東京電力福島第一原発事故から八年の月日が経ちました。いま、福島の帰還困難地域を車で通れば、家や道路があっても人影はなく、伸びた草が家々を飲み込もうとしている光景に息をのみます。福島第一原発の脇を通って福島の浜通りを縦断する国道六号線を通れば、町への入り口となる角には厳重にフェンスが張られています。わたしたちが暮らすこの国の一角でいまも続いているありようですが、普段わたしたちがテレビ等でそれを目にすることはほとんど無くなりました。代わりにテレビに映されるのは、オリンピック、天皇の代替わりといった華々しい事業とお祝いムード。原発の再稼働が進められています。避難指示が続々と解除され、避難している被災者への補償や住宅の無償提供などが打ち切られています。オリンピックをゴールとして、あの地震、原発被災を終わったこと、なかったことにすらしようとしているこの国の姿が浮き彫りになります。

★「復興」の名の下に大きく華々しいものが次々建設され、動かされていく一方で、この社会は、小さくて目に見えない、しかしわたしたちが生きていくために欠かすことの出来ないもの、それはあの震災や原発事故で、大きな代償を支払いながらわたしたちに示されたものだったのに、それをいま、次々と壊していっているのではないかという気がします。

★人間は地球上でもっとも知恵ある者として発展してきました。知恵が人間に自由をもたらし、その自由によって人間は欲望を際限なく膨らまし、それを満たしてきました。でも人間のその自由がいま、この世界を壊し、命を壊し、人間自身の命も壊しています。果たしてそれはわたしたちにとってほんとうに「自由」なのでしょうか。人間にとってほんとうの自由とは何なのか、そういうことを改めて考えなければならない時代に、わたしたちは置かれていることを思います。


by oji-church | 2019-03-20 14:22 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(3)

★人がこの世に生きる中で、わたしたちは必ずしも思った通りに生きることができるわけではありません。不意の病いやしょうがいを負い、様々な失敗や挫折を経験しながら、わたしたちは思い通りにならない人生を生きていかなければなりません。そこにわたしたちの生きる苦しみがあります。でも、そんなさまざまな苦しみに彩られたわたしたちの人生にあっても、なお残される希望があることを聖書はわたしたちに告げています。それは「出会う」ということではないかと。

★互いに生きる苦しみを背負ったわたしとあなたが出会う。それでは何の救いもないと思われるかもしれません。だけれども、その苦しみを、今日のこの場面で人々が叫ぶバルティマイを叱りつけたようにそれを追い払うのではなくて、わたしたち一人ひとりが生きる中で抱える苦しみに目をこらすとき、そこに命の深い深いところから響く声をわたしたちは聞くのではないでしょうか。「わたしを憐れんでください」「わたしの心の隣に寄り添ってください」「わたしのこの気持ちを感じ受けてください」、そして「見えるようになりたいのです」と呼びかける声をです。その声によってわたしたちは導かれて、出会い、共に感じ、共に生きる者として結び合わせられていくのでしょう。実は、そんな苦しみから響く声に導かれてわたしたちが互いに出会っていくことこそが、イエス様に従うということ、イエス様を信じるということ、信仰を持つということなのではないでしょうか。


by oji-church | 2019-03-13 10:16 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(2)

〈イエスは立ち止まって、「あの男を呼んできなさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。〉(マルコによる福音書10章49〜52節)

★イエス様は「立ち止まった」と言われます。「彼を呼んできなさい」と言われました。呼ばれた彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエス様のところにやってきました。もしかして彼は、生まれて初めて自分の願いや希望を受けとめられるという経験をしたのではないでしょうか。それがこの喜びように現れている気がします。

★イエス様は彼に問います。「何をしてほしいのか」。これももしかしたら彼が生まれて初めて経験したことだったかもしれません。自分の願いや希望を尋ねてもらうという経験です。彼は自分の声を上げます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。これもまた彼にとって初めての経験だったのではないでしょうか。自分の願いと希望を声に出して人に告げるということです。この時点ですでに、彼は救われているといってもいいのかもしれないと思うのです。

★それまで道ばたに「モノ」のように放り置かれた彼が、自分の願いと希望を受けとめられ、その願いと希望を問い尋ねられ、そしてその願いと希望を自分の口で声に出して人に告げる。そのことによって彼は、奪われていた人間性を取り戻したのです。それは、イエス様とバルティマイとの出会いの中で起こったことで、イエス様が彼を一方的に「救ってあげた」のではありません。だからイエス様は言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。(つづく)


by oji-church | 2019-03-06 11:21 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(1)

〈バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。〉(マルコによる福音書10章46〜48節)

★「憐れむ」という漢字は「心」に「隣り」と書きます。聖書のギリシア語でもこの「憐れむ」という言葉は「同情を懐く」というような意味の言葉です。「憐れむ」も「同情」も最近の日本語の語感としてはあまり良い感じがしませんが、もともとは「同じ気持ちになる」という意味です。最初バルティマイは、いつものようにお金を乞うときの決まり文句として「わたしを憐れんでください」と言っていたのかもしれません。けれども人から叱られてもそれでも止めずに繰り返し叫んでいるうちに、それはいつもの文句であることを越えて、もっともっと深い思いがこもるようになっていったのではないかと想像するのです。「わたしを憐れんでください」「わたしの心の隣に寄り添ってください」、そして「わたしと同じ気持ちになってみてください」と。

★しょうがいを負うがゆえに一人前の人間と見なされず、生きていく上で当たり前の願いや希望を持った一人の人間として生きることを許されず、自分の命の主役として生きることを許されず、人々が普通に歩く道の上を歩くことを許されず、道ばた、道の脇に座り、あたかもそこに放り置かれた命のない、心を持たないモノのように、かすかに生きることだけを許された自分、このわたしのこの気持ちを、どうか感じ受けてほしいと、あなたがダビデの子、ナザレのイエスだと言うのなら。そんな願いになっていったのではないだろうか。この「わたしを憐れんでください」という叫びは。

★イエス様は、そんなバルティマイの深い深いところから湧き上がってくる叫びを聞いたのではないでしょうか。


by oji-church | 2019-02-26 16:39 | 牧師からのメッセ-ジ

「主役」はだれ?(2)

★(承前)「あなたがたの中で大きな者になりたいと思う者は、あなたがたに仕える者になり、あなたがたの中で第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい」。支配者が主役ではなく、主役は人々なのです。

★イエス様は、長年出血の止まらなかった女性と出会い、彼女に「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて彼女を生きる主役としました。中風で動けなかった人に「あなたの罪は赦される」と語りかけて、彼が自分の人生を生きる主役とされました。シリア・フェニキアで、自分の娘を手当てしてもらおうと「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」と主張した女性に「あなたの言葉通りだ」と語りかけ、彼女を主役とした。イエス様の周りから追い払われようとした子どもたちを真ん中に立たせ、あるいは抱き上げて「神の国はこのような者たちのものである」と語って、子どもたちを主役にしました。イエス様の働きは、一人一人の人間が自分らしく生きて、自分の人生の主役となることができるように、人々を導き解放する働きでした。そこにはイエス様が一人ひとりの人の、その人固有のいのちのありよう、姿に注ぐ愛がありました。

★そうした人をその人のいのちの主役に据えようとするイエス様の働きが、支配者が支配し、権力者が自分のために権力をほしいままにする当時のローマ帝国が支配する社会とぶつかって、イエス様は「祭司長や律法学者たちに引き渡され、死刑を宣告され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて、殺される」ことになりました。けれども、そのイエス様の姿は決して自分一人が犠牲になればいいということではなく、あくまで一人ひとりの、その人固有のいのちのありようを愛して、その人をいのちの主役に据えようとするイエス様の働きの末のことだと思わなければならないでしょう。誰かが犠牲になればいいということではないのです。


by oji-church | 2019-02-20 10:03 | 牧師からのメッセ-ジ

「主役」はだれ?

〈諸民族の第一人者と見なされている者が彼らを支配し、その中の大きな者たちが彼らに対して権力をほしいままにしている。しかし、あなたがたにおいてはそうではない。あなたがたの中で大きな者になりたいと思う者は、皆に仕える者になり、あなたがたの中で第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい〉(マルコによる福音書10章42〜44節・私訳)

★この言葉の前半が表しているのは、当時のローマ帝国の支配をです。ローマ帝国には第一人者つまり皇帝がいて、諸民族を支配し、また皇帝のもとには元老院という組織があって、大きな者たち、つまり元老たちが権力をほしいままにしていました。イエス様の故郷であるガリラヤもエルサレムのあるユダヤも、いずれもこのローマ帝国の支配の中に組み込まれていました。しかし、イエス様は「あなたがたにおいてはそうではない」と言われます。新共同訳聖書では「あなたがたの間ではそうではない」と訳されていますが、「間」という言葉は余計です。こうして教会で聖書を読み「あなたがたの間では」と言われると、教会のいわゆる「兄弟姉妹」、「クリスチャンの間では」という意味に取られてしまいがちですが、クリスチャンであるか否かにかかわらず、人間誰しも本来の姿ではそうではないはずだ、という意味で語られています。人間本来の姿にあっては、支配者が人々を支配し、偉い人たちが権力をほしいままにするなんてことにはならないはずだ。そういう人間本来の自由と平等をここでイエス様は宣言しているのです。

★後半の言葉でイエス様は、そうしたローマ帝国の支配のありようをあからさまにひっくり返して語ります。「……大きな者になりたいと思う者は、皆に仕える者になり、……第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい」。この言葉は、国家転覆罪に問われてもおかしくない言葉なのです。(つづく)


by oji-church | 2019-02-12 17:16 | 牧師からのメッセ-ジ

途方に暮れれば(2)

★(承前)「誰もが神の国に入るのは難しい」。そう言ってみて、イエス様は途方に暮れたのではないでしょうか。弟子たちもまた、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに顔を見合わせながら、途方に暮れたことでしょう。ここでもう一度、イエス様は「彼らを見つめて」と言われています。伝道師に失敗して、自分を慕って福音を求めてやってきた人を、悲しみながら立ち去らせることしかできなかった自分の情けなさ、ふがいなさ、悲しさを、弟子たちにも分かち持ってもらって慰めてもらいたかった。でも弟子たちは全然イエス様の悲しみなんて気づかずにお構いなしでした。でもいまここで、途方に暮れているというただその一点では、イエス様と弟子たちは同じ姿をしています。このとき、イエス様のまなざしも、弟子たちのまなざしも、同じように宙をさまよっていたのじゃないだろうか。いや、宙をさまよっていたのではなくて、空を見上げていたのかもしれません。イエス様は弟子たちを見つめ(この弟子たちに注がれたイエス様のまなざしは、あの金持ちといわれた人を慈しんで見つめたのと同じまなざしだったでしょう)、言われます。「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもできるからだ」。

★やはり最後には神様に委ねていくしかないのです。この点でイエス様も弟子たちも同じところに立っています。結局、この「同じところに立って、共に天を仰ぎ、『人間にできることではないが、神にはできる、神には何でも出来るからだ』と、神様に委ねていく」ことこそが、実は「永遠の命を受け継ぐ」ことなのではないでしょうか。


by oji-church | 2019-02-06 15:48 | 牧師からのメッセ-ジ