日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 536 )

「天に触れる。隣人に触れる。」

〈イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、「エッファタ」(開け)と言われた。すると、たちまち耳が開け、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。〉(マルコによる福音書7章33~35節)。

★イエス様はしばしば「天を仰ぐ」という仕草をしています。わたしたちがいま、空を仰いで見ても、何も無いと思われるかもしれません。手を精一杯空に向かって伸ばしても、空に触れることはできません。でも、わたしが手を伸ばして届くところを越えたところに、神様がおられる。その希望が向こうから、空のかなた、天のかなから、わたしたちのもとを訪れるのだと。イエス様はまさに、そのように思って、天を仰いだのではないでしょうか。その希望を胸一杯に吸い込むように、深く息をついて、「エッファタ」「開け」と囁いた。
★わたしたちの手は、天には届きません。だけれども、わたしたちが隣り合って生きている隣り人には触れることができます。わたしたちが神様から求められていることは、この隣り合って生きる人に「触れる」ということなのではないかと思うのです。イエス様は、「よし、わしは神の子だから、お前、治してやる」なんてことは言いませんでした。ただ手当てをしたのです。隣り合って生きている人の悲しみ、嘆き、痛みに向かって、精一杯手を伸ばして、自分にできる限り、傍近くに寄り添って、手当てをした。そうして、天には届かない自分の手だけれども、その天を仰いで、その天の彼方から訪れる希望を、胸一杯に吸い込んで、「開け」と願った。わたしたちもまた、天には届かない手を、隣人に触れて、寄り添って歩むことが神様から求められていることなのではないでしょうか。
by oji-church | 2018-07-11 15:26 | 牧師からのメッセ-ジ
「下からの声」

〈「子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます。」〉(マルコによる福音書7章27~28節)。

★「子犬」とイエス様によって嘲られたこのシリア・フェニキア出身の女性は、「食卓の下」。その貶められた場所から、それでも食卓の下に置かれた者であっても、「子犬はパン屑はいただく」、人は生きるに値する糧と権利を持っているのではないかとイエス様に問い返しました。先週の説教でこうお話ししました。「すべての人は清い存在」。これが福音のメッセージです。食卓の上で食事をしている者は、このことを当たり前のことのように思って忘れてしまっています。だけれども食卓の下に、蔑まれ、貶められた人にとっては、この当たり前のことを当たり前に生きるということが、やむにやまれず探し求め、せつに願い求める悲願なのです。「すべての人は清い」ということが、どれほど尊いことなのか、どれほど価高いものなのか、蔑まれ、貶められた人こそが深く、深く知り得ているのです。このテーブルの下からの声を聞いて、イエス様はそこで初めて、自分が語った「すべての人は清い」という福音の尊さ、価高さを教えられ、噛みしめたのではないでしょうか。
★「それほど言うなら、よろしい」。もとのギリシア語の原文を読めば、こんなエラそうな、上から目線の言い方はしていないのです。「あなたのその言葉のゆえに」と書かれています。この女性の食卓の下からの、蔑まれ、貶められる中から「すべての人間は清い」という宣言の尊さ、価高さを深く知り得て、それを切望するこの女性の下からの声を受けて、イエス様は「ほんとうにあなたの言う通りだ」と応えたのです。イエス様は、自分の中から出て来た人を汚すものを、この女性によって清められたのです。「家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から、もう出てしまった」。帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。この女性の「すべての人は清い」とされることへの切なる愛が、イエス様を清め、そして子どもをも癒したのでしょう。
by oji-church | 2018-07-04 09:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「自分の中から出てくるもの」

〈外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである〉(マルコによる福音書7章15節)。

★この言葉をこんなふうに言い換えてみます。「自分以外の人が、自分を汚すことはできない。自分自身の中から出てくるものこそが自分を汚すのだ」と。多くの人は、差別は良くないことだと思っています。その一方で、思いがけないところで、自分でも意識しないところで、わたしたちは、自分とは違うところを持つ誰かを、自分よりも劣った者と思い込んでしまう心の癖のようなものを持っています。これは、社会に染みこんでいる人を優劣づける価値観に影響されてのことなのですが、そこに浸かっていると自分では気付くことが難しいのです。でもやっぱり多くの人は差別は良くないことと頭では分かっている。それで、人を蔑むようなことを言ったり、やったりしながら、「自分は差別などするはずがない」と、自分の振る舞いが差別であることを強く打ち消すのです。
★差別が「いけない」のは、それが世間一般に「いけないこと」と言われているからではありません。差別が「いけない」のは、それが人を傷つけ、人の心を傷つけ、人の尊厳を、その人が「自分は生きていていい」と思える思いを傷つけ、さらにはその人のいのちを傷つけ、人のいのちすら奪ってしまうものだからです。そうして差別は、それをすることによって、わたしを、人のいのちを奪う存在にしてしまいます。差別は、わたしがそれをすることによって、そのようにしてわたし自身を汚すのです。
★わたし自身の中から、人のいのちさえ奪うものが出てくる。そのようにわたし自身を汚すものが出てくる。そう思ってみる時、そんな自分自身を振り返り、省みて、もう一度正していこう、正していきたいという思いが浮かび上がってくる、のです。「自分は差別なんかしない」という表面の取り繕いではなく、自分自身の心の深いところ、自分自身の魂を見返して、もう一度これを、神様が創り授けて下さったそのままのもの、そのままの姿を見つけ出していこうとする気持ちです。
by oji-church | 2018-06-27 14:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「小さな人、弱い人が一番大事にされる場所」

〈子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。〉(ルカによる福音書18章15節)。

★子どもの頃は、周りじゅうコワイものだらけで、早く大きく強くなりたいと思っていました。思っていたら、だんだん大きくなりました。そうしたらコワイものも少なくなりって、強く大きくなる自分が嬉しくなりました。「オレはあの子よりは強い」。強い自分を確かめたくて、あの子にイタズラしたり、嫌がることをしても「オレは平気だ」。だって「オレはあの子より強いから」。これが始まり。「いじめ」の始まりです。
★イエス様のところに、お母さんやお父さんたちが、小さな子どもや赤ちゃんを連れてきました。でもお弟子さんたちはこの人たちを叱るんです。イエス様は強くて立派な人だから、小さな子どもや赤ちゃんなんて弱いものはイエス様に合わないって。だから近づくなって。でもイエス様はこのお弟子さんたちを叱って言います。「神の国はこのような者たちのものだ。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、神の国に入ることはできない」。
★世の中では、みんながもっと強く大きくなりたいと思っているけれども、神様の国はまったく反対に、小さな人、弱い人が一番大事にされるとイエス様は言います。だから、僕らも、小さな人、弱い人を、大きな人、強い人よりも前に、一番大事にするのでなければ、神様のそばにはいられないということです。
★それでもきっと神様は、僕らのそばにいて下さるだろう。みんなだれでも、大人でも、神様と比べたら、弱く小さい人だからです。だから、僕らは、自分が強く、大きくなることよりも、自分よりも弱い人、小さな人を大事にすることを、一番に心にとめていきたいと思います。そのとき、きっと、僕らの心の中には、自分が強くなること、大きくなることよりも、もっともっと、本当の嬉しさ、本当の楽しさが、心の中一杯に湧き上がってくるはずです。(「花の日」こどもとおとなの合同礼拝説教より)
by oji-church | 2018-06-20 14:22 | 牧師からのメッセ-ジ
「神様の言葉を生きる」

〈「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。……あなたたちは受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」〉(マルコによる福音書7章8・13節)。

★ここでは、「人間の言い伝え」と「神の言葉」とが対比されています。人は自分が大事にしているものが他の人からも大事にされることを望むものです。それ自体は悪いことではないと思います。けれどもそれが、いつの間にか、「自分が大事にしているもの」ではなく「自分自身」になり、「大事にされる」が、「強く大きく、人を圧倒する立派さを備える」に変わってしまうことがある。宗教というのは、そのように変質してしまう危険をいつも孕んだものなのでしょう。
★神様の言葉って、もともとは、大事なことが、人を問わず、立場を問わず、肩書きを問わず、資格を問わず、地位を問わず、みんなで一緒に大事にされることをこそ、望み求めるものだったのじゃないか。それがいつの間にか、現代の教会でも、地位や肩書きや、立場や資格が問われ、神様の言葉そのものよりも、地位や肩書きや、立場や資格の方が有り難がられる、そんな面もあるのじゃないかと思うのです。
★神様の言葉が呼びかけること、それは大事なことをみんなで一緒に大切にすること。そこには人の大きさや強さや立派さは全く関係ありません。むしろだれもが、それぞれに大きさではなく小ささを、強さではなく弱さを、立派さではなく情けなさを抱えながら生きています。その小ささ、弱さ、情けなさに寄り添うのが神の言葉なのでしょう。神様の言葉は、強く大きく、立派に祭り上げるためのものではありません。神様の言葉は、人を問わず、地位も立場も、資格も肩書きも問わず、みんなで一緒に大切にし、わたしたち自身がそれを「生きる」ためのものなのでしょう。
by oji-church | 2018-06-13 15:08 | 牧師からのメッセ-ジ
「〈聖霊を信じる〉って?」(2)

★人間同士、すぐには理解しあうことは難しい。解りあえず、気持ちがささくれ立ってしまうこともあるでしょう。むしろ現実の人間同士の触れあいでは、そういうことのほうが多いかもしれません。それがあの人ともこの人とも、続き重なれば、人間に対する失望、アキラメ、絶望だけが残ってしまうでしょう。けれども、「いや、人間同士の関係というのは、今目の前にあるものだけで成り立っているのじゃない。わたしたちの目には見えないところで、お互いの心を開き、心と心を結び合わせてくれる力が働いているのだ」と思い直す時、わたしたちには、お互いの心の「ひらけ」を待ち望む希望と忍耐力が与えられます。歯を食いしばって我慢する忍耐力ではなく、「その時」が訪れるのを希望をもって待ち望みながら、いまなすべきことを一つ一つ丁寧に重ねていく、自由な「忍耐力」と言ってもいいかもしれません。時には、その人と一旦距離を置くことが、その時なすべきことであるかもしれません。
★そんな、目に見えないところで、人の心と心とを結び合わせようと働いている神様の力こそが、聖霊ではないのかと思う。それは、教会の中だけで、型どおりの信仰に人を導くためだけに働くのではありません。普段の生活の中で、理解し合うことのできなかった人と、ふと心が重なって想いを分かちあえたと思える瞬間、「ああ、いま聖霊が働いて、僕らを結び合わせてくれた」と感じることがある。大事なのは、いま目の前に見えていることだけ、それに基づく自分の判断や評価だけで、心を満たしてしまうことを止めて、聖霊の働く隙間を残しておくこと、そして聖霊が働くのを待つこと、ではないだろうか。それが「聖霊を信じる」ということではないかと思うのです。
by oji-church | 2018-06-06 09:41 | 牧師からのメッセ-ジ
「〈聖霊を信じる〉って?」(1)

★キリスト教の神学では、三位一体と言って、〈父なる〉神様と、その神様の〈子なる〉イエス・キリストと、そして聖霊とが、別々でありつつ、別々でない一人の神、ということになっています。でも、聖霊なるものを、イエス様や神様と同じように、聖霊に向かってお祈りしたり、語りかけたりすることは難しいと思わざるを得ません。なぜそうなのかと考えてみると、聖書を開いても、聖霊が言葉を語っている場面が無いから、かもしません。しかし、キリスト教が聖霊を、〈父なる〉神と〈子〉なるキリストと同じようにわたしたちが仰ぐべき大切なものとして守り信じてきたことを、やっぱり大事なことだと思うのです。
★聖霊というものを神様と同じくらい大切にすることで、わたしたちは目に見えないものを大切にする気持ちを与えられます。そして、目に見えないものを大事に想うことによって、わたしたちの心には、自由と希望とを与えられます。目に見えるものだけを頼りに生きるならば、わたしたちはいま目の前に見えるものに左右され、それに一喜一憂して生きることになります。目に見えるものだけを頼りに生きるならば、いま目の前に生きている人もまた、わたしたちがそれに一喜一憂するばかりの「モノ」になってしまいます。でも、人と共に生きていくということは、いま目の前に見えるだけではない、その人の過去や未来、またその中でその人が思い、感じてきたこと、思い感じていることに、わたしの心を重ねていくことが是非とも必要です。(つづく)
by oji-church | 2018-05-30 17:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「草にすわれば」

〈イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせる様にお命じになった。……イエスは五つのパンを取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配した。すべての人が食べて満腹した〉(マルコによる福音書5章39~42節)。

★王子教会での子ども食堂の目的は、ただ食事を提供することではなく、子ども同士、子どもとおとなの「つながり」を作ることに移り変わってきました。ただお店を開いて食事を提供するだけでは、つながってくることのできない、孤立している子ども達が多く集まってくるようになったためです。「食事をどうするか?」というモンダイは「自分のお腹をどうするか?」というモンダイであり、それは結局「自分をどうするか?」というモンダイに行き着きます。でも本当のモンダイは「自分をどうするか?」ではなく、「つながりをどうするか?」ということではないかと思えてきました。
★イエス様は「飼い主のいない羊のような有様」の人々を、お互いに顔の見える組に分けて、まあるいグループで青草の上に座らせました。そんな顔の見えるつながりそのものが、人を満たす糧(かて)となるのです。八木重吉という人の「草にすわる」という詩があります。「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる」。草の上に一緒に座ると、「自分をどうするか?」に頭が一杯になっていた「わたしの まちがい」に気付かされる。そんな不思議な消息を、聖書はわたしたちに語りかけているように思うのです。
★わたしたちが目に見えない人間同士のつながりを形作っていこうと志す時、わたしたち自身は、十分な「モノ」を持っていないように見えたとしても、実は、このわたしの存在そのものが、人を満たすに十分な糧であり、わたしたちの生きているこの世界そのものが、人を満たすに十分な青草の原なのだということが分かってきます。
by oji-church | 2018-05-23 10:10 | 牧師からのメッセ-ジ
「あなたはわたしの愛する子」

〈イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え〉(マルコによる福音書5章11~12節)〈「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」〉(マルコによる福音書1章11節)。

★わたしたちの日々の生活は、いつもいろんな不安にさらされています。安心して生きていきたいというのは誰しもの願いですが、いろんな不安にさらされる生活の中で、是が非でも自分の安心感を得ようとすれば、自分以外の人と「安心」の奪い合いとなり、やがて人間同士傷つけあい、殺し合いにまで発展してしまうこともあります。
★五千人の人が集まった場で、食べ物がパンが五つと魚が二匹しかなかったとしたら、それは不安極まりない状況でしょう。けれどもイエス様はそこで、パンと魚を手にとって、天を仰いで賛美の祈りを唱えます。この不安極まりない状況の中で、イエス様はいったい何を賛美(=感謝)したのだろうか、不思議に思います。
★福音書の初めに、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、天からこんな声が聞こえてきたとあります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この声は一人イエス様だけが受けた声ではないと思うのです。いまここに生きているわたしたち誰しもが、もうすでに、生まれながらにして神様からこのように、呼びかけられてしまっているということ。それをイエス様はご自身の身を以て、わたしたちに知らせてくれたのです。この神様の呼び声、天から響くその声にむかって、イエス様は天を仰いで賛美の祈りを、感謝の祈りを献げたのではないでしょうか。
★生まれながらのいのちそのものを愛して呼びかけられている神様のこの呼び声を聴き、知っている限り、わたしたちは自分の力でもって自分の安心感を確保しようと、欲望を募らせる必要はなく、むしろ、その代わりに、この神様の呼び声を、分かち合い、互いを愛して呼び掛けあう生き方へと導かれ、遣わされて行くのでしょう。
by oji-church | 2018-05-16 14:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「足のほこりを払って」

〈あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教をした。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。〉(マルコによる福音書5章11~12節)

★ここを読むと、自分を迎え入れてくれない人に向かって、「お前らなど、神様から救ってもらえないぞ」と負け惜しみを言い、後ろ足で砂を蹴って出て行くような姿を想い起こして、あんまり快く読めないできました。確かに、どこかへ出かけていって、そこで自分が受け入れてもらえないという経験は、気分のいい経験ではありません。恨みも残るかも。だけれども、そんな恨みなど、足の裏についた埃のようなものではないか。自分を受け入れてもらえないかった恨みなど、足の裏の埃と一緒に払い落として、顔を上げて、また新しい場所へと遣わされてゆくのだ。そこに神様が必ず新しい道を備えていてくださるのだと、そういう思いを言い表したものではないかと思ってみるのです。
★「宣教」というと、キリスト教に改心する人を生み出して、信徒を増やしていくことと考えられがちです。でも、ここでは信徒を増やすことにはまったく関心が向けられていません。悔い改めるというのは、心の向きを変えるということ。シンプルに、単純率直に生き、自分を迎え入れてくれる人の真心を感謝して受けとめ、一人の裸の人間である自分として、もう一人の裸の誰かと出会い、その人の手を取って語りかけ、その人と触れあい知り合って、そのことが、人が調子を崩している状況から、悪霊を追い出し、病人を癒す働きとなったらいい。そして、自分が受け入れられなかったとしても、足の埃を払って、また前へと進んでいくこと。それが宣教の働きなのでしょう。
by oji-church | 2018-05-08 17:12 | 牧師からのメッセ-ジ