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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 584 )

聖霊によって生まれること

〈人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。……だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。……風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。〉(ヨハネによる福音書3章3〜8節)

★人と出会うのは恐ろしいこと。人と出会えば、わたしたちはどこか傷つく可能性があるから。わたしたちは傷つくことを恐れて、人と出会うことよりも、人を追いやるような振る舞いをしてしまいます。でも、わたしたちのこの渇ききったカサカサの命の奥底に、すべての人に分かち与えられた神様の霊が息づいているのだとするなら、わたしたちが誰かと出会い触れ合って受ける傷というのは、むしろ、わたしたちを覆って固くなってしまっている殻を破る破れ目でもあるのじゃないでしょうか。

★「霊によって新たに生まれる」というのは、この殻を破ってもう一度、わたしたちの奥深いところに、神様から吹き込まれ、分かち与えられた聖霊、神様の息吹を、わたし自身の息吹としながら生きていくということではないだろうか。もとは一つであった神様の霊、神様の息吹に導かれる時、わたしの傷はあなたの傷であることが分かってくる。あなたの傷はわたしの傷であったことも。そうして、傷を受けることを恐れて人を追いやる関係から、互いの傷を手当てし、いやしあう関係が生まれてくるのではないだろうか。こうして聖霊は、わたしたちが様々な人やものごとと自由に出会い、触れ合って生きる喜びへと、わたしたちをもう一度生まれさせてくれるのだということ。風のように、どこで誰と繋がるかは分からない。でも、境目なく人と出会い、触れ合って、互いに互いの傷を手当てしていたわり合い、いやし合い、そのように自由に出会い繋がって生きる喜び。


by oji-church | 2019-06-19 11:45 | 牧師からのメッセ-ジ

その体に触れて(3)


〈この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。〉(マルコによる福音書14章8〜9節)

★「この人はできるかぎりのことをした」。この言葉を原文通りに訳すとこうなります。「この人は持っているすべてをわたしに注いだ」。こう語ることによって、今度はイエス様が彼女の人生の全体を尊び、慈しみ、受けとめるのです。そんなイエス様と彼女との重なり合った触れ合いを、わたしはこの場面に感じるのです。

★「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。福音を語る時にはいつも、彼女の姿をも思い起こすべきなのです。福音のそばにはいつも、イエス様の体に臆することなく手を触れて香油を注ぎ、イエス様の命の全体を尊び、慈しんで、癒やし、慰めている彼女の姿があるのです。

★聖書が語る「福音」とは、イエス様がわたしたちの命を救ってくれて、はい、それでおしまいというものではありません。「福音」とはイエス様とわたしたちの関係なのです。もっと言えば「福音」とはイエス様とわたしたちとの「触れ合い」なのです。「福音」だけがただポツンとあるのではなく、福音のそばには必ず人の姿があるのです。その福音に触れる人の姿、イエス様に触れる人の姿です。これをひっくり返せば、わたしたちの傍らにはいつも、福音があるということでもあります。わたしたちの体に臆することなく触れて、死を越えてわたしたちの体に触れて、わたしたちの人生の全体、いのちの全体をなでさすって尊び、慈しみ、慰め、癒やすイエス様の手がわたしたちの傍らにはいつもあります。


by oji-church | 2019-06-12 10:05 | 牧師からのメッセ-ジ

その体に触れて(2)


★死人の体に油を塗って清める手当てについて思い巡らします。それは亡くなった人の最後の姿を整える働きです。亡くなった人の最後の姿が表すのは、その人の生きてきた人生の全体、命の全体でありましょう。その亡くなった人の人生の全体、いのちの全体を尊び、慈しんで、その人生の全体、命の全体を受けとめて油を塗る。手でその体をなでさすりながら。油を塗る行為は当時、病人に対する手当てでもありました。それは癒やしと慰めの振る舞いでもあるのです。亡骸に手で油を塗る行為は、亡くなったその人を癒やし、慰める行為でもありました。そして、この埋葬の際の塗油、体に油を塗る役を担ったのは、いずれの場合も女性であったと言われます。そう、イエス様が十字架に掛けられて亡くなった安息日明けに、イエス様の遺体に油を塗るために墓に向かったのは女性たちでした。男は死人の亡骸を「けがれたもの」と見なして手を触れず、それをやはり「けがれたもの」と見なされていた女性にやらせたのです。

★でもイエス様がその生涯をかけ、命をかけて行ったのは、それと同じこと。「けがれたもの」とレッテルを貼られて見捨てられ、追いやられていた人のその人生の全体、命の全体に手を差し伸べ、その手で触れてその命の全体を祝福された。それが聖書に示された「福音」というものです。いま、一人の女性がこの食事の場に突然現れて、今度は彼女がイエス様に向かって同じことをしたのです。イエス様の体に触れてその手でその体に香油を塗り、イエス様の命の全体を尊び、慈しんで、癒やし、慰めたのです。そうすることによって、彼女はイエス様の生涯の働きを受けとめ、理解していることを示したのです。(つづく)


by oji-church | 2019-06-05 12:46 | 牧師からのメッセ-ジ

その体に触れて(1)

〈イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注いだ。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」〉(マルコによる福音書14章3〜5節)

★「憤慨して言う」「厳しくとがめる」と重ねて言われているところに、この人たちの彼女に対する強い不満と叱責がうかがい知れます。彼らは口では「香油の無駄遣いではないか。これを売って貧しい人たちに施すことができたのに」と殊勝なことを言っていますが、彼らが胸の内で思っていたのは、こういうことだったろうと想像できます。「女ごときが人の前に堂々と現れて、挨拶もなく、イエス様の体に触れて、香油をバシャバシャ注ぐとは、飛んだ無作法で非常識な女だ」と。彼らは、彼女がなぜイエス様の頭に香油を注いだのか、その意味を理解していないのです。

★でも、わたしたち自身、彼女がイエス様に香油を注ぎかけたその意味を、本当に理解しているでしょうか。後の方でイエス様は彼女の振る舞いを「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言って感謝しています。実際、壺を壊す行為は、亡くなった人の体に油を塗って、その油の瓶を壊して遺体の傍らに置く風習を表しています。イエス様の頭に香油を注ぐ行為は、亡くなった人の体を香油で清める行為そのものを表しています。でも死人に施すようなそんなことをされるのは縁起でもない、やめてくれと思うのが普通でしょう。でもイエス様はその彼女の振る舞いを喜び、感謝しているのです。わたしたちは果たして本当に、彼女のこの振る舞いと、それを喜び感謝するイエス様の思いを理解していると言えるでしょうか。(つづく)



by oji-church | 2019-05-30 12:04 | 牧師からのメッセ-ジ

戦争〉の手足をもぎとって

〈憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら—読者は悟れ—、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。……それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。〉(マルコによる福音書13章14〜20節)

★ここで語られているのは戦争の実相です。「縮める」と訳されている言葉の元の意味は「手足などを切断して不具にする」という意味だと辞書にありました。「不具」というのは体にしょうがいを持つ人に対する差別的な言葉です。なんのために「人の手足を切断して不具にする」なんて酷いことをするのかよく分かりませんが、そんな言葉がギリシア語にはあるのです。でもここでは、その言葉が戦争に対して使われています。ここで言われているのは、神様が指先をちょろっと動かして、戦争の期間を「短くしてあげる」なんて軽いことではなく、神様は戦争というものと取っ組み合って、戦争の手足をもぎ取って、神様が戦争そのものを不具にされる。戦争なんてできないようにされる。そんな情景が浮かび上がってきます。

★戦争という状況に対して、人は何をよりどころとして、何を目指して、どのように生きていくのか。それは、すべての命を愛して、命を破壊して止まない戦争に向かって、戦争の手足をもぎ取って二度と戦争などできないように今も立ち働いている神様にわたしたちは従っていくこと、そんな神様の働きを受けとめ、神様の思いを伝える者として生きること、そして神様と共に、すべての命を愛して生きること、そういうわたしたちの生き方が、ここで呼びかけられているのではないでしょうか。



by oji-church | 2019-05-22 15:33 | 牧師からのメッセ-ジ

熱狂でも、無関心でもなく


★先週は、テレビをつければ5秒に一度は「令和」という言葉が連呼され、あたかも全世界が改まったかのようなお祝いムードが報じられました。一方、5月3日は憲法記念日でしたが、一部の人たちを除いては、そこで憲法のことが顧みられた様子はありません。一方にお祭り騒ぎやお祝いムードには熱狂が沸き起こり、しかし他方では現実の国や社会のありように対しては無関心が覆っているのが、いまのこの国のありようではないかと思います。

★熱狂と無関心は正反対のふるまいのように思えますが、実は表裏一体です。いずれもが現実を見えなくさせ、やがて人の命を奪うことへと行き着きます。キリスト教もしばしば熱狂に冒されてきました。ヨーロッパの中世の十字軍という熱狂。異端審問という熱狂。その中で多くの人たちが虐殺され、宗教改革の時代には、カトリックもプロテスタントも「異端」を殺すことに熱狂しました。その後、大航海時代以降はアジアやアフリカの地域を植民地とするのと並行して「世界伝道」の熱狂の中で、現地の人々がもともと信じていた宗教を弾圧し、やはり多くの人の命を奪いました。

★20世紀、人々は戦争に熱狂し、何千万という人が命を奪われました。21世紀に入っても、2001年9月11日の同時多発テロを発端として、アフガニスタン、イラクでの戦争の熱狂がありありました。わたしたちはいまも、そんな熱狂の余波の中で生きているのかもしれません。そんな熱狂に巻き込まれたくないという思いから、この世の事柄に無関心になる人もいますが、でも無関心は結局、熱狂による暴力を野放しにし、容認することにしかなりません。熱狂の渦に巻き込まれるのでなく、しかし無関心に陥ってしまうのでもない生き方が求められるのではないでしょうか。



by oji-church | 2019-05-16 14:17 | 牧師からのメッセ-ジ

歴史をつなげて、〈いま〉を生きる


★天皇が代替わりし、元号が「平成」から「令和」となるそうです。わたし自身はもう長らく日常生活で元号は使っていないので、そもそも今年が「平成」何年だかもよく分からないのです。歴史を勉強する者にとって元号ほど不便なものはありません。「明治何年」「大正何年」「昭和何年」と言われてもそれが今から何年前のことなのか、同じ年に外国では何があったのか、計算し直して見なければ分からないのです。

★日本人は他の国や地域の人たちと比べて、自国の歴史を他の国や地域の歴史と繋げて、また自分自身に繋げて考えることが不得意だと言われます。それは、もしかしたらこの元号のせいではないかという気がしてくきます。元号が変われば、過去は現在との繋がりを失い、やがて消え去り、忘れ去られていくのです。また同時に、日本以外の国や地域との繋がりも失われ、日本にとって都合のいい歴史解釈だけが横行するようになります。

★天皇あるいは天皇制というのは、そもそもが国民を一つの方向に仕向けるために用いられる「道具」なのです。天皇はそのように自分が「道具」として用いられることを、拒否できません。いま、人々がこぞって天皇を礼賛し、天皇の姿に熱狂して一色に染まる様子を見るにつけ、わたしはおそれを禁じ得ません。戦争前も人々は同じように天皇を礼賛し、天皇に熱狂しました。時の政府はそれを最大限に利用して、戦争へと人々を導いていったのです。その歴史をかえりみるとき、「果たして今のこの状況は、わたしたちにとって『よいもの』なのだろうか」という疑問が湧いてきます。歴史とつながって、歴史をかえりみることが、わたしたちを立ち止まらせ、未来を深く考えさせます。そのように自分を歴史に繋げて考えることは、わたしたちが「いまを生きる」上で、是非とも必要なことなのです。


by oji-church | 2019-05-08 13:17 | 牧師からのメッセ-ジ

「おはよう」

〈すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。〉(マタイによる福音書28章9節)。

★復活されたイエス様が出会った女性たちに、最初に発した言葉は「おはよう」でした。「復活」という驚くべき出来事の中で、「おはよう」と言うのは、なんとも間の抜けた言葉です。ですが、わたしはこの「おはよう」という普通の言葉になんだか心引かれるのです。「おはよう」って言ってみて下さい。そのときどんな顔をしているでしょうか。泣いた顔や、怒った顔で「おはよう」って言えるでしょうか。このとき、イエス様はどんな顔をしていたか、思い浮かべてみるのです。それはきっと笑った顔ではないでしょうか。復活したイエス様は、笑った顔で「おはよう」と言ったのです。

★なぜ、笑っているのでしょうか。それは、イエス様だけじゃない、いまも苦しい気持ちや、悲しい気持ちや、痛む心を抱えている人たちと一緒に、イエス様も苦しく、悲しく、痛い思いをしたから、じゃないかと思うのです。つらい思い、苦しい思い、悲しく、痛い思いというのは、決して楽しいことではないでしょう。でも、そういう思いをすることで、誰かのそばにいることが出来たなら、それはイエス様にとっては嬉しいことだったのかもしれません。

★聖書にはこんな言葉があります。「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」。「幸い」というのは「幸せ」ということ。いま泣いている人が幸い、幸せなわけがないと思います。でも、今泣いている人の、その悲しい気持ち、苦しい気持ち、痛む気持ちのすぐそばに、イエス様が、同じ悲しい気持ち、苦しい気持ち、痛む気持ちをもって、でも、笑いながら「おはよう」と呼びかけて、一緒にいてくれる。そういうことを、聖書はわたしたちに伝えようとしているのだと思います。


by oji-church | 2019-04-30 10:36 | 牧師からのメッセ-ジ

天使の翼は生えているか(2)

★人間の幸福といってしかし、それは別に富を蓄えて裕福にはぶりよく生きるなんてことではありません。人間というのは、聖書にもありますが、たった一杯の冷たい水にも、あるいはたった一杯の温かい飲み物にも、無上の喜びを感じることができるものです。そのようにささやかな、小さな物事に、こちらが計り知れない大きな喜びを受けとめて、それによって生きる痛み、苦しみ、悲しみの挫折からよみがえり、もう一度立ち上がって人間らしく生きていくようになる、そんな人の姿に幾度も出会い、触れさせていただいてきました。

★「復活はある」というのは、そんな幸福というものに向かっていこうとする、人間のささやかな願い、希望の切なる積み重ね、その一つ一つの先に思い描かれたものではないかと思うのです。聖書が語るのは、神様はその人間の幸福へと向かおうとするささやかな、切なる願いに、きっと応えて、祝福し、守り支え、導き、救い出すのだと、そのことを伝えるためにイエス様をこの世に送られたのだということです。

★生きているということは、現実の制約の中で、ルールに沿って独りで決まった道を進むことではなく、人間同士、出会い、触れ合い、感じ合いながら共に生きることです。

★わたしたちがいまここに生きているということ自体、もうすでに、ルールを越え、現実の制約の壁を越え、死をさえ越えて羽ばたき、出会い、共に生きることのできる、天使のように自由な翼あるいのちを与えられているということなのです。

★ご自分の背中に天使の翼が生えているのが見えるでしょうか。ルールを越え、現実を越えた想像力が必要です。お互いがお互いにとって、天使のような存在であることを見いだしつつ、出会い、触れ合い、感じ合って、ルールを越えて、現実の冷たさを越えて、死をさえ越えて、共に生きゆくものでありたいと願うものです。


by oji-church | 2019-04-10 17:35 | 牧師からのメッセ-ジ

天使の翼は生えているか(1)

〈あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ〉(マルコによる福音書12章24節)

★牧師という役目を負いながら、幾人かの方々を看取ってきました。しかしどんなに寄り添おうとしても、死を越えてその向こう側まで寄り添うことはできません。その方が息を引き取られれば、すぐにご葬儀の手配やら準備やら実際的な作業に切り換わるというのが牧師という仕事の性分です。その傍らで感じていたのは、死というものの「絶対的な冷たさ」でした。人のいのちは死ねば、もうそこで終わりなのだ。それはもうどうすることもできないのだ。そういう死というものの厳然たる事実を冷静に受けとめることが大切なのだ、と、そんな声がわたしの胸の内にこだましていました。

 けれども人間というのは、どれだけ現実が厳しく冷たいものであったとしても、それでもなお、その冷たい現実を越えたところにある「幸福」というものに向かって思いを巡らし、想像の翼を羽ばたかせてきたのではないだろうか。その中から、一人ひとりの人間が幸せに生きる、つまり、ほんとうに人間らしく生きるという営みも、一歩一歩形作られてきたのじゃないだろうか。そうであるならば、それがどんなに非現実的な想像であったとしても、それを嘲ることは、やっぱりよくないことなのじゃないだろうか。そんなふうに思うようになりました。(つづく)


by oji-church | 2019-04-04 17:12 | 牧師からのメッセ-ジ