日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 524 )

「かすかな声に耳を傾けるイエス様」

〈見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。〉(イザヤ書42章1~4節)

★福音書の中でイエス様が逮捕され、十字架に掛けられ、殺されていく場面を「受難物語」と呼びます。注意して受難物語を読んでいくと、その中でイエス様がほとんど、自分の言葉らしい言葉を口にしていないことに気付かされます。黙ったまま、十字架に掛けられていくイエス様の姿が表しているのは、もしかしたら、人の心の奥底のかすかな声に耳を傾けている姿なのかもしれないと思うのです。
★人誰しもの胸の奥に響いているかすかな声。人に言い表わすことのできない言葉。声にならない声。それは恐らく、傷ついた心の言葉でしょう。傷つき痛んで消えそうになっている心の声でしょう。その傷ついた心を折ることなく、消えかけた心の声を消すことなく、叫ばず、呼ばわらず、巷に声を響かせずに、その胸の奥の声に耳を傾ける者。それこそが、神様の僕、神様によって支えられ、選ばれ、喜び迎えられている神の子の姿なのです。
★子ども食堂で出会う子どもたちが、時折ポロリと心の中にある悲しい言葉、痛む言葉を口にすることがあります。ともすると聞き逃してしまうような小さな言葉です。わたしもしばしばそれを聞き逃してしまうのですが、そんなかすかな声が響く場所に、イエス様は黙ったまま、耳をそばだてて共におられるのではないかと思うのです。
★黙ったまま十字架への道を進んでいくイエス様は、わたしたちの心の奥底に響いているかすかな声に耳を傾け、わたしたちの傷ついた心を傷つき果てることなく、消えかけたいのちの灯火を消すことなく回復させてくれるでしょう。
by oji-church | 2018-04-04 12:40 | 牧師からのメッセ-ジ
「〈小さな信〉をつなげられて」

〈ここに12年間も出血の止まらない女がいた。……イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。……「わたしの服に触れたのはだれか」。……女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」。〉(マルコによる福音書5章25~34節)

★神様は、弱く、小さく、惨めに思える者をこそ、敢えて選び分かち、愛して、救いの約束を果たす神様だと、そう信じて生き通されたのがイエス様でした。だから、イエス様は自分の服の裾に誰かが触れた、そのわずかな感触も捨て置くことなく探し回り、見つけ出される。それがイエス様の「信」です。この場面は、そんなイエス様の「信」と、この女性の「あの方の服にでも触れればいやしていただける」と独りつぶやいた小さな「信」とがつながった場面だと思うのです。
★クリスチャン、教会、信仰と言えば、ともすると、強くて大きな「信仰」を持たなければならないと思ってしまいがちです。でもそれは大いなる誤解です。わたしたちは、生まれる前に、この命一つに一つずつ、神様から「信」を与えられています。それは、「わたしのいのちは尊いもの」「わたしのいのちは価値あるもの」という小さな言葉。小さなそれが一つあれば十分です。それがどんなに小さかったとしても、イエス様は必ず、それを感じ受け、わたしたちが、貧しく、情けなく、惨めだと思っているそれを、宝物を探し求めるように探し求め、見つけ出し、わたしたちに近づいて、イエス様の「信」とわたしたちの「信」を繋げて下さる。わたしたちがなすべきことは、その小さなそれを、この女性のように、転げ出るような姿であってもイエス様のまえに、「自分の身に起こったことを、ありのままに」打ち明けることなのでしょう。
by oji-church | 2018-03-29 15:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「苦海浄土」(2)

★(承前)2月10日に石牟礼道子さんが亡くなって、翌日の新聞記事には、こんな言葉が書かれていました。「誰かが苦しんでいる時、相手の気持ちになってもだえ、悲しみながら、ただ見守るだけの存在」のこと、と書かれています。水俣の人たちはこの石牟礼さんのことを、そういう意味を込めて「悶え神さん」と呼んでいるそうです。石牟礼さんは、水俣病を治すことはできません。水俣病になった人たちのことをただ、その気持ちになって、一緒になって悶えて、悲しみながら、ただ見守るだけのことしか出来ませんでした。でも石牟礼さんがそうやって、水俣の人たちと同じ気持ちになって、一緒になって悲しみを共にしてくれたことを、水俣の人たちは本当に有り難いこと、尊いこととして受けとめて、自分たちの心の傷を癒してくれたと言っています。
★「苦海」というのは「苦い海」「苦しい海」、汚されてしまった海、だけれども「浄土」というのは、天国のような清い場所、尊い場所という意味です。汚されてしまった海、その魚を食べて苦しみに襲われてしまった水俣の人たちだけれども、その人たちと同じ気持ちになって、苦しみ、悲しみを分かち合うことを通じて、わたしたちは清いもの、尊いものを与えられるんだ、と、そういう意味が込められているのだと思います。
★聖書の神様は、人の苦しみ、悲しみを、一緒になって苦しみ、悲しむ神様です。わたしたちが苦しむ人と一緒に、同じ気持ちになって、一緒になって悲しみを共にする時、たとえただ傍で見守ることしかできなかったとしても、神様はわたしたちと共にいてくださるのだと思います。そうして、不思議にも、そういうわたしたちの同じ気持ちが、神様を通じて、きっと人の苦しみ、悲しみを癒す力を持つのだと思います。(2月25日教会学校礼拝説教より)。
by oji-church | 2018-03-21 10:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「苦海浄土」(1)

〈乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を描くし、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。……彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた〉(イザヤ書53章2~5節)。

★ここには、とても苦しんでいる人が出てきます。みんなから馬鹿にされ、苦しんでいるのに無視されて、見捨てられてしまう人。しかもこの人は何も悪いことをしたわけでもないのに、です。そんなふうに苦しみたい人っているでしょうか。でも聖書には、この人が苦しんだオカゲで、わたしたちに平和が与えられ、わたしたちは癒された(病気が治った)と書かれています。誰かが苦しんだオカゲで、平和が与えられ、病気が治るんだったら、じゃあ「誰かわたしのために苦しんで! 傷ついて!」って頼むことはできるでしょうか。僕はなかなか、そうは思えません。
★そんなことを考えていた時、ある一人の人のことが思い浮かんできました。石牟礼道子さんという人。2月10日に90歳で亡くなられました。この人は『苦海浄土』という本を書きました。石牟礼さんは、チッソという会社が海に流した毒によって体を冒されて、多くの人が苦しんで苦しんで亡くなっていった、その水俣の人たちの苦しみを見て、心が痛んで、水俣の人たちに代わって、水俣の人たちの言葉で、この水俣の人たちの苦しみや悲しみを、そして、それでも一生懸命に生きる水俣の人たちの姿を文章に書くのです。(2月25日教会学校礼拝説教より・つづく)
by oji-church | 2018-03-14 15:57 | 牧師からのメッセ-ジ
「夜昼、寝起きすることは」(3)

★イエス様は目の前にいる、「生かさず、殺さず、搾り取れるだけ搾り取られる」生活の中で喘いでいる人たちに向かって、それでもあなたたちは意味のない人生を生きているのではないよ、神様の働きと繋がって生きているよ、ツマラナイ人生なんかじゃないよ、神様の喜び、生きていることの本当の意味と喜びを知らされる生き方、「神の国の秘密」を打ち明けられる生き方をしているよと、エールを送ったのではないかと思います。
★今日と明日とを繋いで、夜昼、寝起きして生きる生活。それは、生まれたばかりの赤ちゃんも、お年寄りも、女であっても男であっても、しょうがいがあろうがなかろうが、日本人でも外国人でも、すべて今を生きる人たちが営んでいるいのちの働きです。これを何よりも大切なものとして守り、国同士の「我勝ち」の競争に優って、神様は大きく大きく、その葉陰に空の鳥が巣を作れるほどにも大きくそだてようと、わたしたちのこの小さなからし種のようないのちの一つ一つに寄り添い伴って守り支え、導き、ねぎらい、応援して、働いておられることを心に刻みたいと思います。
by oji-church | 2018-03-07 10:23 | 牧師からのメッセ-ジ
「夜昼、寝起きすることは」(2)

★一昨年、「津久井やまゆり園」でしょうがいを持つ人たちがむごい仕方で命を奪われる事件をわたしたちは経験しました。容疑者は「障害者は生きていても意味がない」ということを語っているとされています。しょうがいを持つ一部の人たちは、見た目には、ひたすらに夜昼寝起きしているだけの存在に見えるかもしれません。でもその人たちと触れ合うことで、どれだけ生きるということの本当の意味と喜びを教えられるか、それはこのしょうがいある人たちと親密に触れ合った人が一番よく知っていることだろうと思います。逆に言えば、親密に触れ合わなければ、知ることのできないこと、まさに「神の国の秘密」なのだろうと思います。(つづく)

by oji-church | 2018-02-28 09:47 | 牧師からのメッセ-ジ
「夜昼、寝起きすることは」

〈神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。〉(マルコによる福音書4章26~27節)。

★イエス様のこのたとえ話を聞いていた人たちは、貧しい農民だったでしょう。権力者たちから「生かさず、殺さず、搾り取れるだけ搾り取られる」、そんな生活を送る人たちです。今日と明日を生きるために、夜昼、ただただ寝起きするためだけにも、畑に出て種まきをしなければならなりません。こんなことしていたって、ちょっとでも暮らしが楽になるわけでもないのに、というため息混じりにも。
★今日と明日、ただ夜昼寝起きするためだけに、種まきに出かけていくという、イエス様の話を聞く農民にとっては当たり前のツマラナイ光景を、しかしイエス様は「神の国は次のようなものである」と言われるのです。イエス様は「いやいや、そうでもないぞ」と言うのです。「今日と明日を生きるために、畑に種まきに出かけていくことは、決してツマラナイことなんかじゃないぞ。それは、ひょっとすれば、この世界全体を創って、取り仕切っておられる神様の働きと、どこかで繋がっているかもしれないぞ」。そう伝えることが、もしかしたらイエス様がこのたとえ話を語った意味だったのかもしれません。(つづく)
by oji-church | 2018-02-22 11:31 | 牧師からのメッセ-ジ
「ともし火としての悲しみと喜び」

〈ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められているもので、公にならないものはない〉(マルコによる福音書4章21~22節)。

★ここで「ともし火」と言われているのは、イエス様が宣べ伝えた「神の国」の福音のことでしょう。この世界は神様が創られたもの。そこに生きるすべての命あるもののために神様は、今日も働いておられ、わたしたちの命を養い回復される。それが「神の国」の福音というものです。
★そんな「神の国」の福音は、特定の限られた人たちだけに打ち明けられるのではなく、この空の下に生きている「みんな」に打ち明けられるはずのものだ、というのが、ここでイエス様が言われていることなのだと思います。
★「ともし火」という小さなものが、みんなを照らす「神の国」という大きなものに繋がっていることが語られています。わたしたちは日々の生活の中で、いろいろな小さな出来事を経験し、その中で、それぞれに小さな喜びや悲しみや痛みを経験するものです。そんな小さな経験の一つ一つを互いに打ち明け合い、受けとめ合いして分かち合う積み重ねの中から、神の国という大きな喜びが、わたしたちのもとを訪れるということではないかと思います。
★わたしたちの日々経験する小さな出来事の中での喜びや悲しみの中にこそ、「神の国」の大きな喜びが秘められており、それはみんなを照らすともし火となるのだ。「神の国」の大きな喜びは、わたしたちの、お互いの小さな経験を打ち明け合い、受けとめ合い、分かち合う積み重ねの中から、いつかきっと必ず、みんなが分かる仕方で明らかになる。イエス様の言葉は、そんな希望をわたしたちに告げています。
by oji-church | 2018-02-13 11:59 | 牧師からのメッセ-ジ
「食べる」

★先週月曜日、胃と腸の内視鏡検査を受けました。このところ三年連続で腸にポリープが見つかり、毎年検査を受けるハメになっています。検査前日は検査しやすくするために三食いわゆる「検査食」を食べます。検査当日は絶食。ポリープが見つかって切除すると、一晩入院させられ、終日食事はオアズケ。翌日も一日検査食です。今回もやはりポリープが見つかり、検査食→検査→入院→絶食→検査食のコースを辿りました。検査そのものはもう慣れて、どうってことないのですが、問題は検査食。決してまずくはないのですが、如何せん量が少なく空腹とのたたかいになります。空腹と言っても決して「飢餓」ではないのですが、わたしはどうもこれが苦手のようです。目につく食べ物すべてが美味しそうに見えて、しまいにはウチで猫が食べているキャットフードまでウマそうに見えてくる始末。
★ハタと気付いたのは、普段自分が多分に〈食べる〉ことでストレス解消しているらしい、ということでした。決してゼイタクなものを、あるいは大量に食べているわけでもないのですが、どうやら〈食べる〉ことで気分転換しているらしいのです。それが無くなる、あるいは充分な量でないと落ち着かず、身の置き所がなくなってくる。普段あまり物事がメンタルに響かない鈍感なわたしですが、空腹が一番メンタルに響くことが分かりました。
★わたしを痛めつけたければ、「食べさせない」ことが最大の攻撃です。これもヒトの性(さが)かもしれませんが、ともあれ精神衛生を〈食べる〉に依存しているのはあまりいいことではありません。問題が分かって、さてこれをどう克服すべきか、今のところ見当がつきません。ちょうどいい〈食べる〉は、どのあたりにあるのか、お知恵をいただければと思います。
by oji-church | 2018-02-07 11:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「未来からの家族」

〈イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マタイによる福音書3章33~35節)。

★わたしたちは、未来を見通すことはできず、過去だけが見える人生の中に生きています。すると、往々にして、過去はこうだったから、未来もきっとこうだろうと思いながら生きていくことになります。家族というのは、もともと自分に至るまでずっと繋がってきた血のつながりを表すものです。そういう意味では家族というのは過去を表すものです。一方、イエス様が教えた「福音」というものは、向こうから、未来からわたしたちのもとを訪れるものです。これから神様が行おうとしている新しい働きに希望を寄せながら、いまある自分自身を見つめ直してみなさいということなのです。そこに、イエス様が、肉親との繋がりをぶった切るような言葉を語った意味があるのです。過去がこうだったから未来もこうだろうというわたしたちの思いからわたしたちを自由にして、わたしたちの心に新しい希望の光を灯すために、イエス様は家族、肉親との繋がりをぶった切るような言葉を語ったのだと、そう思うのです。
★わたしたちは過去、お互いに欠けを負った者同士であるけれども、それでもなおわたしたちは、神様がこれから行おうとしている新しい働きによって、必ず、神様はわたしたちを相応しく養い、装わせてくれるんだという希望の光のもとに、肉親を、家族を見出していくということ。勿論それは肉親、家族に限ったことではなく、この世に生きている全ての人が、神様によって養われ、装わせられる希望を与えられている存在なんだと、新しい光の中で見つめ直していくということです。そこに肉親、家族とそうでない人との違いは何もありません。
by oji-church | 2018-01-31 15:35 | 牧師からのメッセ-ジ