人気ブログランキング |

日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 592 )

熱狂と真実(1)

〈ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。〉(マルコによる福音書15章12〜14節)。

★人々の「十字架につけろ」の叫びは止まらなくっていきます。裁判とは真実を明らかにする場であるはずですが、真実よりも人々の熱狂が物事を突き動かしていきます。ピラトは真実を見極めることを放棄して、「群衆を満足させようと思って」、つまり群衆の感情にまかせた熱狂に従ってバラバを釈放し、イエスを鞭打って、十字架につけるのです。

★感情にまかせて熱狂する群衆の姿は、今もわたしたちの身近なところで起こっているように思います。今、お隣りの韓国との関係が大変厳しい状況になって、日本社会では「韓国はけしからん」というような感情が高まっています。政治家が交渉の場面で感情を高ぶらせる姿さえ見られます。それに煽られて人々の間でまた、排外的な感情が高まることになります。

★1932年、日本は謀略を重ねて中国東北部に日本の傀儡国家満州国を建国します。それを国際連盟で指摘されると、日本は憤激して国際連盟議場から退場し、国際連盟を脱退します。帰国した松岡洋右全権を日本人は歓呼の声で迎えたと言います。そうして日本は孤立を深め、泥沼の戦争へと突き進んでいきました。いままた、真実を見極めることをおろそかにして感情に走って行くことによって同じ道をたどるのではないかと危惧するのです。(つづく)


by oji-church | 2019-08-17 06:44 | 牧師からのメッセ-ジ

涙のわけ(2)

〈ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。〉(マルコによる福音書14章60節)。

★ペトロの心の奥底、いのちの奥底にはガリラヤのなまりが根付いていました。それは、自分も誰かからかつて慈しみを込めて語りかけられた者だ、という懐かしさと共に。そしてまた、ペトロの心の奥底には、イエス様から慈しみを込めて語りかけられた経験も根付いていたことでしょう。ガリラヤのなまりから、自分が「イエスの仲間」であることが露見し、それを「呪いの言葉さえ口にしながら」打ち消すことによって、ペトロは自分自身に与えられた言葉を呪い、そうすることで自分自身を呪い、自分自身を見捨ててしまったのです。自分に与えられた言葉を呪ってしまったペトロに、もはや言葉は残されていませんでした。だから、ペトロは、言葉無く、ただ「いきなり泣きだした」のです。

しかし、ペトロが自分で自分を見捨ててしまった時、もう一人、見捨てられた人がいました。ペトロは、自分で自分を見捨ててしまったその境遇に絶望して泣きながら、ふともう一人、いま、自分と同じ境遇に置かれている人がいることに気づかされたのではないでしょうか。そう、イエス様がいることに。ひとたびは「イエスなど見捨てられよ」と呪いの言葉を口にしたペトロですが、しかしその言葉を口にすることで自分で自分を見捨ててしまったペトロが、その自分の傍らに見いだしたのは、見捨てられた自分になお寄り添いともなって共におられるイエス様の姿だったのです。この場面は、最後にペトロが一人で泣いている場面のようでありながら、この場面は実は、言外にペトロとイエス様の再会を物語っているのではないかとわたしは思うのです。


by oji-church | 2019-08-06 15:57 | 牧師からのメッセ-ジ

涙のわけ(1)

〈ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。〉(マルコによる福音書14章60節)。

★わたしたちの心の奥底には、自分ではきづくことのできないほんとうの自分の姿、言葉にならない自分の姿があります。そんな自分を人から指摘されたとき、わたしたちはしばしば恥ずかしさのあまり、かえって怒って耳を貸さなくなってしまうものです。ペトロはここで、自分の惨めさ、情けなさに直面し、打ちひしがれて泣きました。しかし泣きながら、ただ自分の惨めさを嘆く涙からやがて、この泣き声をイエス様が聴き受けておられ、自分の心の奥底の、自分では気づくこともできない自分のほんとうの姿までをも、イエス様が命を賭して受けとめてくださっていることを感じ、ペトロは、そのイエス様に心寄せて、一層声を挙げて共感の涙を流したのではないでしょうか。それゆえにこそペトロは後に、立ち上がって、そのイエス様に心寄せて共感して、出会う人々にイエス様を宣べ伝え、またその人々に心寄せて共感してゆく伝道者となっていったのでしょう。こうしてペトロの涙はやがて、イエス様の涙へと変えられていったのだと思います。

★生きていくなかで、自分の胸の奥底に秘められた自分でも気づかない自分の弱さ、惨めさに直面し、打ちひしがれ、涙しなければならない日があることは確かです。しかしその涙は、自分一人の孤独な涙ではなく、イエス様に受けとめられ、イエス様につながっていることを覚えたいと思うのです。そしてまた、イエス様を通じて、他者への共感へと繋がっていることも。そうして、わたしたちの流す涙が、イエス様の涙へと変えられていくことを、祈り願ってゆきたいと思うのです。


by oji-church | 2019-08-06 15:55 | 牧師からのメッセ-ジ

真実のありか(2)

〈そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け、何もお答えにならなかった。〉(マルコによる福音書14章60節)。

★イエス様が裁判を受ける場面では、イエス様に不利な偽証をする人々が次々に立ち、イエス様をおとしめていきます。しかしその中で、イエス様は何も語りません。イエス様は黙り続けたまま、唾を吐きかけられ、目隠しをされ、殴りつけられ、からかわれ、平手で打たれます。このイエス様の姿は何を表しているのでしょうか。

★それは、イエス様が今ここに「生きている」ということではないでしょうか。イエス様は、いまご自分がここに生きているということを、言葉で説明するのではなく、ただじっと黙ったまま、その体でわたしたちに伝えようとしているのではないか。真実をないがしろにし、自分で自分に目隠しをし、自分が何をやっているのか分からなくなっていく混乱した時代の中で、わたしたちが立ち返るべきなのは、このイエス様の姿なのです。黙ったまま、殴られ、目隠しされ、嘲られ、打たれているイエス様の姿。人が痛めつけられ、苦しめられている姿です。

★どんなに真実がないがしろにされたとしても、どうしたって打ち消しようのない真実が一つあります。それは、わたしたちが今ここに「生きている」という事実です。今ここに生きて、痛みを負い、苦しんでいる人がいるということ。ここに語られるイエス様の姿は、そうした「生きている」人々の傍らに、いまもなお共にあるイエス様を現しているのだと思うのです。この時代にあって、わたしたちが立ち返るべきなのは、このイエス様、黙ってはいるけれども、その痛む体を携えて、確かに「生きている」イエス様、また、「生きている」人々のもとなのでしょう。



by oji-church | 2019-08-06 15:47 | 牧師からのメッセ-ジ

真実のありか(1)


★最近、政治や社会の分野で「ポスト真実」という言葉が語られます。「真実は何か」よりも、たとえそれが嘘や偽の情報でも、自分にとって都合のいいものであるならば、それをあたかも「本当のこと」のように振りかざして、誰かを攻撃したり、自分の利益を得たりすることに利用するのです。「真実なんてどうでもいい。真実なんて時代遅れだ。大事なのは自分の感情、気持ちであり、自分が世の中をどう思っているかだ」ということ。「ポスト真実」というのはそんな「時代の気分」を表す言葉になっています。

★実際、政府による自衛隊の日報隠しや、公文書の改ざん、隠蔽、統計データの改ざん等が繰り返し報じられています。★しかしもっと深刻なのは、そのように真実をないがしろにする姿勢が糺されず、責任を問われもしない今の社会のありようです。真実を見極めないままに社会を動かしていくことは、目をつぶって車を運転するようなものです。それは必ず犠牲者を生み出します。沖縄に暮らす人々の命、あるいは原発の事故の後、苦難を余儀なくされている福島の人々の命がその犠牲とされているように思えてなりません。沖縄は福島の人々だけでなく、目をつぶって車を運転すれば、やがて車自体がどこかにぶつかって大破するでしょう。真実をないがしろにする社会は、その社会そのものが破滅へと向かって進んでいくのです。(つづく)



by oji-church | 2019-07-17 09:25 | 牧師からのメッセ-ジ

逃げていく道で(2)


★十字架に掛けられる時、イエス様は裸に剥がれて、惨めな情けない姿をさらしているのです。その姿はどこかで見たことがある、誰かの姿と同じではないか。それは、あの最後に逃げていった若者と同じ姿です。イエス様は、あの亜麻布を捨てて裸で逃げ去った若者と同じく、いま、裸の姿で十字架に掛けられているのです。しかし、そんな惨めな姿のイエス様を見て、十字架の下に立っていた百人隊長は言うのです。「本当に、この人は神の子だった」と。

★暗い夜の闇の中で、逃げていく若者の道と、捕らえられて引かれていくイエス様の道とは、正反対の方向にどんどんと離れ、広がっていったことでしょう。その間に暗い暗い夜の闇が広がっていきます。でも、そのようにどんどんと離れ、広がっていくように見える道とのその先で、この二人は、イエス様と若者は、同じ裸の姿をしているのです。そして、そんな惨めで、情けなく、恥ずかしく後ろめたい姿をしたイエス様のことを、聖書は「本当に、この人は神の子だった」と告げるのです。

★わたしたちが自分のことを、惨めで情けなく、恥ずかしく後ろめたいと思い、その姿を夜の闇の中に隠してしまいたいと思うことは、生きている中で何度となくあることでしょう。しかし、わたしたちが自分のことをそのようにしか思えない時、暗い夜の闇の中に自分を隠してしまいたいと思うとき、実はそんなわたしたちの傍らに、イエス様が、わたしたちと同じ姿をしながら、しかし「神の子」として、わたしたちと共にいてくださる、ということを、聖書は指し示しているのではないでかと思うのです。


by oji-church | 2019-07-10 14:05 | 牧師からのメッセ-ジ

逃げていく道で(1)

〈弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が素肌に亜麻布をまとってイエスについてきていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸でにげてしまった。〉(マルコによる福音書14章36節)

★マルコによる福音書のイエス様の逮捕の場面には、不思議な一人の若者についての記述があります。この若者のことは他の福音書には出てきませんし、本来、この場面の流れからすれば、必要のない記述です。なぜマルコによる福音書にはこの若者のことが語られているのか、理解に苦しむところです。

★しかし思うに、この若者のことがここに書かれていることによって、わたしたちは、逃げていった弟子たちの、その逃げていく道に思いを馳せることになるのじゃないでしょうか。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」。そこで終わっていたとしたら、読むわたしたちは「ああ、弟子たちは皆逃げ去って、姿が見えなくなってしまったんだな」と思うだけです。でも、ここに一人だけ、イエス様のあとについてきた弟子がいて、人々にどやされると、慌ててまとっていた亜麻布も捨てて、裸にで逃げてしまったと書いてあることにで、この若者が裸で逃げていったその先に目をこらすことになるのではないかと。

★時は夜でした。若者が逃げていった先は、真っ暗闇だったことでしょう。逃げていったその先の若者の姿を、わたしたちは見ることができません。他方、この場面の先に語られるのはイエス様の姿です。イエス様は大祭司のところへ連れて行かれ、そこで裁判に掛けられています。その先でイエス様は十字架に掛けられるのですが、そのときイエス様はどんな姿をしていたか。そこにヒントがあるように思うのです。(つづく)


by oji-church | 2019-07-03 12:57 | 牧師からのメッセ-ジ

「弱さ」と「決断」

〈アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。〉(マルコによる福音書14章36節)

★イエス様は間もなく自分が逮捕され、侮辱された上に、殺されることを予期しています。そんな事態にならないようにと願い訴え祈るイエス様の姿は、「神の子」「救い主」らしからぬ人間的な弱さを露わにしています。でも、そのすぐ後にイエス様はこうも祈っています。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。こちらは人間的な弱さよりも、神様のみこころを優先させる信仰深い姿が示されています。そういうイエス様の信仰深い姿が信仰の模範として示されるか、あるいは、自分の思いを犠牲にしてまで、人々の救いのために十字架の道を進まれたイエス様の救いの業の尊さが強調されます。だけれどもその時には、前半部分の「この杯をわたしから取りのけてください」というイエス様の祈りは忘れ去られています。

★ここには、「この杯を取りのけてください」という人間的な弱さと、「しかし、わたしの願いではなく、御心が行われますように」という神様に信頼を寄せる思いと、二つの思いが交差して、その間で行きつ戻りつ逡巡しているイエス様の姿がうかがえます。果敢に覚悟を決めて十字架の道へと突き進んでいくイエス様よりも、弱さと信仰の間で逡巡して、行きつ戻りつしているイエス様の方に、わたしは心引かれます。

★問題はその傍らで眠っている弟子たちです。弟子たちは「誰が一番偉いか」と自分たちの「強さ」を競っていましたが、自分の傍らに、人間の「弱さ」があることを忘れてしまっています。そんな弟子たちにイエス様は「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と告げられます。そこには、人間の弱さに目を覚まして、その弱さをお互いに守り支え合いながら、「いのちを守る」信仰の決断へと共に歩み出していくようにと告げるイエス様がおられるように思うのです。


by oji-church | 2019-06-27 16:51 | 牧師からのメッセ-ジ

聖霊によって生まれること

〈人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。……だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。……風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。〉(ヨハネによる福音書3章3〜8節)

★人と出会うのは恐ろしいこと。人と出会えば、わたしたちはどこか傷つく可能性があるから。わたしたちは傷つくことを恐れて、人と出会うことよりも、人を追いやるような振る舞いをしてしまいます。でも、わたしたちのこの渇ききったカサカサの命の奥底に、すべての人に分かち与えられた神様の霊が息づいているのだとするなら、わたしたちが誰かと出会い触れ合って受ける傷というのは、むしろ、わたしたちを覆って固くなってしまっている殻を破る破れ目でもあるのじゃないでしょうか。

★「霊によって新たに生まれる」というのは、この殻を破ってもう一度、わたしたちの奥深いところに、神様から吹き込まれ、分かち与えられた聖霊、神様の息吹を、わたし自身の息吹としながら生きていくということではないだろうか。もとは一つであった神様の霊、神様の息吹に導かれる時、わたしの傷はあなたの傷であることが分かってくる。あなたの傷はわたしの傷であったことも。そうして、傷を受けることを恐れて人を追いやる関係から、互いの傷を手当てし、いやしあう関係が生まれてくるのではないだろうか。こうして聖霊は、わたしたちが様々な人やものごとと自由に出会い、触れ合って生きる喜びへと、わたしたちをもう一度生まれさせてくれるのだということ。風のように、どこで誰と繋がるかは分からない。でも、境目なく人と出会い、触れ合って、互いに互いの傷を手当てしていたわり合い、いやし合い、そのように自由に出会い繋がって生きる喜び。


by oji-church | 2019-06-19 11:45 | 牧師からのメッセ-ジ

その体に触れて(3)


〈この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。〉(マルコによる福音書14章8〜9節)

★「この人はできるかぎりのことをした」。この言葉を原文通りに訳すとこうなります。「この人は持っているすべてをわたしに注いだ」。こう語ることによって、今度はイエス様が彼女の人生の全体を尊び、慈しみ、受けとめるのです。そんなイエス様と彼女との重なり合った触れ合いを、わたしはこの場面に感じるのです。

★「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。福音を語る時にはいつも、彼女の姿をも思い起こすべきなのです。福音のそばにはいつも、イエス様の体に臆することなく手を触れて香油を注ぎ、イエス様の命の全体を尊び、慈しんで、癒やし、慰めている彼女の姿があるのです。

★聖書が語る「福音」とは、イエス様がわたしたちの命を救ってくれて、はい、それでおしまいというものではありません。「福音」とはイエス様とわたしたちの関係なのです。もっと言えば「福音」とはイエス様とわたしたちとの「触れ合い」なのです。「福音」だけがただポツンとあるのではなく、福音のそばには必ず人の姿があるのです。その福音に触れる人の姿、イエス様に触れる人の姿です。これをひっくり返せば、わたしたちの傍らにはいつも、福音があるということでもあります。わたしたちの体に臆することなく触れて、死を越えてわたしたちの体に触れて、わたしたちの人生の全体、いのちの全体をなでさすって尊び、慈しみ、慰め、癒やすイエス様の手がわたしたちの傍らにはいつもあります。


by oji-church | 2019-06-12 10:05 | 牧師からのメッセ-ジ