日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 554 )

いのちの価値のありか(1)

〈ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身で、ラザロといった。〉(ヨハネによる福音書11章1節)。

★ここではラザロという人が、名前よりも先に「ある病人」と紹介されています。もしかしたらそれは、このラザロという人が相当に長い月日にわたって病を患っていたことを表しているのかもしれません。「病人」と訳されている言葉は、「力のない、弱い」という意味の言葉です。当時、一般の民衆の人間としての価値は何によって測られたかと言えば、それは労働力としてでした。ほとんどは農民でしたから、十分に農作業に携わり、十分に実りを生み出す力を持った成人男性こそが、もっとも価値のある人間と見なされました。女性や子どもはその傍らにあって男性の所有物と見なされていました。そのような社会の中で、病気であること、そして、その病気が治らず、長い月日、労働に携わることができない者は、まさに「力のない、弱い」存在、価値の低い存在と見なされたのです。現在でもそのような価値観で人間を測ろうとする人がいます。国政に携わる人が、「LGBTには生産性が無い」という発言をして問題になったことは記憶に新しいことです。

★ラザロという人は、病のゆえに「無力で、弱く」価値がない人間であると思われていたのかもしれません。しかしイエス様は、ラザロの病気の知らせを受けて、こう言われます。「この病気は死で終わるものではない」。わたしはこのイエス様の一言のうちに、単にこの病気で死ぬことはない、という楽観論以上のものを感じるのです。病気のゆえに、ラザロは価値の無い人間であるというレッテルを貼られてしまうことに対する憤り、とでも言いましょうか、イエス様はむしろラザロはこの病気によって、「神の子としての栄光を受けるのだ」と言われます。(つづく)



by oji-church | 2018-11-17 11:09 | 牧師からのメッセ-ジ

振り返れば、そこに福音

〈もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい〉(マルコによる福音書9章43節)。

★マルコによる福音書は、「十字架のイエスに従う」をテーマに書かれています。でもこの福音書を読み進めるうちに明らかになるのは、最後までイエス様に従いきることのできた弟子は誰一人いなかったということです。実は弟子にとって、そういう自分たちのふがいない有様を振り返ること以上に、わが身を切るように辛く痛みを伴うことは無かったのではないでしょうか。でもこのマルコによる福音書が訴えているのは、まさにその最も辛いこと、「弟子」を自称しながら、「イエスに従う」ことができず、イエス様を裏切り、見捨てて逃げ去ってしまった自分の情けない姿を振り返り、省みるということ、それをこそするように、ということだったのではないかと思うのです。

★歳を重ねるにつれ、振り返った我が身は情けない姿でしかないことを思い知らされます。でもそれを振り返り、省みる時、ふと気づくことがある。情けない自分の傍らに、一人の誰かがいることに気がつくのです。イエス様がわたしの傍らに、わたしと共におられることに気がつくのです。

★本当のキリストとの出会いとは、痛みを伴いながら自分を振り返り、省みることの中にあるのではないでしょうか。ふがいなく、だらしなく、なさけなく、みっともない自分の傍らにイエス様が共におられることを見いだすこと、そこからもう一度、その、わたしと共におられたその「イエスに従う」という歩みが始まるのです。そしてそれこそが、「命にあずかる」こと、わたしたちにとって本当の意味での「喜ばしい知らせ」、福音なのでしょう。



by oji-church | 2018-11-07 09:31 | 牧師からのメッセ-ジ

一杯の水の中にある「世界」

〈わたしの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける〉(マルコによる福音書9章41節)。

★わたしたちはいくつかの組織に属しながらこの世に生きています。例えば教会に属している。自分の家族に属している。日本という国に属している。わたしたちは、そんな自分の属する組織の中で人生の大半の時間を過ごしています。そこなら気心が知れて、安心して信頼できると思っています。でもここでイエス様が言わるのは、そういう人のことではありません。通りすがりの見ず知らずの人が、自分に一杯の水を与えてくれる。そんな出会いがこの世にはある。そのとき、わたしたちは教えられるのです。自分の属している組織の外にも、人間が、生きているということ、お互いに助け合い、支え合う人間同士の関係がそこにもあるんだということを、です。

★自分の属している組織の外、そこはこの世界全体と言ってもいいでしょう。たった一杯の水が、この世界全体を見直す、広いまなざしをわたしたちに与えてくれることがあるのです。その広いまなざしはおそらく、神様のまなざし、神様がこの世界を見るまなざしなのでしょう。この世界はすべて神様が創られた世界です。だから、神様はこの世界を「敵」と「味方」との色分けして見ることをしません。神様は遠くにおられて、この世界全体を見渡しながら、しかしそれと同時に、旅人に一杯の水を恵む一人の小さな人を見逃すことをしないのです。

★世界全体が「敵」「味方」に色分けされ、分断が進む今の時代、わたしたちに必要なのは、この神様のまなざし、同じ組織に属する仲間内にとどまらない広いまなざし、しかし同時に小さな、見ず知らずの人の人間としての人間らしい温かみを見逃すことのない神様のまなざしを与えられることなのでしょう。



by oji-church | 2018-10-31 12:16 | 牧師からのメッセ-ジ

「願い」の共有としての祈り(2)

★集まってくる子どもたち一人ひとり、とても子どもひとりには抱えきれない問題・課題を背負わされていて、それがゆえに食堂を開くたびに、いろんな問題がここでも沸き起こってきます。ほとんどはすぐには解決のつかない問題です。そういう子どもたちが抱えた問題を、子ども食堂自身も抱え込みながら続けていくので、食堂は毎回、先の見えない中で続けていくことになります。

★それでもみんなで一緒に続けていくうちに、子どもたち一人ひとりの境遇や、行く先について、「こうであったらいいのにな」という「願い」が、皆の間に芽生えてきます。それは自分一人の自分勝手な「ああしたい、こうしたい」という「欲望」ではありません。また大人のボランティアの、「この子はこうなってほしい」という上から目線の「願望」でもなく、子どもたち一人ひとりの小さな声に耳を傾けながら、また子どもたちの仕草や様子をうかがいつつ、子どもたちの言葉にならない気持ちも受けとめて、「こうであったらいいのにな」という願いが、子ども・大人の垣根を越えて、またキリスト教の信仰を持っているかいないかという垣根も越えて、心の奥深いところで、皆が「こうであったらいいのにな」という「願い」を持つようになる。少しずつ、少しずつ、そんなつながりが出来てくるのを感じさせられています。

★「子はかすがい」という言葉がありますが、集まってくる子どもたち一人ひとりが抱えている問題・課題がむしろ、そうして大人たちも巻き込んで、垣根を越えて、同じ願いを分かち合うように結びつけてくれるのを感じるのです。「欲望」でも「願望」でもない、この「願い」こそは、もしかしたら「希望」というものなのかもしれません。そういうことを教えられている、学ばされています。


by oji-church | 2018-10-24 08:42 | 牧師からのメッセ-ジ

「願い」の共有としての祈り(1)

★牧師になって23年になりますが、そのくらい牧師という立場にいると、だんだんと周囲はクリスチャンばかりになってきます。日本の人口の1%に満たないと言われるのがクリスチャンの数ですから、かなりかたよった人付き合いということになるかもしれません。

★子ども食堂を始めるようになって、そこで出会う人は、子どもたちも含めて、いずれもクリスチャンでない人たちばかりです。だったらその人たちに伝道をして、その人たちもクリスチャンになるように努めるのが牧師の務めではないかと言われるかもしれません。でもそういうことは全然していません。わたしの怠慢だと言われればその通りというより他ありません。北区の助成金をいただいていて、そこでは宗教活動や政治活動をしてはならないことになっているので、という言い訳あるのですが。願わくは、このことにいそしんでいるわたしや、教会員の方たちの「後ろ姿」を見て、キリスト教の信仰というものを受けとめてもらえればと思ってはいますが、どうもそうはならないところを見ると、そもそもわたしの「後ろ姿」がちっとも信仰深そうではないから、なのだと悲しく合点するところです。

★でも、そうしてクリスチャンでない方たちと一緒に協力して、地道に活動を積み上げていく中から、わたし自身が教えられることは、本当に豊かにあることを感じさせられています。ボランティアとしてお手伝いくださる方からも、集まってくる子どもたちからもです。何を教えられるのかと問われてもうまく言葉にできない気もしますが、あえて言えば、人間誰しもの奥深いところに秘められている「願い」のようなものを一緒に感じ取り、それを共有していくことです。(つづく)


by oji-church | 2018-10-19 15:18 | 牧師からのメッセ-ジ
「欠けたるところにイエス生き給う」(2)

★わたしの命を、わたし一人で、自分ひとりの持ち物のように思って生きている時には、歳を重ねて自分でできることが減り、できないことが増え、そうして自分というものが小さくなっていく、そんな小さくなっていくばかりの人生をただただ生きていくことに一体どんな意味があるだろうと思えるでしょう。だけれども、できることが一つまた一つと自分の手からこぼれ落ちるように減っていき、自分というものが小さくなっていくことが、しかし同時に、一つまた一つとイエス様がわたしたちの傍らに、人の痛み、悲しみ、寂しさに寄り添って生きるようになって行く、イエス様の命が膨らんでいくことだとすれば、たとえどんなにわたしたちの「自分」が小さくなっていったとしても、それは意味あることなのではないでしょうか。そんな見えないイエス様の命を、わたしたちの命の傍らに見いだすことこそが、パウロが語る「イエスの死を体にまとって生きる」ということなのではないかと思うのです。「イエスの死を体にまとって生きる」ことは、同時にまた「イエスの命がわたしたちのこの体に現れてくる」ということでもあるのです。

★実はわたしたちのこの命はすり減って、やがて無くなってしまうのではない、見えないところで、わたしたちの欠けたる命がイエス様の命として生きるようになっていく。やがてわたしたちはこの命を、イエス様の命として生きる者となっていく。そういう希望をパウロは語っているのだと思います。

★わたしたちはこの命を、自分一人で、自分一人の持ち物のように生きているのではない。見えないところで、わたしたちの「できない」ところで、わたしたちの欠けたるところで、イエス様が共に生きておられる。そのことを心に刻んで、日々新たに生かされる者でありたいと願います。



by oji-church | 2018-10-10 09:54 | 牧師からのメッセ-ジ

「欠けたるところにイエス生き給う」(1)


〈わたしたちはいつも、イエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために史にさらされています、死ぬはずのこの胃にイエスの命が現れるために。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章10〜11節)

★パウロという人は、その体に何らかのしょうがいを負っていたと言われています。そしてこのコリントの信徒への手紙を書いた頃には、当時としてはだいぶ高齢にもなっていたと思います。人並み以上に、自分でできることが減っていくのを実感していただろうと思います。でもパウロがそのことを寂しがっている様子はありません。なぜだろうか。ここのところでパウロが語っていることを繰り返し読みながら、わたしは、パウロはこんなふうに感じていたのではないかと想像するのです。

★パウロもまたわたしたちと同じように、歳を重ねるにつれて、一つまた一つと自分でできることは少なくなっていくのを実感していたことだろう。だけれども、その一つ一つ減っていく「自分でできること」が、どこかへ消え去ってすっかり無くなってしまう、というようには思っていなかったのじゃないか。むしろ、歳を重ね、自分でできることが一つ減り、二つ減り、できないことが一つ増え、二つ増えしていく、その度ごとに、そうやって自分の欠けたところ、「自分」というものが小さくなったところに、その隙間、空白に、実は一つまた一つと新しいものが芽生えているんだ。新しいものが生まれているんだ。それは何かといえば、イエス様の命だ。このわたしと共に生きるイエス様の命が、このわたしのできなくなったところ、ままならなくなったところ、欠けたるところに、一つまた一つと芽生え、生まれているのだと、そんなふうにパウロは感じ受けていたのではないかと。(つづく)



by oji-church | 2018-10-03 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ

「目には見えないかんじんなこと」(3)


★「これはわたしの愛する子、これに聞け」。この言葉は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に響いた声を思い起こさせます。マルコによる福音書の初めのその場面にはこんな声が響いています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

★この言葉は、イエス様一人が神様から受けた言葉ではなく、この世に生きているわたしたちみんながイエス様と一緒に受けている言葉だと思います。この場面でもやはり、「これはわたしの愛する子」という声は、イエス様一人が受けている声ではなく、この世に生きるわたしたちみんなが受けている声なのだと思うのです。そしてこのこと、わたしたちみんなが神様から「わたしの愛する子」という声を掛けられているということの方が、目に見える「すばらしい」光景よりもずっと大事なんだということ。

★イエス様がモーセやエリヤといったビッグネームと語り合っている「すばらしい」光景が雲の隠れて見えなくなった後にこそ、この声は響きます。それは暗にこういうことを語っているのではないかと思うのです。「かんじんなことは目に見えない」ということを。

★後には、辺りを見回してみても「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられ」ます。そのイエス様の服は、真っ白に輝くものではなく、風に埃に汚れた服だったでしょう。でも、「ただイエスだけ」と言われる「ただ」のイエス様、そしてイエス様はじめ、生きている「ただ」の人間の奥底には、「どんなさらし職人の腕も及ばないほど真っ白な」すばらしいもの、、神様から「かけがえのないもの」としてもらっているという、「目に見えないかんじんなこと」が秘められているのでしょう。


by oji-church | 2018-09-26 11:47 | 牧師からのメッセ-ジ

「目には見えないかんじんなこと」(2)


★ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちもイエス様の山登りに同行させられます。そして山の上で三人の弟子たちは不思議な光景を目撃します。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』」。

★確かにこれはペトロが言うように「すばらしい」光景です。エリヤもモーセも伝説の預言者です。自分の師匠であるイエス様が、そんなビッグがネームと肩を並べて語り合っているのを見て、ペトロが感激したのもうなずけます。ペトロはこの「すばらしい」光景をいつまでも見ていたかったのでしょう。ここに三つの仮小屋を建てましょうと提案します。でも、聖書はこのペトロの提案にとりあう様子はまったくありません。ペトロは「非常に恐れていたので、どう言えばよいか分からず、こんなことを言ったのだ」と語られています。その後、すぐに雲が現れて、この「すばらしい」光景を覆い隠してしまいます。そしてただ声だけが響くのです。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。実は大事なのは、目に見えるあの「すばらしい」光景の方ではなく、「すばらしい」光景が目には見えなくなった後に響くこの声の方ではないかと思うのです。(つづく)


by oji-church | 2018-09-18 09:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「目には見えないかんじんなこと」(1)

〈六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。〉(マルコによる福音書9章2節)

★イエス様が、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られ、そこでその姿が変わるという場面です。山のてっぺんに登ると、やがて自分よりも上に見えるのは空だけになります。聖書では、空、天というのは神様のいるところとされています。ですから、山に登るというのは、神様に会いに行くということなのです。
★なぜイエス様がここで山に登ったのかは語られていません。この前の場面で、イエス様は弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と繰り返し尋ねています。ペトロはすぐさま「あなたはメシアです」と優等生的な答えをしますが、イエス様はそれを「誰にも言うな」と戒めています。その後でペトロはイエス様から「サタンよ、引き下がれ」とまで厳しく叱られているところを見ると、イエス様はこのペトロの答えに納得していないようです。
★山に登るとは神様に会いに行くということだとすると、こんなことを想いえがくのです。もしかすると、イエス様自身でも、自分が「何者なのか?」分からないところがあったのではないかと。自分が「何者」なのかよく分からないけれども、自分がこれから進んでいく道は、聖書に語られているように、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」てしまうような、辛く厳しい道であることが予感される。それで、イエス様は「わたしはいったい何者なのでしょうか?」、そう神様に尋ねるために、山に登っていった、神様に会いに行ったのではないかと。(つづく)
by oji-church | 2018-09-12 09:37 | 牧師からのメッセ-ジ