人気ブログランキング |

日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

2019年 08月 06日 ( 3 )

涙のわけ(2)

〈ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。〉(マルコによる福音書14章60節)。

★ペトロの心の奥底、いのちの奥底にはガリラヤのなまりが根付いていました。それは、自分も誰かからかつて慈しみを込めて語りかけられた者だ、という懐かしさと共に。そしてまた、ペトロの心の奥底には、イエス様から慈しみを込めて語りかけられた経験も根付いていたことでしょう。ガリラヤのなまりから、自分が「イエスの仲間」であることが露見し、それを「呪いの言葉さえ口にしながら」打ち消すことによって、ペトロは自分自身に与えられた言葉を呪い、そうすることで自分自身を呪い、自分自身を見捨ててしまったのです。自分に与えられた言葉を呪ってしまったペトロに、もはや言葉は残されていませんでした。だから、ペトロは、言葉無く、ただ「いきなり泣きだした」のです。

しかし、ペトロが自分で自分を見捨ててしまった時、もう一人、見捨てられた人がいました。ペトロは、自分で自分を見捨ててしまったその境遇に絶望して泣きながら、ふともう一人、いま、自分と同じ境遇に置かれている人がいることに気づかされたのではないでしょうか。そう、イエス様がいることに。ひとたびは「イエスなど見捨てられよ」と呪いの言葉を口にしたペトロですが、しかしその言葉を口にすることで自分で自分を見捨ててしまったペトロが、その自分の傍らに見いだしたのは、見捨てられた自分になお寄り添いともなって共におられるイエス様の姿だったのです。この場面は、最後にペトロが一人で泣いている場面のようでありながら、この場面は実は、言外にペトロとイエス様の再会を物語っているのではないかとわたしは思うのです。


by oji-church | 2019-08-06 15:57 | 牧師からのメッセ-ジ

涙のわけ(1)

〈ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。〉(マルコによる福音書14章60節)。

★わたしたちの心の奥底には、自分ではきづくことのできないほんとうの自分の姿、言葉にならない自分の姿があります。そんな自分を人から指摘されたとき、わたしたちはしばしば恥ずかしさのあまり、かえって怒って耳を貸さなくなってしまうものです。ペトロはここで、自分の惨めさ、情けなさに直面し、打ちひしがれて泣きました。しかし泣きながら、ただ自分の惨めさを嘆く涙からやがて、この泣き声をイエス様が聴き受けておられ、自分の心の奥底の、自分では気づくこともできない自分のほんとうの姿までをも、イエス様が命を賭して受けとめてくださっていることを感じ、ペトロは、そのイエス様に心寄せて、一層声を挙げて共感の涙を流したのではないでしょうか。それゆえにこそペトロは後に、立ち上がって、そのイエス様に心寄せて共感して、出会う人々にイエス様を宣べ伝え、またその人々に心寄せて共感してゆく伝道者となっていったのでしょう。こうしてペトロの涙はやがて、イエス様の涙へと変えられていったのだと思います。

★生きていくなかで、自分の胸の奥底に秘められた自分でも気づかない自分の弱さ、惨めさに直面し、打ちひしがれ、涙しなければならない日があることは確かです。しかしその涙は、自分一人の孤独な涙ではなく、イエス様に受けとめられ、イエス様につながっていることを覚えたいと思うのです。そしてまた、イエス様を通じて、他者への共感へと繋がっていることも。そうして、わたしたちの流す涙が、イエス様の涙へと変えられていくことを、祈り願ってゆきたいと思うのです。


by oji-church | 2019-08-06 15:55 | 牧師からのメッセ-ジ

真実のありか(2)

〈そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け、何もお答えにならなかった。〉(マルコによる福音書14章60節)。

★イエス様が裁判を受ける場面では、イエス様に不利な偽証をする人々が次々に立ち、イエス様をおとしめていきます。しかしその中で、イエス様は何も語りません。イエス様は黙り続けたまま、唾を吐きかけられ、目隠しをされ、殴りつけられ、からかわれ、平手で打たれます。このイエス様の姿は何を表しているのでしょうか。

★それは、イエス様が今ここに「生きている」ということではないでしょうか。イエス様は、いまご自分がここに生きているということを、言葉で説明するのではなく、ただじっと黙ったまま、その体でわたしたちに伝えようとしているのではないか。真実をないがしろにし、自分で自分に目隠しをし、自分が何をやっているのか分からなくなっていく混乱した時代の中で、わたしたちが立ち返るべきなのは、このイエス様の姿なのです。黙ったまま、殴られ、目隠しされ、嘲られ、打たれているイエス様の姿。人が痛めつけられ、苦しめられている姿です。

★どんなに真実がないがしろにされたとしても、どうしたって打ち消しようのない真実が一つあります。それは、わたしたちが今ここに「生きている」という事実です。今ここに生きて、痛みを負い、苦しんでいる人がいるということ。ここに語られるイエス様の姿は、そうした「生きている」人々の傍らに、いまもなお共にあるイエス様を現しているのだと思うのです。この時代にあって、わたしたちが立ち返るべきなのは、このイエス様、黙ってはいるけれども、その痛む体を携えて、確かに「生きている」イエス様、また、「生きている」人々のもとなのでしょう。



by oji-church | 2019-08-06 15:47 | 牧師からのメッセ-ジ