人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

6月1日の週報コラム「ひだり手」

「ふたりでひとり」

《「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 》(ルカによる福音書10:36~37)

★律法の専門家の「わたしの隣人とはだれですか」と問いかけから始まった話が、最後のイエス様の問いかけは、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」という問いに入れ替わっています。
★「だれがわたしの隣人か」という問いは、自分は「人を助ける立派ないい人」という立場から一歩も動こうとしない問いです。一方「だれが隣人となったか」という問いかけは、新たに「隣人となっていく」という、動きのある問いかけです。自分は「人を助ける立派ないい人」という立場から一歩も動こうとしない姿勢からは、本当に「隣人」となる関係は生まれてこないと思います。本当に「隣人」となるというのは、助け、助けられる関係を形づくっていくということです。そのためには、自分自身の心の中に、弱く傷つき、痛みを負って、助けを求めている、不安や、絶望や、寂しさがあるのだということを、よく見つめてみること、それを自分自身の大切な一部として受けとめ、打ち明けることができる、そういう姿勢が必要なのでしょう。
★イエス様が指し示しているのは、単に「人を助けるいい人になりなさい」ということではなくて「隣人になりなさい」という教えです。隣人になる、ということは、ただ「助ける者になる」というだけでなく、「助けられる者になる」ということでもあるのではないでしょうか。「助ける者」と「助けられる者」がいて、始めて、隣人同士という関係が成り立つのですから。「追いはぎに襲われた人」と「サマリア人」とふたりが居て、それそれで始めて、一人前の隣人同士なのです。(5月25日の礼拝説教より)(おおくぼ)
by oji-church | 2008-06-04 12:36 | 牧師からのメッセ-ジ