3月2日の週報コラム「ひだり手」
★世の中に、「惨めにならないために」「墜ちてしまわないように」「立派でありつづけるように」と呼びかけ、アドバイスする警句や、戒めや、道徳は、数限りなくあることでしょう。けれどもじゃあ、ひとたび「惨めになってしまった者」「墜ちてしまった者」のの助け、救いとなる声はどこに響いているのか。「しちゃったヤツ」「やっちゃったヤツ」という烙印を、消し去る力はなかなか見いだされません。それはもしかしたら、わたしたちのこの社会が、教会までもが、躍起になって、力を「強さ」「立派さ」の中にばかり、探し求めているからなのかもしれません。
★「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)。この言葉を単にスローガンとしてではなく、自らの体をもって、「十字架に付けられてしまったままの姿」でもって示した方がおられた。確かにその「十字架に付けられてしまったままの姿」でもって、その弱さによって、キリストはパウロを蘇らせ、一人の死刑を宣告された人の慰めとなった、力となった人がいるのです。
★「やってしまった」労苦を、必死になって打ち消すのではなく、その労苦を労苦のままに共に担って歩み、労苦を労苦のままに自らの身をもって、みずからの惨めで弱々しいありのままの姿でもって祝福してくださるキリストがおられる。そのことを心に刻み、ありのままの姿で、「してしまった」「やってしまった」姿のままで励まされ、慰められるのが、信仰の道というものなのでしょう。
★ならば、信仰の道とは、決して苦労や労苦をかき消し、取り除かれる、安楽で華やかな道ではないのかもしれません。むしろ苦難を苦難として直視する道であるといってもよいでしょう。けれど、その苦しい道のりを、自らの弱さ、惨めさをそのままに「十字架に付けられてしまった姿」のままに共にしてくださるキリストがおられるという、他の何者も示すことができなかった力、「弱さの力」を与えられるのもまた、信仰の道のりに違いありません。(2月24日の礼拝説教より)