1月13日の週報コラム「ひだり手」
★新しい年が明けて、わたしにとっては、東京という大きな街の教会の牧師となって、3年と4ヶ月がたったことになりました。地方(といっても千葉ですが)の、ヒマではないけれど、どこかノンビリした教会とその周りの環境から飛び込んできました。
★もともと東京生まれの東京育ちでしたが、東京で「牧師」という人と触れあう仕事をするのがこれが初めてです。不安もありましたし何をどうしたらいいのか分からない面も多々ありました。これまでの3年間は教会の会堂建築の働きに紛れて、改めて東京にある教会ということを意識しながら、教会について根本的に考えることは出来ませんでしたし、敢えて避けてきた面もあったかもしれません。
★が、やはり改めて腰を据えて考えてみなければいけないのだろうというのが、今年の念頭に沸き上がった思いでした。やっぱり東京といえば、人の数も多く、個性も、課題や悩みも、いろいろ抱えた人がいるのだな、というのが率直な思いです。そしてとりわけ、このところ社会でも大きくクローズアップされている「格差」ということも、多くの人と触れ合う中で身近な事柄として、如実に感じさせられることです。
★教団の中では教会の「高齢化」の中で「教勢」や「伝道」とりわけ「若者への伝道」といったことが大きく課題として挙げられています。しかし、そういう抽象的に煽られた危機感は結局、闇雲に競争を煽り、一人ひとりの人の個性や多様性、個々の人の悩みや痛みを押しつぶしながら、ただ組織の数字上の延命をめざすものになっていってしまうでしょう。
★わたしたちの教団は、かつての戦時下、教団という「組織」を守るために、一つ一つの教会の課題、一人ひとりの教会に集う人々の悩みはうち捨て、切り捨てて、ひとかたまりに戦争への協力へと突き進んできた歴史があります。いま、教会にとっても、国内、あるいは世界の情勢にとっても危機的な状況の中で、単に危機感に煽られるのではなくて、どれだけ冷静になって〈個〉や〈多様性〉を尊重しながら一人ひとりの「いのちの事柄」に触れあい、寄り添うことができるか、それこそが問われているように思います。(大久保)