12月2日の週報コラム「ひだり手」
★今週から教会の暦では待降節(アドヴェント)に入ります。「アドヴェント」とは、「到来」という意味の言葉です。クリスマスの4週間前からキリストの到来を待ち望むということです。古くはこの時期は、断食の季節であったとも言われます。
★この時期になると、思い起こす讃美歌があります。「讃美歌21」の244番「キリストは明日おいでになる」という歌です。こんな歌詞です。「キリストは明日おいでになる、この世が闇に閉ざされても、客間はあふれ余地なくても、きのうこられたみ子のように」。「この世はいまもあらたまらず、み子はこられるうまやのなか。十字架に主をくぎづけにし、墓におさめた時のままだ」。
★クリスマス前の華やいだ街の雰囲気とは裏腹に、あまり明るい歌ではありません。曲調もマイナーコードです。ですが、この歌の歌詞が、ある面で現代のクリスマスの真実を言い表しているように思えてなりません。
★イエスの生涯が示すのは、わたしたちにとって「福音」となるべきものを、人間が自身の自己中心的な願望のために、十字架にくぎづけにし、墓に納めてしまったということです。教会に集うわたしたちは、そのことを改めて「福音」として告げ知らせられて、心新たに歩み出した者の集まりのはずですが、教会もまた、現代にあって、この「福音」よりも、教会の栄光、教会の繁栄を追い求めているようであります。そしてわたしたちを含めた「この世」はいまもまだ「あらたまらず」、み子は「うまやのなかにこられる」のです。
★けれども、そうしたわたしたちの振る舞いのすべてを越えて、「キリストは明日おいでになる」。「この世が闇に閉ざされても、客間はあふれ余地なくても」。わたしたちの思惑や、振る舞いを全て乗り越えて到来する、み子の誕生を、真に「福音」として、もう一度受けとめることができればと願うものです。