9月20日の週報コラム「ひだり手」
信仰の不思議なありか
〈あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。〉(ローマの信徒への手紙1章12節)
★第二次大戦下、ナチスに抵抗して闘ったカール・バルトという神学者が、この箇所についてこんなことを言っています。「神様の道で出会う人たちは、互いに分かち合うべきものを持っている。でもそれは実は、その人たちが『持っているもの』ではなくて、むしろ、その人が『持っていないこと』によってこそ、人は出会う人と、何かを分かち合うことができるのだ」と。そしてこうも言います。「使徒とは、プラスの人間ではなく、マイナスの人間なんだ。持っていないことが他の人から見えるようになる人間なんだ」と。
★わたしたちは、教会という、信仰を持つ人たちが集まるとされる場所に毎週集まって、神様を賛美し、神様に向かってお祈りし、神様の言葉を聴くという、いかにも信仰を持つ人がやることをやっています。ところが実は多くの人が「あなたの持っている信仰って、どんなものですか。見せてください」と言われたら、戸惑ってしまうのです。わたし自身も含めて。でもそんな、確かなものを何一つ持っていないわたしたちが出会って、とにもかくにも教会という場に集い、讃美歌を歌い、お祈りし、聖書の言葉を聴く。誰も確かなものを持っていないから、誰も上に立つことはできないから、仕方なしに一緒に横に並んでお互いに呼びかけあい、声を掛け合う。でも、そんな中から不思議にも「信仰」というものが立ち現れて、わたしたちを慰めもし、励ましもするのだ、と。そんな信仰というものの不思議な来歴、不思議なありかをパウロはここで語っているのだと思います。