8月4日に週報コラム「ひだり手」
涙のわけ(2)
〈ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。〉(マルコによる福音書14章60節)。
★ペトロの心の奥底、いのちの奥底にはガリラヤのなまりが根付いていました。それは、自分も誰かからかつて慈しみを込めて語りかけられた者だ、という懐かしさと共に。そしてまた、ペトロの心の奥底には、イエス様から慈しみを込めて語りかけられた経験も根付いていたことでしょう。ガリラヤのなまりから、自分が「イエスの仲間」であることが露見し、それを「呪いの言葉さえ口にしながら」打ち消すことによって、ペトロは自分自身に与えられた言葉を呪い、そうすることで自分自身を呪い、自分自身を見捨ててしまったのです。自分に与えられた言葉を呪ってしまったペトロに、もはや言葉は残されていませんでした。だから、ペトロは、言葉無く、ただ「いきなり泣きだした」のです。
しかし、ペトロが自分で自分を見捨ててしまった時、もう一人、見捨てられた人がいました。ペトロは、自分で自分を見捨ててしまったその境遇に絶望して泣きながら、ふともう一人、いま、自分と同じ境遇に置かれている人がいることに気づかされたのではないでしょうか。そう、イエス様がいることに。ひとたびは「イエスなど見捨てられよ」と呪いの言葉を口にしたペトロですが、しかしその言葉を口にすることで自分で自分を見捨ててしまったペトロが、その自分の傍らに見いだしたのは、見捨てられた自分になお寄り添いともなって共におられるイエス様の姿だったのです。この場面は、最後にペトロが一人で泣いている場面のようでありながら、この場面は実は、言外にペトロとイエス様の再会を物語っているのではないかとわたしは思うのです。