7月28日の週報コラム「ひだり手」
涙のわけ(1)
〈ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。〉(マルコによる福音書14章60節)。
★わたしたちの心の奥底には、自分ではきづくことのできないほんとうの自分の姿、言葉にならない自分の姿があります。そんな自分を人から指摘されたとき、わたしたちはしばしば恥ずかしさのあまり、かえって怒って耳を貸さなくなってしまうものです。ペトロはここで、自分の惨めさ、情けなさに直面し、打ちひしがれて泣きました。しかし泣きながら、ただ自分の惨めさを嘆く涙からやがて、この泣き声をイエス様が聴き受けておられ、自分の心の奥底の、自分では気づくこともできない自分のほんとうの姿までをも、イエス様が命を賭して受けとめてくださっていることを感じ、ペトロは、そのイエス様に心寄せて、一層声を挙げて共感の涙を流したのではないでしょうか。それゆえにこそペトロは後に、立ち上がって、そのイエス様に心寄せて共感して、出会う人々にイエス様を宣べ伝え、またその人々に心寄せて共感してゆく伝道者となっていったのでしょう。こうしてペトロの涙はやがて、イエス様の涙へと変えられていったのだと思います。
★生きていくなかで、自分の胸の奥底に秘められた自分でも気づかない自分の弱さ、惨めさに直面し、打ちひしがれ、涙しなければならない日があることは確かです。しかしその涙は、自分一人の孤独な涙ではなく、イエス様に受けとめられ、イエス様につながっていることを覚えたいと思うのです。そしてまた、イエス様を通じて、他者への共感へと繋がっていることも。そうして、わたしたちの流す涙が、イエス様の涙へと変えられていくことを、祈り願ってゆきたいと思うのです。