7月21日の週報コラム「ひだり手」
真実のありか(2)
〈そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け、何もお答えにならなかった。〉(マルコによる福音書14章60節)。
★イエス様が裁判を受ける場面では、イエス様に不利な偽証をする人々が次々に立ち、イエス様をおとしめていきます。しかしその中で、イエス様は何も語りません。イエス様は黙り続けたまま、唾を吐きかけられ、目隠しをされ、殴りつけられ、からかわれ、平手で打たれます。このイエス様の姿は何を表しているのでしょうか。
★それは、イエス様が今ここに「生きている」ということではないでしょうか。イエス様は、いまご自分がここに生きているということを、言葉で説明するのではなく、ただじっと黙ったまま、その体でわたしたちに伝えようとしているのではないか。真実をないがしろにし、自分で自分に目隠しをし、自分が何をやっているのか分からなくなっていく混乱した時代の中で、わたしたちが立ち返るべきなのは、このイエス様の姿なのです。黙ったまま、殴られ、目隠しされ、嘲られ、打たれているイエス様の姿。人が痛めつけられ、苦しめられている姿です。
★どんなに真実がないがしろにされたとしても、どうしたって打ち消しようのない真実が一つあります。それは、わたしたちが今ここに「生きている」という事実です。今ここに生きて、痛みを負い、苦しんでいる人がいるということ。ここに語られるイエス様の姿は、そうした「生きている」人々の傍らに、いまもなお共にあるイエス様を現しているのだと思うのです。この時代にあって、わたしたちが立ち返るべきなのは、このイエス様、黙ってはいるけれども、その痛む体を携えて、確かに「生きている」イエス様、また、「生きている」人々のもとなのでしょう。