6月23日の週報コラム「ひだり手」
「弱さ」と「決断」
〈アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。〉(マルコによる福音書14章36節)
★イエス様は間もなく自分が逮捕され、侮辱された上に、殺されることを予期しています。そんな事態にならないようにと願い訴え祈るイエス様の姿は、「神の子」「救い主」らしからぬ人間的な弱さを露わにしています。でも、そのすぐ後にイエス様はこうも祈っています。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。こちらは人間的な弱さよりも、神様のみこころを優先させる信仰深い姿が示されています。そういうイエス様の信仰深い姿が信仰の模範として示されるか、あるいは、自分の思いを犠牲にしてまで、人々の救いのために十字架の道を進まれたイエス様の救いの業の尊さが強調されます。だけれどもその時には、前半部分の「この杯をわたしから取りのけてください」というイエス様の祈りは忘れ去られています。
★ここには、「この杯を取りのけてください」という人間的な弱さと、「しかし、わたしの願いではなく、御心が行われますように」という神様に信頼を寄せる思いと、二つの思いが交差して、その間で行きつ戻りつ逡巡しているイエス様の姿がうかがえます。果敢に覚悟を決めて十字架の道へと突き進んでいくイエス様よりも、弱さと信仰の間で逡巡して、行きつ戻りつしているイエス様の方に、わたしは心引かれます。
★問題はその傍らで眠っている弟子たちです。弟子たちは「誰が一番偉いか」と自分たちの「強さ」を競っていましたが、自分の傍らに、人間の「弱さ」があることを忘れてしまっています。そんな弟子たちにイエス様は「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と告げられます。そこには、人間の弱さに目を覚まして、その弱さをお互いに守り支え合いながら、「いのちを守る」信仰の決断へと共に歩み出していくようにと告げるイエス様がおられるように思うのです。