5月26日の週報コラム「ひだり手」
その体に触れて(1)
〈イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注いだ。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」〉(マルコによる福音書14章3〜5節)
★「憤慨して言う」「厳しくとがめる」と重ねて言われているところに、この人たちの彼女に対する強い不満と叱責がうかがい知れます。彼らは口では「香油の無駄遣いではないか。これを売って貧しい人たちに施すことができたのに」と殊勝なことを言っていますが、彼らが胸の内で思っていたのは、こういうことだったろうと想像できます。「女ごときが人の前に堂々と現れて、挨拶もなく、イエス様の体に触れて、香油をバシャバシャ注ぐとは、飛んだ無作法で非常識な女だ」と。彼らは、彼女がなぜイエス様の頭に香油を注いだのか、その意味を理解していないのです。
★でも、わたしたち自身、彼女がイエス様に香油を注ぎかけたその意味を、本当に理解しているでしょうか。後の方でイエス様は彼女の振る舞いを「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言って感謝しています。実際、壺を壊す行為は、亡くなった人の体に油を塗って、その油の瓶を壊して遺体の傍らに置く風習を表しています。イエス様の頭に香油を注ぐ行為は、亡くなった人の体を香油で清める行為そのものを表しています。でも死人に施すようなそんなことをされるのは縁起でもない、やめてくれと思うのが普通でしょう。でもイエス様はその彼女の振る舞いを喜び、感謝しているのです。わたしたちは果たして本当に、彼女のこの振る舞いと、それを喜び感謝するイエス様の思いを理解していると言えるでしょうか。(つづく)