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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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2月24日(日)の週報コラム「ひだり手」

生きる苦しみの底から(1)

〈バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。〉(マルコによる福音書10章46〜48節)

★「憐れむ」という漢字は「心」に「隣り」と書きます。聖書のギリシア語でもこの「憐れむ」という言葉は「同情を懐く」というような意味の言葉です。「憐れむ」も「同情」も最近の日本語の語感としてはあまり良い感じがしませんが、もともとは「同じ気持ちになる」という意味です。最初バルティマイは、いつものようにお金を乞うときの決まり文句として「わたしを憐れんでください」と言っていたのかもしれません。けれども人から叱られてもそれでも止めずに繰り返し叫んでいるうちに、それはいつもの文句であることを越えて、もっともっと深い思いがこもるようになっていったのではないかと想像するのです。「わたしを憐れんでください」「わたしの心の隣に寄り添ってください」、そして「わたしと同じ気持ちになってみてください」と。

★しょうがいを負うがゆえに一人前の人間と見なされず、生きていく上で当たり前の願いや希望を持った一人の人間として生きることを許されず、自分の命の主役として生きることを許されず、人々が普通に歩く道の上を歩くことを許されず、道ばた、道の脇に座り、あたかもそこに放り置かれた命のない、心を持たないモノのように、かすかに生きることだけを許された自分、このわたしのこの気持ちを、どうか感じ受けてほしいと、あなたがダビデの子、ナザレのイエスだと言うのなら。そんな願いになっていったのではないだろうか。この「わたしを憐れんでください」という叫びは。

★イエス様は、そんなバルティマイの深い深いところから湧き上がってくる叫びを聞いたのではないでしょうか。


by oji-church | 2019-02-26 16:39 | 牧師からのメッセ-ジ