日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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10月7日の週報コラム「ひだり手」

「欠けたるところにイエス生き給う」(2)

★わたしの命を、わたし一人で、自分ひとりの持ち物のように思って生きている時には、歳を重ねて自分でできることが減り、できないことが増え、そうして自分というものが小さくなっていく、そんな小さくなっていくばかりの人生をただただ生きていくことに一体どんな意味があるだろうと思えるでしょう。だけれども、できることが一つまた一つと自分の手からこぼれ落ちるように減っていき、自分というものが小さくなっていくことが、しかし同時に、一つまた一つとイエス様がわたしたちの傍らに、人の痛み、悲しみ、寂しさに寄り添って生きるようになって行く、イエス様の命が膨らんでいくことだとすれば、たとえどんなにわたしたちの「自分」が小さくなっていったとしても、それは意味あることなのではないでしょうか。そんな見えないイエス様の命を、わたしたちの命の傍らに見いだすことこそが、パウロが語る「イエスの死を体にまとって生きる」ということなのではないかと思うのです。「イエスの死を体にまとって生きる」ことは、同時にまた「イエスの命がわたしたちのこの体に現れてくる」ということでもあるのです。

★実はわたしたちのこの命はすり減って、やがて無くなってしまうのではない、見えないところで、わたしたちの欠けたる命がイエス様の命として生きるようになっていく。やがてわたしたちはこの命を、イエス様の命として生きる者となっていく。そういう希望をパウロは語っているのだと思います。

★わたしたちはこの命を、自分一人で、自分一人の持ち物のように生きているのではない。見えないところで、わたしたちの「できない」ところで、わたしたちの欠けたるところで、イエス様が共に生きておられる。そのことを心に刻んで、日々新たに生かされる者でありたいと願います。



by oji-church | 2018-10-10 09:54 | 牧師からのメッセ-ジ