日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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9月30日の週報コラム「ひだり手」

「欠けたるところにイエス生き給う」(1)


〈わたしたちはいつも、イエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために史にさらされています、死ぬはずのこの胃にイエスの命が現れるために。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章10〜11節)

★パウロという人は、その体に何らかのしょうがいを負っていたと言われています。そしてこのコリントの信徒への手紙を書いた頃には、当時としてはだいぶ高齢にもなっていたと思います。人並み以上に、自分でできることが減っていくのを実感していただろうと思います。でもパウロがそのことを寂しがっている様子はありません。なぜだろうか。ここのところでパウロが語っていることを繰り返し読みながら、わたしは、パウロはこんなふうに感じていたのではないかと想像するのです。

★パウロもまたわたしたちと同じように、歳を重ねるにつれて、一つまた一つと自分でできることは少なくなっていくのを実感していたことだろう。だけれども、その一つ一つ減っていく「自分でできること」が、どこかへ消え去ってすっかり無くなってしまう、というようには思っていなかったのじゃないか。むしろ、歳を重ね、自分でできることが一つ減り、二つ減り、できないことが一つ増え、二つ増えしていく、その度ごとに、そうやって自分の欠けたところ、「自分」というものが小さくなったところに、その隙間、空白に、実は一つまた一つと新しいものが芽生えているんだ。新しいものが生まれているんだ。それは何かといえば、イエス様の命だ。このわたしと共に生きるイエス様の命が、このわたしのできなくなったところ、ままならなくなったところ、欠けたるところに、一つまた一つと芽生え、生まれているのだと、そんなふうにパウロは感じ受けていたのではないかと。(つづく)



by oji-church | 2018-10-03 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ