9月23日の週報コラム「ひだり手」
「目には見えないかんじんなこと」(3)
★「これはわたしの愛する子、これに聞け」。この言葉は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に響いた声を思い起こさせます。マルコによる福音書の初めのその場面にはこんな声が響いています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
★この言葉は、イエス様一人が神様から受けた言葉ではなく、この世に生きているわたしたちみんながイエス様と一緒に受けている言葉だと思います。この場面でもやはり、「これはわたしの愛する子」という声は、イエス様一人が受けている声ではなく、この世に生きるわたしたちみんなが受けている声なのだと思うのです。そしてこのこと、わたしたちみんなが神様から「わたしの愛する子」という声を掛けられているということの方が、目に見える「すばらしい」光景よりもずっと大事なんだということ。
★イエス様がモーセやエリヤといったビッグネームと語り合っている「すばらしい」光景が雲の隠れて見えなくなった後にこそ、この声は響きます。それは暗にこういうことを語っているのではないかと思うのです。「かんじんなことは目に見えない」ということを。
★後には、辺りを見回してみても「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられ」ます。そのイエス様の服は、真っ白に輝くものではなく、風に埃に汚れた服だったでしょう。でも、「ただイエスだけ」と言われる「ただ」のイエス様、そしてイエス様はじめ、生きている「ただ」の人間の奥底には、「どんなさらし職人の腕も及ばないほど真っ白な」すばらしいもの、、神様から「かけがえのないもの」としてもらっているという、「目に見えないかんじんなこと」が秘められているのでしょう。