8月5日の週報コラム「ひだり手」
★神様から見られて「恥ずかしい」ことって一体何でしょうか。わたしたちは神様によって創られ、神様によって愛されて、この世に生きる者とされたというのが、聖書に語られていることです。神様によって愛されるわたしたちは、神様との間に約束を交わして生きる。神様と共に、神様に従って生きるという約束。それは、神様がこの世に生きるすべての命を愛していつくしむ限り、わたしたちもまた、この世に生きるすべての命を大切にして生きるということでしょう。しかしわたしたちは、時に、神様に従うよりも、この世の力ある人に従って生き、人間同士の争いに加わったり、誰かを見下し、邪魔にして排除してしまったり、この世に生きるすべての命を大切にして生きるという神様との約束を破ってしまう。それが神様から見られて「恥ずかしい」ことではないか。
★第二次世界大戦中にドイツでナチスに抵抗して逮捕されて収容所に送られ、処刑された牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーが、「恥」についてこんなふうに語っています。「恥は、人間の分裂を知った時に発生する」。つまり、わたしたちが神様と(誰かと)約束を交わす。その約束を守ることができれば、わたしたちは自分のことをまっとうな人間だと思える。だけれども、わたしたちは時にその約束を破ってしまうことがある。その時、わたしたちは、約束を交わした自分と、交わした約束を破ってしまう自分と、二つの自分に引き裂かれてしまう。その時に「恥」が生まれる。これこそが、神様に対して「恥ずかしい」と思う「恥」なのでしょう。(つづく)