5月6日の週報コラム「ひだり手」
〈あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教をした。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。〉(マルコによる福音書5章11~12節)
★ここを読むと、自分を迎え入れてくれない人に向かって、「お前らなど、神様から救ってもらえないぞ」と負け惜しみを言い、後ろ足で砂を蹴って出て行くような姿を想い起こして、あんまり快く読めないできました。確かに、どこかへ出かけていって、そこで自分が受け入れてもらえないという経験は、気分のいい経験ではありません。恨みも残るかも。だけれども、そんな恨みなど、足の裏についた埃のようなものではないか。自分を受け入れてもらえないかった恨みなど、足の裏の埃と一緒に払い落として、顔を上げて、また新しい場所へと遣わされてゆくのだ。そこに神様が必ず新しい道を備えていてくださるのだと、そういう思いを言い表したものではないかと思ってみるのです。
★「宣教」というと、キリスト教に改心する人を生み出して、信徒を増やしていくことと考えられがちです。でも、ここでは信徒を増やすことにはまったく関心が向けられていません。悔い改めるというのは、心の向きを変えるということ。シンプルに、単純率直に生き、自分を迎え入れてくれる人の真心を感謝して受けとめ、一人の裸の人間である自分として、もう一人の裸の誰かと出会い、その人の手を取って語りかけ、その人と触れあい知り合って、そのことが、人が調子を崩している状況から、悪霊を追い出し、病人を癒す働きとなったらいい。そして、自分が受け入れられなかったとしても、足の埃を払って、また前へと進んでいくこと。それが宣教の働きなのでしょう。