日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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3月25日の週報コラム「ひだり手」

「〈小さな信〉をつなげられて」

〈ここに12年間も出血の止まらない女がいた。……イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。……「わたしの服に触れたのはだれか」。……女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」。〉(マルコによる福音書5章25~34節)

★神様は、弱く、小さく、惨めに思える者をこそ、敢えて選び分かち、愛して、救いの約束を果たす神様だと、そう信じて生き通されたのがイエス様でした。だから、イエス様は自分の服の裾に誰かが触れた、そのわずかな感触も捨て置くことなく探し回り、見つけ出される。それがイエス様の「信」です。この場面は、そんなイエス様の「信」と、この女性の「あの方の服にでも触れればいやしていただける」と独りつぶやいた小さな「信」とがつながった場面だと思うのです。
★クリスチャン、教会、信仰と言えば、ともすると、強くて大きな「信仰」を持たなければならないと思ってしまいがちです。でもそれは大いなる誤解です。わたしたちは、生まれる前に、この命一つに一つずつ、神様から「信」を与えられています。それは、「わたしのいのちは尊いもの」「わたしのいのちは価値あるもの」という小さな言葉。小さなそれが一つあれば十分です。それがどんなに小さかったとしても、イエス様は必ず、それを感じ受け、わたしたちが、貧しく、情けなく、惨めだと思っているそれを、宝物を探し求めるように探し求め、見つけ出し、わたしたちに近づいて、イエス様の「信」とわたしたちの「信」を繋げて下さる。わたしたちがなすべきことは、その小さなそれを、この女性のように、転げ出るような姿であってもイエス様のまえに、「自分の身に起こったことを、ありのままに」打ち明けることなのでしょう。
by oji-church | 2018-03-29 15:43 | 牧師からのメッセ-ジ