3月11日の週報コラム「ひだり手」
〈乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を描くし、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。……彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた〉(イザヤ書53章2~5節)。
★ここには、とても苦しんでいる人が出てきます。みんなから馬鹿にされ、苦しんでいるのに無視されて、見捨てられてしまう人。しかもこの人は何も悪いことをしたわけでもないのに、です。そんなふうに苦しみたい人っているでしょうか。でも聖書には、この人が苦しんだオカゲで、わたしたちに平和が与えられ、わたしたちは癒された(病気が治った)と書かれています。誰かが苦しんだオカゲで、平和が与えられ、病気が治るんだったら、じゃあ「誰かわたしのために苦しんで! 傷ついて!」って頼むことはできるでしょうか。僕はなかなか、そうは思えません。
★そんなことを考えていた時、ある一人の人のことが思い浮かんできました。石牟礼道子さんという人。2月10日に90歳で亡くなられました。この人は『苦海浄土』という本を書きました。石牟礼さんは、チッソという会社が海に流した毒によって体を冒されて、多くの人が苦しんで苦しんで亡くなっていった、その水俣の人たちの苦しみを見て、心が痛んで、水俣の人たちに代わって、水俣の人たちの言葉で、この水俣の人たちの苦しみや悲しみを、そして、それでも一生懸命に生きる水俣の人たちの姿を文章に書くのです。(2月25日教会学校礼拝説教より・つづく)