10月29日の週報コラム「ひだり手」
〈安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか〉(マルコによる福音書3章4節)
★以前、ある牧師さんがこんな言葉を語っていたことを伝え聞きました。「神様が許しておられるのは、共に生きることだけ」。ひっくり返せば、神様は「共に生きること」以外は全部禁じておられるという意味にもなるでしょう。わたしたちの生き方を律する神様の厳しさが伝わってきます。だけれども、それはまた、もう一度ひっくり返せば、「共に生きる」ためならば、どんなことでも神様はわたしたちに許して下さっておられるということです。
★いかに自分が「正しく」生きるか、あるいはいかに自分が「救われる」か、ということが人生の目的なのではなくて、いかにして「共にいきる」か、ということこそが、わたしたちの生き方の一番大切な目的なのだということです。
★いかにして「共に生きるか」。それをわたしたちの人生の一番の目的として生きようとするとき、その一番の土台となるのは、何よりもまず、このわたし自身が、どうあれ「生きること」を「ゆるされている」ということなのではないでしょうか。神様はわたしたち一人ひとりに、わたしたちの姿がどうあれ、何よりも先ず「生きていていいんだ」とゆるしの声を呼びかけておられる。このことをわたしたちが本当に心の奥底に刻むとき、わたしたちの生き方は、「共に生きなければならない」という義務としての生き方から、「ともに生きていい」という喜びに溢れた「ゆるしとしての生き方」に変えられていくのではないかと思うのです。
★いま、将来への不安から、いたるところで自分中心と、他者への不寛容が、黒雲のように世界を覆っていくような時代の中、「~してはならない」生き方、「~しなければならない」生き方から、「~してもよい」生き方、「生きていていい」と呼び交わす生き方、「共に生きていい」というゆるしの声を喜んで受けとめる生き方、「ゆるしとしての生き方」を、見つけ出してゆきたいと願うのです。