10月22日の週報コラム「ひだり手」
〈安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある〉(マルコによる福音書2章27~28節)
★今選挙の真最中で街には、「強く、勇ましく、人を圧倒する」言葉が各所に響いています。わたしたちは「強く、勇ましく、人を圧倒する」ことが「いいこと」だと思っています。でも自分自身を振り返ると、弱く、臆病で、人を圧倒しもしない自分に不甲斐なさを感じるものです。でも人間のほんとうの姿って、「強く、勇ましく、人を圧倒する」ものなのでしょうか。
★イエス様の弟子たちが安息日に、麦の穂を摘んで食べたことを見とがめて「安息日にしてはならないことをした」とクレームを付けてきたファリサイ派の人々たちにイエス様が応えた言葉が、上の言葉です。「安息日は人のために定められた」。ここで語られる「人」というのは、道端の麦の穂をちょっと摘んで口に放り込んでみるような、「弱く、臆病で、人を圧倒しもしない人」のことでしょう。安息日は、神様がこの世界を創られて、休まれたことを覚える日です。安息日が「弱く、臆病で、人を圧倒しもしない人」のためにあるということは、この世界それ自体がそのような人のために創られたということでしょう。
★「ああ、思った通り、やさしそうな人でよかった」。「今日帰ったら、お母さん、起きてるといいな」。「ええ? 今日ママ、家にいるの?」。どれも、子ども食堂に来ている子どもたちの口から出た、小さな小さな言葉です。人を圧倒することもなく、臆病で、弱い言葉です。そんな小さな声と言葉が、実はわたしたちの日常・普段の生活の傍らには幾つも響いています。神様は、そんな人間のために、そんな人間に向かって、そんな人間を大事にするために、そんな人間に焦点を合わせ、そんな人間を目指して、安息日を与えられたのだ。この世界を造られたのだ。そして今日も今も働いておられるのだ、そう思ってこの世界をもう一度、見渡してみるのです。