5月21日の週報コラム「ひだり手」
★創世記2章で、神様は最初に大地を造ります。その大地から最初の人を造り、人が大地を耕し守るようにされます。更にその最初の人からもう一人の人を造ります。大地と最初の人ともう一人の人。この三者の中で、一つのものが別のものの「道具」のようにみなされているものは一つもありません。人は大地を「道具」のように、好き勝手に使うのではなく、耕し守り、世話する役割を与えられています。二人目の人は「彼に合う助ける者」と言われていますが、決して一人目の人を「助ける」ためだけに造られた「道具」ではありません。「わたしの骨の骨。わたしの肉の肉」と言われているように、「同じ」立場の存在として「助け合う」ことが目指されいます。創造物語の中では、誰も誰かの「道具」とされてはならないということが語られているのだと思えます。人は命は、「道具」ではなく「目的」として、その人・命が、守られ大切にされ、喜んでいきいきと生きることができることを目指して、お互いに出会い、結ばれていくものなのだということ。
★そもそも、神様はこの世界・命を・人間をどのように造られただろうか。神様は、この世界・命・人間を創られご覧になって「見よ、それは極めて良かった」という最上の喜びの声を挙げられました。自分の都合に合わせた「道具」としてではなく、ただこの世界があること、命が生きていること、人間が生まれ、生きていることそのことを「喜ぶ」ために、神様はこの世界を、命を、人間を造られたということです。「道具」としてではなく「目的」として出会い、結び合うということを、一言で言い表す言葉があります。「愛する」ということです。
★いま、わたしたちの暮らす社会の中で、どんどんと人と命の「道具化」が進められているように思えてなりません。聖書の創造物語はわたしたちを命の原点に立ち帰らせてくれます。