7月17日の週報コラム「ひだり手」
〈神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。〉(コリントの信徒への手紙二第2章14節)。
★ここで「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせる」と言われているのは、どうやら凱旋行進に勝軍の兵としてではなく、敗れた側の捕虜として繋がれた姿で神はわたしたちを行進に連ならせるという意味ではないかと思われます。すると「キリストを知るという知識の香り」というのは、あまり「いい香り」ではないように思われてきます。しかしこの「神様の捕虜」としての行進の中には、イエス様も共に連なっていることが含意されてもいるように思われるのです。逮捕され、茨の冠をかぶせられ、叩かれ、唾を吐きかけられ、十字架に掛けられるために引かれていくイエス様の姿がそこに重ねられているのではないかと思うのです。
★『讃美歌21』の364番の4節はこんな歌詞です。「大いなる命の主、人の目には見えねど、神の国はここにあり」。「香り」は目には見えません。けれども「香り」は大事なことをいろいろとわたしたちに思い起こさせてくれます。364番にはこのように歌われています。「強き主、母のごと、すべてのものを支え、昼も夜もはぐくむ主、いざホサナわが母。やさしき父のごと、その慈しみ絶えず、病む者らを抱きたもう、いざ、ホサナ、わが父。年老い、弱れども、静かな配慮に満ち、知恵と理解、限りなし、いざホサナ、老いし主。若さにかがやく主、正義を叫び求め、われを忘れ、戦う主、いざ、ホサナ、若き主」。ここで母として、父として、老人として、そして若者として語られる主、イエス様の姿は、思い描いてみればどれも、香水のようにいい匂いのするイエス様ではないように思われます。どちらかと言えば、汗の匂いがしてくるようでもあります。しかしそのイエス様の汗の匂いこそが、神に献げられる良い香りなのでしょう。