7月10日の週報コラム「ひだり手」
〈彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた〉(イザヤ書53章5節)。
★最近テレビを点けると、芸能人や有名人の不倫や不祥事が次々と取り上げられて、それを追いかけ回し、騒ぎ立てる様子に出くわして、うんざりしてテレビを消すことが続いています。それは確かに問題ある振る舞いではあるでしょう。けれども、それを追いかけ回し騒ぎ立て断罪する声は、いずれも他人事なのです。その問題ある振る舞いをわがこととして受けとめて、自分自身も背負っている人間としての「悲しみ」として受けとめようという人は一人もいません。そうして、しばらくしてまた別の目立った事件が起これば、すぐに忘れ去られてしまいます。
★人の問題ある振る舞いを、しばらくして忘れ去り、それで問題としなくなる。それを「ゆるし」と呼ぶのなら、それは恐らく本当の「ゆるし」ではないでしょう。本当の「ゆるし」とは恐らく、人の問題ある振る舞いを、自分自身の「痛み」として受けとめて、そしてその「痛み」が自分自身も人間として生きる中で背負っている「悲しみ」に結晶する時、そのとき初めて本当の「ゆるし」というものがわたしたちにもとを訪れるのでしょう。
★イエス様は人の問題ある振る舞いに対して、それを他人事とはされない。それを自分自身の傷、痛み、悲しみとして受けとめて、それを自分自身のこととして担うことを通じて、本当の「ゆるし」を導き出されるのです。ゆるしというのは、痛みの向こうにあるものなのだということ。この「痛み」「悲しみ」ということを見ない「ゆるし」は、かえって人間同士をバラバラの他人事、、他人同士に遠ざけてしまうことでしょう。